〈本多忠勝〉一言坂の殿軍
元亀3年(1572)、撤退する徳川軍の殿軍を務め本隊を無事逃がしたことは『三河物語』系統など徳川側諸記録が一致して伝える。一方「小杉左近が道を空けた」美談や、『名将言行録』の「敵味方の間を静かに馬を歩ませた」描写、「漢の張良・樊噲もかくや」の賛辞は後世の軍記・逸話集由来の脚色。
検証リサーチ
「〈本多忠勝〉一言坂の殿軍」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
諸説あり。忠勝の武勇を伝える最古の記録は武田側の『甲陽軍鑑』で、徳川側『三河物語』の一言坂の場面に忠勝は登場しない。狂歌の舞台も原典では「見付坂」。
くわしい根拠
結論
一言坂で本多忠勝が奮戦したこと自体は、江戸時代初期の記録が伝えています。ただし図鑑の書き方には直すべき点が三つあります。第一に、この話の最古の記録は徳川側ではなく武田側の『甲陽軍鑑』です[1]。第二に、徳川側の『三河物語』の一言坂の場面に本多忠勝は一人も出てきません[3]。第三に、有名な狂歌が立てられた場所は、最古の記録でも幕府の公式記録でも「一言坂」ではなく「見付坂・見付の台」です[2][4]。区分は「史実」ではなく「諸説あり」が実態に合っています。
この話が最初に出てくる史料
同時代の史料(当時書かれた手紙や日記)に一言坂の戦いを記したものは、今のところ確認できません。『信長公記』にも出てきません(method_note参照)。
いま確認できる最古の記録は『甲陽軍鑑』品第卅九です。武田家の家臣の遺した記録をもとに、江戸時代のはじめに軍学者の小幡景憲がまとめた軍書(軍記の本)です[5]。そこにはこうあります。「そこにて本多平八郎其歳廿五歳なれ共家康したにおいて度々の誉有よし……彼平八郎甲にくろきかの角を立身命をおしまず敵味方の間へのり入引たる様子は」[1]。つまり敵である武田側が、25歳の忠勝の引き際をほめているわけです。忠勝は天文17年(1548)生まれなので、元亀3年で数え25歳。年齢は合います[6]。
続けて狂歌の話が出ます。「其上三河武者十人が七八人は唐の頭をかけて出る是も過たりと小杉右近助と申、信玄公御旗本の近習歌によみてみつけ坂にたつる其歌は家康に過たる物は二ツある唐の頭に本多平八とよむ」[2]。
ここで重要なのは三点です。(一)名前は「小杉右近助」で、「左近」ではありません。(二)歌を立てた場所は「みつけ坂」で、一言坂ではありません。(三)「道を空けた」という場面はどこにもありません。
異説や否定説
徳川側の代表的な記録『三河物語』(大久保忠教著、元和8年ごろ成立)[7]は、一言坂の名を出します。しかしその中身は、「頓而ひとことの坂之おり立にてのり付けるに、梅津はしきりのり付られ而ならざれば、がん石をこそのりおろしける。其時大久保勘七郎は、とつて帰し而てつぽうを打けるに、一二間にて打はづす。」というものです[3]。主役は大久保勘七郎で、忠勝の名前は出ません。著者が大久保一族の功績を子孫に書き残す本だった事情もありますが、「徳川側の諸記録が一致して忠勝の殿軍を伝える」とは言えません。
つまり、「一言坂」という地名は徳川側から、「本多平八の武勇」は武田側から来ています。別々の史料の情報が後で一つに合わさったのです。
後世にどう語られたか
幕府が編んだ『東照宮御実紀附録』巻二で、両者が合流します。「又この日、本多平八郎忠勝度々奮戦して敵を追払ひ、君にも難なく浜松へ御帰城あり……甲州人が、からのかしらに本多平八といふ狂句を書きて、見付の台へ立てしもこの時の事なり」[4]。同じ段には大久保勘七の鉄砲の話も並びます。注意したいのは、**幕府の記録でも狂句を立てた場所は「見付の台」**で、小杉の名も出ないことです。
