〈小山田信茂〉母・妻子も共に処刑された
『甲乱記』等は8歳の嫡男・老母・妻・3歳の娘も処刑されたと記す。高野山持明院『十輪院過去帳』の「幻朝童子」が嫡男に比定され傍証となる。一方、孫娘(養女)の天光院殿は松姫に連れられ八王子へ落ち延び、血脈を後世に伝えた。
検証リサーチ
「〈小山田信茂〉母・妻子も共に処刑された」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
家族処刑を書くのは軍記物語『甲乱記』(版本は1646年刊)だけ。同時代に近い『信長公記』は信茂のみ記し日付も3月7日。区分は「諸説あり」が妥当です。
くわしい根拠
結論
「信茂といっしょに老母・妻・子どもも処刑された」という話の出どころは、江戸時代に版本(はんぽん=木版の印刷本)が出た軍記物語『甲乱記』です[1][4]。より同時代に近い『信長公記』は、信茂の処刑は記しますが、家族には一言も触れません[3]。日付も『信長公記』は3月7日条、『甲乱記』の書き方だと3月24日にあたり、食い違います[3][5]。よって「史実」と言い切るのは強すぎます。「軍記に由来する説」=諸説ありが妥当です。
この話が最初に出てくる史料
今たどれるいちばん古い記述は『甲乱記』下巻「小山田出羽守心替并勝頼公最後之事」です。原文はこうです[1]。
天罰忽に当つて、勝頼生害以後、十三日と申すに、城介殿へ召出されて、押へて取つて刺殺さる。我のみならず、七十に余る老母、年頃相馴れし妻、八歳になる男子、三歳になる女子共に、皆刺殺さる。
「城介殿」は織田信忠のことです。勝頼の自害(3月11日)から数えて「十三日」目なので3月24日にあたります。ただし原文に「三月二十四日」という日付そのものは書かれていません。この箇所には「善光寺」も出てきません。子も「八歳になる男子」とあるだけで「嫡男」とは書いていません。
そして大事なのは、この一文が「天罰忽に当つて」(天罰がたちまち下って)という因果応報(悪事の報いが返るという考え)の説教の中に置かれていることです。裏切り者が報いを受けた、という物語の山場として書かれた文章なのです。同じ条の冒頭には、信茂の母は勝頼のもとに人質として置かれていて駒飼で行方をくらませた、とも書かれています[1]。逃げたはずの母がなぜ甲府で処刑されるのか、原文は説明しません。
『甲乱記』は著者も成立年もはっきりしません。天正10年8月に書かれたという説はありますが、その写本は所在不明で検証されていません。確かなのは版本が正保3年(1646年)に出たことだけです[4]。武田氏滅亡から60年以上あとです。近世の地誌『甲斐国志』も同じ話を載せますが、これはさらに後の編纂物です[5]。
異説や否定説
1. 『信長公記』には家族が出てこない。 巻十五の3月7日条は、信忠が甲府に入り「武田四郎勝頼一門親類家老之者尋捜而悉御成敗」と記し、その名簿に「小山田出羽守」を挙げるだけです[3]。老母も妻も子もいません。日付も3月7日で、3月24日ではありません。
2. 同じ『甲乱記』の中でも扱いが揺れる。 「武田一族并家僕の面々生害の事」の条では「葛山十郎信貞并に小山田出羽守信茂は、善光寺にて刺殺され」とだけあり、家族は出てきません[2]。処刑の場所を「善光寺」とするのはこちらの条です。
3.「幻朝童子」は決め手にならない。 過去帳(寺が死者の戒名と没日を記す帳面)から分かるのは戒名と日付だけです。これを8歳の嫡男に当てるのは現代の研究者による比定(推定であてはめること)で、処刑の証明ではありません[6]。
なお「信茂は処刑されず武蔵へ落ちのびた」という生存伝承もありますが、これは地元の言い伝えの域を出ません[5]。
後世にどう語られたか
事典や自治体の解説は、たいてい信茂本人だけを書きます。『日本人名大辞典』は「天正10年3月24日織田信長に甲府善光寺で殺された」とし[7]、甲府市の武田二十四将の紹介も「甲斐善光寺で処刑された」とだけ記します[8]。家族の処刑は一般向けの説明からは落ちやすい情報です。
孫娘(養女)とされる天光院殿についても、伝えは一つではありません。八王子・信松院の寺伝は「小山田信茂の四歳になる香貴姫」を松姫が連れて落ちのびたと伝えます[9]。一方、図鑑が採る研究では孫娘(養女)とされ、「香具姫」という名も確実な史料では確認できないとされています[6]。娘か孫娘か、名前が何かで一致していません。
読者が次に抱く疑問
Q. なぜ日付が3月7日と3月24日で違うの? 『信長公記』は信忠が甲府に入った日の条に、その後の処断をまとめて書いた可能性があります。『甲乱記』は勝頼自害からの日数で数えています。どちらが正しいか決める同時代の書状は、今のところ示されていません[1][3]。
Q. 「幻朝童子」=嫡男は確定なの? 確定ではありません。過去帳の戒名と『甲乱記』の「八歳になる男子」を結び付けた推定です[1][6]。
Q. 天光院殿は信茂の娘? 孫娘? 一致していません。寺伝は娘(香貴姫)、研究は孫娘(養女)です[6][9]。
図鑑の記述への提案
- 区分を「史実」→「諸説あり」に。 家族の処刑は『甲乱記』という軍記物語だけが伝え、同時代に近い『信長公記』は触れないためです[1][3]。
