河田長親
かわだ ながちか 1543〜1581
近江国野洲郡河田郷の土豪の子と伝わる。永禄2年(1559)、2度目の上洛中の長尾景虎(上杉謙信)に見出されて越後へ下向。奉行職、栖吉城主、厩橋城・沼田城城代を歴任し、のち越中魚津城・松倉城を拠点に越中方面の軍政を統括した。謙信没後は出家して禅忠と号し、御館の乱では景勝方を支援。天正9年(1581)、織田軍と対峙する最前線の松倉城で病死した。
ゆかりのお城
河田長親の逸話
- 〈河田長親〉元亀2年(1571)、老父を近江から呼び寄せた
- 〈河田長親〉月岡野の戦いで斎藤利治に大敗した
- 〈河田長親〉謙信の死に際し出家して「禅忠」と号した
- 〈河田長親〉御館の乱で「はじめ中立」だった
- 〈河田長親〉日吉大社の稚児として謙信に見出された美少年
- 〈河田長親〉古志長尾家の名跡を与えられたが長尾姓を辞退した
- 〈河田長親〉「長親」の名は謙信の命名(「長」は武運長久に通じる)
- 〈河田長親〉信長から「近江一国を与える」と誘降されたが拒否した
- 〈河田長親〉出世を聞いた近江の河田一族が越後へ移住した
- 〈河田長親〉松倉金山を経営し上杉家の財政を支えた
- 〈河田長親〉謙信の男色(衆道)の相手だった
- 〈河田長親〉魚津城で戦死した/魚津城の戦いを戦った