いま広く知られる「小杉左近が道を空け、忠勝が名を尋ねて礼を言った」という美談は、これらのどこにも見当たりません。事典にも「信玄の近習小杉左近はその武勇を……うたったという」と伝聞の形で載り[6]、この筋書きを詳しく書くウィキペディアの記事は出典が示されていません[9]。近代以降の読み物で整えられた形と考えるのが自然です。
一方、図鑑が「後世の脚色」とする「敵味方の間を静かに馬を歩ませた」という描写は、完全な作り話ではありません。原型は『甲陽軍鑑』の「敵味方の間へのり入引たる」にあります[1]。誇張はあっても、出所は最古の記録です。
読者が次に抱く疑問
Q. 「唐の頭」とは何ですか。 ヤクの毛で作った兜の飾りで、当時の輸入品です。『甲陽軍鑑』には、家康が上杉謙信への贈り物として「からのかしら一頭」を送った話も載っており、珍重されていたことがわかります[2]。
Q. なぜ敵の武田側の本が徳川の家臣をほめるのですか。 『甲陽軍鑑』は軍学(戦の教科書)の本で、味方・敵を問わず「よい武士の型」を示す狙いがありました。学術的にも「戦国末の様相を伝える軍書」として、物語性を含めて読まれています[7]。ほめ言葉がそのまま事実の証明になるわけではありません。
Q. 日付は10月13日で確かですか。 『甲陽軍鑑』は「十月中旬」としか書きません[1]。細かい日付は初出史料にはありません。
図鑑の記述への提案
- 区分を「史実」から「諸説あり」へ。同時代史料がなく、最古の記録が江戸初期の軍記だからです[1][5]。
- 「『三河物語』系統など徳川側諸記録が一致して伝える」を削除し、「最古の記録は武田側の『甲陽軍鑑』品第卅九。徳川側の『三河物語』の一言坂の記述に忠勝は登場しない」に改めてください[1][3]。
- 「小杉左近」に「(『甲陽軍鑑』では「小杉右近助」)」と注記を。
- 「狂歌が立てられたのは『甲陽軍鑑』でも『東照宮御実紀附録』でも「見付坂・見付の台」であり、一言坂ではない」を追記[2][4]。
- 「敵味方の間を……」を後世の脚色から外し、「原型は『甲陽軍鑑』にあり、表現が後に整えられた」と書き分けてください[1]。
- 現地の説明板や観光案内は「味方を一騎も欠けることなく脱出」と伝えますが[8]、これは史料でなく現地の伝承として扱うのが正確です。
出典
- 甲陽軍鑑 品第卅九(ウィキソース、国立国会図書館本翻刻)(品第卅九(元亀三壬申年十月中旬の条))本多忠勝の一言坂前後の働きを伝える現存最古の記録は武田側の『甲陽軍鑑』品第卅九で、元亀3年(壬申)十月中旬のこととし、25歳の忠勝が「敵味方の間へのり入引たる」と評している。
「そこにて本多平八郎其歳廿五歳なれ共家康したにおいて度々の誉有よし、内々武田の家へも聞ゆる様なりつるが彼平八郎甲(かぶと)にくろきかの角を立身命をおしまず敵味方の間へのり入引たる様子は甲州にてむかしの足軽大将原美濃守、横田備中、小幡山城、多田淡路、山本勘介此五人以来は信玄上公の御家にも多なき人に相似たり、家康少身の家に過たる平八郎也」
- 甲陽軍鑑 品第卅九(狂歌の条)(品第卅九(唐の頭・狂歌の条))『甲陽軍鑑』では狂歌を詠んだ人物は「小杉右近助」であり、歌を立てた場所は「みつけ坂」で、一言坂とは書かれていない。
「其上三河武者十人が七八人は唐の頭をかけて出る是も過たりと小杉右近助と申、信玄公御旗本の近習歌によみてみつけ坂にたつる其歌は家康に過たる物は二ツある唐の頭に本多平八とよむ」
- 三河物語(ウィキソース、国立国会図書館本翻刻)(第三下・元亀三年壬申の条)徳川側の『三河物語』は「ひとことの坂」の名を記すが、その場面の主役は大久保勘七郎の鉄砲の失敗であり、本多忠勝は登場しない。
