〈真田守信〉「京都で石合戦死亡」の記録が存在する

真田家の宿坊・高野山蓮華定院の記録に、元和4年(1618)5月5日「京都に於て印地打ち成され、御死去候」と大八の死亡記事がある。松代真田家の正史『左衛門佐君伝記稿』や『玉露叢』にも大八夭逝の記事があり、「死亡記録の存在」自体は確実である。初出確認は小林計一郎編『真田幸村のすべて』(1989)等。

検証リサーチ

「〈真田守信〉「京都で石合戦死亡」の記録が存在する」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 85 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

「石合戦で死んだ」と書く記録(蓮華定院覚書)の存在は史実。ただし原文に年はなく元和4年は断定不可。死が事実か偽装かは諸説あり。

くわしい根拠

結論

区分「史実」はおおむね妥当だが、「何が史実なのか」を絞る必要がある。「真田大八(のちの真田守信とされる人物)が石合戦で死んだ、と書いた記録が存在する」ことは確かで、原文は高野山蓮華定院が真田家に出した「蓮華定院覚書」である[1]。ただし二点、図鑑の書き方に直すべきところがある。第一に、原文には「五月五日」とあるだけで年が書かれていない[1]。「元和4年(1618)」は原文にない年である。第二に、「大八が本当に石合戦で死んだのか」は今も決着していない。ここは「諸説あり」に近い。

この話が最初に出てくる史料

県立長野図書館が2022年にまとめた調査によると、記事の原文は「大八様 五月五日於京都印地打御死去被成候」で、原本は長野市の原家文書として伝わる。写しは『信濃史料』第21巻(p.461-462)、小林計一郎校注『真田史料集』(1966)所収の「左衛門佐君伝記稿 蓮華定院書面」(p.357)、長野県立歴史館蔵『君山合偏』25、『戦国遺文 真田氏編』第3巻(2020)に載り、いずれも同じ「蓮華定院覚書」の写しと考えられている[1]。

つまり初出は同時代の書状や日記ではなく、寺が出した覚書と、その写しである。しかも『君山合偏』や『真田家御事蹟稿』(『左衛門佐君伝記稿』はその一部)は、旧松代藩士の飯島勝休が藩主の命で藩史編纂のために集めた史料群(飯島文庫)に含まれる[3]。図鑑が「松代真田家の正史」と呼ぶものは、江戸後期の藩史編纂の産物であって、大八と同時代の記録ではない。

年についても差がある。この記事を収める『信濃史料』巻二十一は「慶長一六年(1611)〜慶長一九年(1614)」の巻である[2]。編者は大坂の陣より前の出来事として並べたことになる。一方、仙台真田氏をPRする蔵王町のサイトの年表は、同じ出来事を元和4年(1618)に置く[9]。原文に年がない以上、どちらも後世の推定である。

なお「印地打ち」とは石を投げ合う石合戦のことで、死傷者が多く出て禁止されたこともあり、江戸時代には5月5日(端午の節句)の男の子の遊びになった[6]。記録の「五月五日」は、この行事の日と合っている。

異説や否定説

大きく二つに割れている。

一つは「記録は偽情報」説である。仙台真田家に伝わる説明では、大八は生きて片倉家にかくまわれており、「真田大八は京都で死亡していた」という話は片倉重長か伊達政宗が流した偽情報だという[9]。実際、伊達家は幕府から「逆賊の子を召し抱えたのではないか」と問われたとき、この死亡記録を出して弁明したと伝えられる[5]。

もう一つは「記録どおり死んだ」説である。江戸中期に仙台藩士の家系をまとめた『伊達世臣家譜』は、守信を信繁の子ではなく、信繁の叔父にあたる真田信尹の子孫で、父は政信とする[5]。この説に立てば、蓮華定院の記録は素直に事実であり、仙台真田家は大八の子孫ではないことになる。

「死亡記録がある」という事実は動かない。動かないまま、それを「本当の死」と読むか「隠すための細工」と読むかで、仙台真田家の出自の評価がまるごと変わる。そこが未決着である。

