〈黒田官兵衛〉「我 人に媚びず 富貴を望まず」「水五訓」
座右銘として流布する前者は同時代史料での確認が取れず、近代の伝記・顕彰で定着した可能性が高い。「自ら活動して他を動かしむるは水なり」で始まる「水五訓」も如水真作とする根拠はなく、成立は近代とみられる仮託である。
検証リサーチ
「〈黒田官兵衛〉「我 人に媚びず 富貴を望まず」「水五訓」」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「水五訓」は伝説。最古の確認例は1929年の雑誌『キング』。一方「富貴を望まず」は1604年の墓碑銘と『黒田家譜』にさかのぼれ、「人に媚びず」だけが確認できない。
くわしい根拠
結論
この逸話には、性格のちがう二つの言葉がまとめて入っている。分けて考えたい。
「水五訓」は「伝説」でよい。江戸時代までの史料に見あたらず、いま確認できる最も古い例は1929年(昭和4年)の雑誌『キング』2月号にのった大野洪聲(おおの こうせい)の「繪入教訓 水五則」である[2]。国立国会図書館も、この格言の由来は「不明」と回答している[1]。如水の没年(1604年)とは300年以上の開きがある[8]。
いっぽう「我、人に媚びず、富貴を望まず」は、まるごと作り話とは言いにくい。後半の「富貴を望まず」は、如水が没した慶長9年(1604年)に建てられた墓碑の文と、江戸時代の『黒田家譜』に同じ趣旨の言葉が残っているからだ[4][5][6]。ただし前半の「人に媚びず」にあたる語は、筆者が確認した範囲では出てこない。四字ずつ対にした座右銘の形は、近代の顕彰(けんしょう=偉人をたたえること)の中で整えられた可能性が高い。区分は「諸説あり」が近い。
この話が最初に出てくる史料
水五訓。国立国会図書館は1990年の時点で「黒田如水、王陽明説などがありましたが、いずれの手掛かりからも当方で回答不能だった」と記録している[1]。百科事典・ことわざ辞典・如水関係資料・『王陽明全集』・中国古典の索引・治水関係文献まで当たっても典拠は出なかった[1]。2013年の追記で、中国文学者・高島俊男の調査により、1929年2月の『キング』にのった大野洪聲「水五則(繪入教訓)」が現在たどれる最古の資料だと示された[2]。
座右銘。如水の墓(福岡市・崇福寺そばの黒田家墓所)の石塔には、外交僧・景轍玄蘇(けいてつ げんそ)が書いた文が刻まれ、福岡市は「建碑当初のもの」として貴重だとしている[6]。この碑文の全文は、金子堅太郎『黒田如水伝』(1916年・博文館、国立国会図書館デジタルコレクションで公開)の「如水の石碑及び畫像」の章に収められている[4]。そこでは、家康が官位をすすめたのに如水が「我已(すで)に老いたり、富貴は願ふに非ず」と答えたと書かれている。また貝原益軒『黒田家譜』(『益軒全集』巻5に収録)にも、如水が「此外功名富貴の望無御座候」と辞退した記事がある[5]。つまり「富貴を望まず」は、ほぼ同時代の碑文までさかのぼれる。
異説や否定説
水五訓には王陽明説・老子説・太田道灌説もある[1][3]が、どれも成り立たない。理由は四つ挙げられている[3]。第一に、文が漢文の訓読ではなく、初めから日本語で組み立てられていること。第二に、「蒸気」は江戸後期の蘭学者が翻訳のために作った語で、広く使われるのは明治以後であること。第三に、水が空にのぼって雲や霞に変わるというのは、近代の小学校で習う理科の知識であること。第四に、「障害」という表記が戦後に一般化したものであること。文末を「〜なり」でそろえて古文らしく見せてはいるが、中身は現代語である[3]。
なお国立国会図書館は、百科事典・ことわざ辞典から中国の治水文献まで幅広く当たったうえで「該当する典拠は発見できませんでした」と回答している[1]。「見つからない」ではなく「探したが無い」という否定の記録である点は重い。