「頓而ひとことの坂之おり立にてのり付けるに、梅津はしきりのり付られ而ならざれば、がん石をこそのりおろしける。其時大久保勘七郎は、とつて帰し而てつぽうを打けるに、一二間にて打はづす。」
- 東照宮御実紀附録 巻二(ウィキソース)(巻二・見付の退口の条(原注「柏崎物語」))幕府編纂の『東照宮御実紀附録』は忠勝の奮戦と一言坂の話を同じ段に並べるが、狂句を立てた場所は「見付の台」とし、小杉の名も出さない。
「又この日、本多平八郎忠勝度々奮戦して敵を追払ひ、君にも難なく浜松へ御帰城あり、【本多忠勝の奮戦】御途中より成瀬吉右衛門正一もて、忠勝が許へ仰下されしは、今日の働日頃の平八にあらず、たゞ八幡大菩薩の出現ありて、味方を加護し給ひしと思召す由、御感賞ありしとぞ、甲州人が、からのかしらに本多平八といふ狂句を書きて、見付の台へ立てしもこの時の事なり」
- 甲陽軍鑑(コトバンク/日本大百科全書ほか)(日本大百科全書(ニッポニカ)「甲陽軍鑑」)『甲陽軍鑑』は江戸初期に成立した軍記で、年代や事実の錯誤があり武田氏の実録とはいえないと評価されている。
「年代や事実の錯誤がみられ、武田氏の実録とはいえないが、甲州武士の思考や行動が生々しい迫力で綴(つづ)られており」
- 本多忠勝(コトバンク/世界大百科事典ほか)(改訂新版 世界大百科事典「本多忠勝」)忠勝は天文17年(1548)生まれで、狂歌の作者を「信玄の近習小杉左近」とする説は事典でも「という」という伝聞の形で紹介されている。
「本多忠勝 (ほんだただかつ)生没年:1548-1610(天文17-慶長15) 戦国末期~江戸初期に徳川家康に仕えた武将。酒井忠次,榊原康政,井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれ,徳川氏譜代家臣団の最上層を形成した。父は忠高,母は植村新六郎氏義の女。幼名鍋之助,通称平八郎。1560年(永禄3)尾張大高城の兵糧入れが初陣。武功により頭角をあらわし,66年寄騎(よりき)50人余を付属された。以後武田信玄との諸戦で勇戦し,信玄の近習小杉左近はその武勇を〈家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八〉とうたったという」
- 笹本正治「『甲陽軍鑑』に見る夢:戦国末の夢想」『日本文学』48巻7号、1999年、51-59頁(J-STAGE)(抄録)学術研究において『甲陽軍鑑』は戦国末の様相を伝える「軍書」として、物語性を含んだ書物として扱われている。
「戦国末の様相を伝える軍書である『甲陽軍鑑』には、神のお告げなどがあたる実夢、夢を買ったらその通りになったとする夢買い、はかなく実現しない夢などが、物語の背後に記されている。」
- 一言坂の戦跡(古戦場)|磐田市観光協会(観光スポット「一言坂の戦跡(古戦場)」解説文)現地の観光案内は、忠勝の防戦により徳川軍が一騎も欠けずに脱出したと伝えている(史料ではなく現地の伝承)。
「1572(元亀3)年、浜松城へ退却する途中徳川軍は一言坂で武田軍に追いつかれました。その際に家臣、本多忠勝(通称・平八郎)の必死の防戦により、徳川軍は味方を一騎も欠けることなく脱出に成功しました。」
- 小杉左近 - Wikipedia(補助)(「略歴」節)「小杉左近が道を空け、忠勝が名を尋ねた」という美談と「一言坂に落書があった」という筋書きは広く流布しているが、この記事自体が出典不備の指摘を受けている。
「本多忠勝はその隊の隊長に対し、「武士の情けを心得ているお方とお見受けする、名を伺いたい」と問うた。これに対し、隊の隊長は「小杉左近にござる。わしの気が変わらぬうちに早う行かれよ」と答えた。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。