後世にどう語られたか

図鑑が根拠にあげる『玉露叢』は、延宝2年(1674)の自序をもつ雑史で、慶長3年(1598)から1681年までの幕府の事歴や「市井の風聞」を集めた編年史である[7]。噂を含む後世の書物であり、同時代史料としては扱えない。

地元では今も伝承が生きている。白石市の公式サイトは「阿梅・大八の墓」を紹介し、「おかねは早世し、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、伊達家に召し抱えられています」と書く[8]。大河ドラマ『真田丸』(2016)以降、この話は広く知られるようになった。

読者が次に抱く疑問

Q1 大八は何歳で死んだことになるのか。A 年が定まらないので年齢も定まらない。通説の慶長17年(1612)生まれを前提にすると、『信濃史料』の配列どおりなら数えで3歳前後、元和4年説なら7歳前後になる。原文に年齢は書かれていない[1][2][9]。

Q2 死亡記録があるのに、なぜ生存説が消えないのか。A 伊達家が幕府への弁明にこの記録を使ったと伝わるため、「弁明のために都合よく持ち出された記録」と読む余地が残るからである[5][9]。決め手は、仙台側の系譜史料をどう評価するかにかかっている[5]。

図鑑の記述への提案

  1. 「元和4年(1618)5月5日」は年を断定しない。原文は「五月五日」だけで年がない[1]。『信濃史料』は慶長16〜19年の巻に収め[2]、元和4年とするのは仙台真田氏側の年表である[9]。「年次は史料によって異なる」と書き換えたい。
  2. 「蓮華定院の記録」は、より正確に「蓮華定院覚書」(原本は長野市原家文書)と書き、過去帳ではないことを示す[1]。
  3. 「初出確認は『真田幸村のすべて』(1989)」は、翻刻としては1966年の『真田史料集』までさかのぼれる[1]。
  4. 『玉露叢』は風聞も収める後世の編年史であること、『左衛門佐君伝記稿』は幕末の藩史編纂の産物であることを一言添える[3][7]。
  5. 区分は「史実」のままでよいが、「死亡記録が存在すること」が史実であり、「大八が実際に石合戦で死んだか」は諸説あり、と対象を分けて書く[5][9]。