座右銘のほうは「墓碑銘文と『黒田家譜』に残されている」とする説明が広く流布している[9]。ただしその説明に出典の注記はなく、実際に文言をたどれるのは「富貴を望まず」の側だけである。近年の学術的な評伝も、確実な史料から実像を描くとしており、座右銘や水五訓を如水の思想として扱ってはいない[7]。
後世にどう語られたか
二つの言葉は、広まった道すじが違う。
座右銘のほうは、明治から大正にかけての郷土の偉人としての顕彰の流れにある。1916年(大正5)には金子堅太郎による704ページの大部の伝記『黒田如水伝』が出た[4]。この本は碑文や『黒田家譜』を引きながら如水の人格を描くもので、こうした本を通じて「富貴を望まなかった人」という像が固まっていった[4]。
水五訓のほうは、昭和初期の大衆雑誌『キング』の教訓欄という、まったく別の回路から出ている[2]。当初は「大野洪聲」の作として載ったのであって、如水の名は付いていない[3]。戦後、社訓・朝礼の話材・書道色紙として流通するなかで、「黒田官兵衛(如水)の言葉」「王陽明の言葉」といった肩書きが後から付け足されたと考えられる[1]。国立国会図書館に同じ質問が全国から繰り返し寄せられてきたこと自体が、この格言が出典不明のまま広く流通してきた証拠でもある[1]。
読者が次に抱く疑問
Q. 誰が最初に水五訓を如水と結びつけたのか。 わかっていない。1929年の『キング』では作者名は大野洪聲であり、如水の名は出ていない[2]。国立国会図書館も1990年以来、この点を未解決としている[1]。
Q. 大野洪聲とはどんな人物か。 これも不明である[3]。
Q. 如水の言葉で確かなものはあるか。 碑文には、臨終の際に長政へ「士を愛し民を撫(な)でよ」と遺訓したことが記されている[4]。碑文は没年に作られており、信頼度は高い。
図鑑の記述への提案
- 区分は「伝説」を一律に当てず、「水五訓=伝説」「座右銘=諸説あり」と分けることを提案する。
- 「同時代史料での確認が取れず」は、座右銘については修正が必要。「富貴を望まず」に相当する文は、慶長9年(1604年)の墓碑銘(景轍玄蘇撰)と『黒田家譜』にある[4][5][6]。確認できないのは「人に媚びず」の部分である。
- 水五訓については「近代とみられる仮託」を一歩進め、「確認できる最古の例は1929年(昭和4年)2月の雑誌『キング』に載った大野洪聲『繪入教訓 水五則』」と年号入りで書けると、読者が自分で検証できる[2]。
- 「蒸気」「雲・霞」「障害」という近代語・近代知識の混入という根拠[3]も、一行添えると説得力が増す。
図表
出典
- 「水五訓」あるいは「水五則」と呼ばれる格言の由来。(レファレンス協同データベース/国立国会図書館)(回答欄/『図書館協力通信』No.21(1990.9)「レファレンス・ルーム」事例紹介)国立国会図書館は「水五訓」の由来を不明とし、黒田如水説・王陽明説はいずれも典拠を確認できなかったと記録している。
「「水五訓」「水五教」「水五則」などの言葉でしばしば全国から同じ質問が寄せられます。黒田如水、王陽明説などがありましたが、いずれの手掛かりからも当方で回答不能だった事例です。」
- 「水五訓」あるいは「水五則」と呼ばれる格言の由来。(2013年追記部分)(回答欄 2013.2.14追記(高島俊男『お言葉ですが…別巻1』連合出版, 2008による))確認できる範囲で「水五訓(水五則)」が登場する最も古い資料は、1929年(昭和4年)2月号の雑誌『キング』に載った大野洪聲「水五則(繪入教訓)」である。
「以下の資料が「水五訓(水五則)」が登場する最も古い資料とのことです。(【 】内は当館請求記号)・大野洪聲「水五則(繪入教訓)」『キング』大日本雄弁会講談社,5巻2号 1929(昭和4)年2月号, p.157.」
