〈長野業正〉憲政没落後も北条に従わなかった孤高の忠臣

近年の研究では、天文21年(1552)に憲政が武蔵を失うと箕輪長野氏は西上州諸将とともに憲政から離反したことが指摘されている(久保田順一)。「一貫した上杉忠臣」像は江戸期以降のイメージ。ただし北条氏へ全面従属した形跡も薄く、国衆として自立を保ち、景虎出兵にはいち早く呼応した。「忠義」ではなく「国衆の生存戦略」として読み直すのが現在の理解。

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