出典

  1. レファレンス協同データベース「真田大八(守信)の生没年等が記述された史料を探している」(県立長野図書館、2022年)(回答)
    石合戦死亡記事の原文は「蓮華定院覚書」で、原本は長野市原家文書、写しが『信濃史料』第21巻・『真田史料集』(1966)・『君山合偏』25・『戦国遺文 真田氏編』第3巻に載り、原文には年が書かれていない。
    「・「原文書」 埴科郡松代町(現長野市松代町)原淳造氏所蔵 『信濃史料 第21巻』 信濃史料刊行会編 信濃史料刊行会 1970 【N208/28A/21】p.461-462に、「大八様 五月五日於京都印地打御死去被成候」との記述があった。また、以下の資料に掲載されている史料にも類似の記述を確認できる。・「左衛門佐君伝記稿 蓮華定院書面」 『真田史料集』 小林計一郎校注 人物往来社 1966.4 【N208/68】 p.357・「蓮華定院覚書写」 『君山合偏 25』 長野県立歴史館所蔵・「蓮華定院覚書」 長野市原家文書 『戦国遺文 真田氏編第3巻』 東京堂出版 2020.12 【210.47/クモ/3】 p.230-232これらの史料は、同一の文書(「蓮華定院覚書」)からの写しと考えられる。」
  2. 信濃史料 巻二十一 慶長一六年(1611)~慶長一九年(1614)(国立国会図書館サーチ)(タイトル)
    この死亡記事を収める『信濃史料』巻二十一は慶長16年から慶長19年を扱う巻であり、編者は大坂の陣より前として配列している。
    「信濃史料 巻二十一 慶長一六年(1611)~慶長一九年(1614)」
  3. 信濃国飯島文庫史料(マイクロフィルム収集)/国文学研究資料館(解説)
    『真田家御事蹟稿』や『君山合偏』は、旧松代藩士が藩主の命で藩史編纂のために集めた飯島文庫の史料であり、同時代の一次史料ではない。
    「飯島文庫は旧松代藩士飯島勝休が、松代藩主の命で、藩史編纂のため収集した史料である。当館では、飯島文庫約500点のうち、真田家初期史料集の類を撮影した。具体的には、「真田家御事蹟稿」61巻と「真田家御事跡続編稿」10巻、これに関連した「君山合偏」「御事跡類典」などである。」
  4. 真田守信 - Wikipedia(生涯)
    蓮華定院の記録の文言は「5月5日、京都に於て印地打ち成され、御死去候」であり、年は特定されず「ある年の」記録として紹介されている。
    「大八は、ある年の高野山蓮華定院(真田氏の高野山における菩提寺)の記録に「5月5日、京都に於て印地打ち成され、御死去候」と、石投げで死亡したという記録もある。」
  5. 真田守信 - Wikipedia(生涯(伊達家の弁明・伊達世臣家譜))
    伊達家は幕府への弁明にこの死亡記録を用いたと伝わる一方、江戸中期の『伊達世臣家譜』は守信を真田信尹の子孫・政信の子とする異説を伝える。
    「伊達家は、信繁の次子・大八は石投げで死んでいるとする前述の記録を持ち出して弁明し、守信は「幕臣である真田信尹の次男の真田政信の子」だと偽の報告を行った。幕府も厳密に調査すれば否定できた話であったが、伊達家との良好な関係も考慮し、これで結局お咎めなしとなった。 一方、通説では「偽の報告」として扱われているが、江戸中期に仙台藩士の家系をまとめた『伊達世臣家譜』によれば、守信は、信繁の叔父にあたる真田信尹の子孫で、父は政信とある。」
  6. 印地(いんじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク(デジタル大辞泉)(デジタル大辞泉「印地」)
    印地打ちとは石を投げ合う石合戦で、死傷者が出ることもあり、江戸時代には5月5日の男の子の遊びとされた。
    「川原などで、二手に分かれて小石を投げ合い勝負を争う遊び。鎌倉時代に盛んで、多くの死傷者が出て禁止されたこともあったが、江戸末期には5月5日の男の子の遊びとなった。石合戦。印地打ち。」
  7. 玉露叢(ぎょくろそう)とは? 意味や使い方 - コトバンク(世界大百科事典)(世界大百科事典「玉露叢」)
    『玉露叢』は延宝年間に自序をもつ後世の編年史で、幕府の事歴のほか「市井の風聞」も収める性格の書物である。
    「1598年(慶長3)豊臣秀吉病気のことより始まり,1681年2月までの幕府の事歴,市井の風聞,京都公家・寺社,軍役,参勤などに及び一種の編年史である。」
  8. 真田幸村公遺児阿梅・大八の墓 - 白石市ホームページ(本文)
    白石市は現在も、大八が片倉四郎兵衛守信と名乗って伊達家に仕えたとする地元の伝承を公式に紹介している。
    「やがて、阿梅は白石城主・片倉2代重長の後妻になり、阿菖蒲は田村定廣の妻となりましたが、おかねは早世し、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、伊達家に召し抱えられています。」
  9. 真田の郷・蔵王町 PR活動公式ホームページ「仙台真田氏物語」(story/03 大八の秘匿)
    仙台真田氏側は、大八の京都死亡情報を片倉重長か伊達政宗が流した偽情報と説明し、同サイトの年表はこの死亡を元和4年(1618)に置く。
    「また、大坂落城後数年の間に、「真田大八は京都で死亡していた」という情報が流布されました。これは明らかに偽情報であり、出所も不明ですが、おそらくは片倉重綱、あるいは伊達政宗が仕組んだものだと思われます。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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