- 本文の書き換え案:「『甲乱記』(著者不詳の軍記物語。版本は正保3年=1646年刊)は、勝頼自害の13日後に信茂が織田信忠に呼び出されて刺殺され、70歳を超える老母・妻・8歳の男子・3歳の女子も皆殺されたと記す。近世の地誌『甲斐国志』も同様に伝え、3月24日とされてきた。ただし、より同時代に近い『信長公記』は3月7日条に信忠が甲府で武田一門・家老を捜し出して成敗したと記し、名簿に「小山田出羽守」を挙げるだけで家族には触れない。」
- 細部の直し:『甲乱記』の原文は「八歳になる男子」で「嫡男」とは書かない。処刑地を「善光寺」とするのは別の条であり、家族処刑の条には地名がない[1][2]。
- 「傍証となる」は言い過ぎ。「傍証とされるが、過去帳から分かるのは戒名と没日だけで、比定は研究者の推定」と書き分けたい[6]。
- 天光院殿は併記を。「孫娘(養女)とする説のほか、八王子・信松院の寺伝では信茂の娘『香貴姫』(当時4歳)とする」と加えると親切です[6][9]。
出典
- 甲乱記(ウィキソース・国史叢書本翻刻)(甲乱記 下「小山田出羽守心替并勝頼公最後之事」)『甲乱記』は、信茂が勝頼自害の13日後に織田信忠に呼び出されて刺殺され、70歳を超える老母・妻・8歳の男子・3歳の女子も皆殺されたと記す。
「天罰忽に当つて、勝頼生害以後、十三日と申すに、城介殿へ召出されて、押へて取つて刺殺さる。我のみならず、七十に余る老母、年頃相馴れし妻、八歳になる男子、三歳になる女子共に、皆刺殺さる。」
- 甲乱記(ウィキソース・国史叢書本翻刻)(甲乱記 下「武田一族并家僕の面々生害の事」)同じ『甲乱記』でも武田家臣の処断を列挙する条では、信茂は葛山信貞とともに善光寺で刺殺されたとのみ記され、家族は挙げられない。
「葛山十郎信貞并に小山田出羽守信茂は、善光寺にて刺殺され、今井肥前守・子息総一郎・岩手右衛門尉は、甲州南山にて誅せられ」
- 信長公記(ウィキソース)(巻十五(九)信長公御乱入之事)『信長公記』巻十五は3月7日条で信忠が甲府に入り武田一門・家老を捜し出して成敗したと記し、名簿に小山田出羽守を挙げるが家族には触れない。
「三月七日 三位中将信忠卿上ノ諏訪より甲府に至而御入国 一条蔵人 私宅に被居御陣 武田四郎勝頼一門親類家老之者尋捜而悉御成敗」
- 甲乱記 - Wikipedia(成立年代と著者)『甲乱記』は著者・成立年代不詳の軍記物語で、版本は正保3年(1646年)刊、天正10年成立説は所在不明写本に基づき未検証である。
「成立年代は不詳であるが、後述の写本系諸本のうち1904年に佐村八郎が紹介している『甲乱之記』巻末には天正10年(1582年)8月に小田原(神奈川県小田原市)で執筆された記述があるとされるが、現在この写本は所在が確認されず、検証されていない。版本では江戸時代の正保3年(1646年)に開版したと記されており、成立の下限は同年とされる。」
- 小山田信茂 - Wikipedia(生涯(武田氏滅亡後))家族もろとも3月24日に甲斐善光寺で処刑されたとする記述は『甲乱記』『甲斐国志』に拠るものとして整理されている。
「『甲乱記』『甲斐国志』では、3月24日、小山田信茂は甲斐善光寺で、8歳の嫡男、老母、妻、3歳の女子(娘)とともに一緒に処刑された、と記されている」
- 小山田信茂 - Wikipedia(妻妾・子女)高野山持明院『十輪院過去帳』の「幻朝童子」を『甲乱記』の「八歳ニナル男子」に当てるのは、現代の研究による比定である。
「『甲乱記』では信茂とともに処刑された元服前の「八歳ニナル男子」の存在を記し、高野山持明院『十輪院過去帳』ではこれに該当すると見られる「幻朝童子」の存在を記している」
- 小山田信茂とは(デジタル版 日本人名大辞典+Plus/コトバンク)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「小山田信茂」)事典類は信茂本人が天正10年3月24日に甲府善光寺で殺されたことのみを記し、家族の処刑には触れない。
「武田勝頼 の 滅亡 のときうらぎったが,天正(てんしょう)10年3月24日織田信長に 甲府善光寺 で殺された。44歳。」
- 甲府市/小山田左兵衛尉信茂(武田二十四将)(武田二十四将 小山田左兵衛尉信茂)甲府市の公式解説も、信茂が武田氏滅亡後に織田軍に捕らわれ甲斐善光寺で処刑されたことのみを記す。
「小山田氏は、武田家の一門衆(御親類衆)の待遇を受けた名族で、中津森(後に谷村)に館を構えて、都留郡を支配した豪族であった。勝頼の時には、武田信豊とともに武田氏を支えた。武田氏滅亡後、織田軍に捕らわれ、甲斐善光寺で処刑された。」
- 松姫さまの生涯 - 八王子金龍山 信松院(松姫さまの生涯)信松院の寺伝は、松姫が連れて落ちのびた姫を「小山田信茂の四歳になる香貴姫」とし、孫娘(養女)とする説とは食い違う。
「その時松姫さまは、兄盛信の四歳になる督姫を連れ、さらに途中韮崎の新府城に立寄って勝頼の姫で四歳になる貞姫や、小山田信茂の四歳になる香貴姫も伴います。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。