- 第4回 「水五訓」の作者について(水を語る会 リレーエッセイ)(門脇敏明(2011年11月5日)、高島俊男『お言葉ですが…別巻1』の紹介部分)水五訓の本文には「蒸気」など近代の用語と近代科学の知識が混じっており、戦国時代の人物の作ではありえないと指摘されている。
「近代の用語がいくつも出てくる。たとえば「蒸気」。これは江戸後期の蘭学者が翻訳用に作った語だが、一般に用いられるのは明治以後である。」
- 黒田如水伝(金子堅太郎 著、博文館、大正5年)|NDLサーチ(書誌情報/目次「第十二篇 第四章 如水の石碑及び畫像」622頁(コマ0384))如水の墓碑(崇福寺の石碑)の碑文全文を収める近代の伝記『黒田如水伝』は1916年(大正5)博文館刊で、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている。
「黒田如水伝 国立国会図書館請求記号 348-355 国立国会図書館原本代替請求記号 YD5-H-348-355 国立国会図書館書誌ID 000000566212 国立国会図書館永続的識別子 info:ndljp/pid/950970 資料種別 図書 著者 金子堅太郎 著 出版者 博文館 出版年 大正5」
- 益軒全集 巻5(貝原益軒 著、益軒全集刊行部、明治44年)|NDLサーチ(書誌情報・内容細目(黒田家譜 巻之十三〜十四に該当記事))貝原益軒が編んだ『黒田家譜』は『益軒全集』巻5に収められ、国立国会図書館デジタルコレクションで本文を読むことができる。
「著者 貝原益軒 著 出版者 益軒全集刊行部 出版年 明治44 資料形態 マイクロ・デジタル ページ数・大きさ等 898p ; 22cm NDC 121 詳細を見る 資料詳細 内容細目: 黒田家譜,黒田記略,黒田先公忠義伝,黒田家臣伝,八幡宮本記,大宰府天満宮故実,筑前国続諸社縁起」
- 福岡藩主黒田家墓所|福岡市の文化財(紹介文(市指定史跡、福岡市博多区千代四丁目))如水の石塔に刻まれた碑文は外交僧・景轍玄蘇の撰文で、建碑当初のものとして貴重だと福岡市が説明している。
「特に黒田如水の石塔には、景轍玄蘇(けいてつげんそ、聖福寺第百九世、日朝・日明交渉の掌にあった外交僧)の撰文が刻まれ、建碑当初のものとして、貴重である。」
- 黒田如水 臣下百姓の罰恐るべし(小和田哲男 著、ミネルヴァ日本評伝選、2012年)(内容紹介・目次(2012年1月10日刊、344ページ))近年の学術的評伝は確実な史料から如水の実像を描くことを主眼としており、目次に座右銘や「水五訓」を扱う項目はない。
「播磨の豪族の家臣に生まれながら、持ち前の知略により豊臣秀吉の天下統一を支え、豊前中津12万石を与えられた如水。豊臣政権の成立、そして秀吉死後の政情をも左右した名軍師の実像を、確実な史料から明らかにする。」
- 黒田孝高とは(日本大百科全書ほか)|コトバンク(日本大百科全書(ニッポニカ)「黒田孝高」柴多一雄執筆)黒田孝高(如水)は慶長9年(1604年)3月20日に京都伏見で没し、博多の崇福寺に葬られた。
「戦後、長政が筑前一国を与えられたため福岡に移り、慶長9年3月20日京都伏見(ふしみ)で没した。博多(はかた)松原(福岡市)の崇福寺に葬る。」
- 黒田孝高 - Wikipedia(「人物・逸話」節)「我人に媚びず、富貴を望まず」は墓碑銘文と『黒田家譜』に残るとする説明が広く流布しているが、この記述に出典の注記は付いていない。
「質素倹約を重んじていたとされ、「我人に媚びず、富貴を望まず」という孝高の言葉が墓碑銘文と『黒田家譜』に残されている。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。