〈明智光秀〉母を人質に出し、磔にされた
八上城攻めで母を人質に差し出したが信長が約束を破り、母が磔にされた——怨恨説の「原点」とされる逸話の初出は『総見記』『絵本太閤記』等の江戸期読本。『信長公記』に人質の記載はなく、八上城は兵糧攻めで落城しており前提自体が成立しない。金子拓・谷口克広両氏も史実性を否定する。
検証リサーチ
「〈明智光秀〉母を人質に出し、磔にされた」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「伝説」で正しい。『信長公記』に人質の記載はなく、初出は123年後の軍記『総見記』(1702年刊)。怨恨説と結びついたのはさらに後の『太閤真顕記』から。
くわしい根拠
結論
区分「伝説」はそのままで正しいです。ただし理由の書き方は直したほうがよいです。同時代の史料『信長公記』(おだ信長の一代記)には、光秀が母を人質に出した話も、母が磔にされた話もまったく出てきません [1][2]。この話が最初に現れるのは、事件から100年以上あとの軍記『総見記』(遠山信春・著、元禄15年=1702年刊)です [3][5]。しかも「怨恨説の原点」という位置づけも正確ではありません。『総見記』の段階では、母の死は本能寺の変とまったく結びついていないからです [5]。
この話が最初に出てくる史料
まず一次史料。『信長公記』巻十二「丹波国波多野兄弟張付之事」には、こうあります。「三里四方に堀をならせ塀柵を丈夫に幾重も申付被責候」「籠城の者既及餓死」「波多野兄弟三人の者以調略召捕」、そして「六月四日 安土へ進上則慈恩寺町末に三人の者張付に懸させられ」 [1]。前年十二月の巻十一にも、光秀が「一身之手勢を以て取巻堀をほり塀柵幾れも付させ透間もなく」包囲したと書かれています [2]。磔にされたのは波多野兄弟三人であって、光秀の母ではありません。
事典の記述も同じです。コトバンク『改訂新版 世界大百科事典』の「波多野秀治」は「78年4月明智軍が八上城を包囲し,秀治は1年半にわたり籠城を続けたが,79年6月に投降し,安土で処刑された」とだけ書き、人質には触れません [6]。
人質の話が出てくる最初の本が『総見記』(別名『織田軍記』)です。国立国会図書館の書誌では「著者・編者遠山信春」「出版事項難波 : 刊出版年月日等元禄15 [1702]」 [3]。序文は貞享2年(1685年)で、巻十九に、光秀が「老母を人質とし」て波多野兄弟をおびき出し、最後に「丹州の残党等、光秀人質の老母を張付に懸けて殺し畢んぬ」と書かれます [5]。『信長公記』を増補した小瀬甫庵『信長記』(慶長17年=1612年ごろ)にも、まだこの話はありません [5]。
異説や否定説
否定説のほうが今は主流です。
- 光秀自身の手紙。八上城攻めの終盤(天正7年5月6日)の書状に「城中調略之子細候間、何時に寄らず、本丸焼け崩るる儀之有るべく候」とあります。城が焼け落ちる前提で書いており、大事な人質が城内にいたとは読めません [5]。
- 戦前からの否定。小泉三申は明治30年(1897年)の評伝で「固より無根の虚説たるを知るべし」と全否定し、高柳光寿『明智光秀』(人物叢書、1958年)も採りません [5]。
- 「兵糧攻めだから前提が成立しない」は言いすぎ。『信長公記』自身が「調略を以て召し捕り」と書いています [1]。中身が書かれていない「調略」という空白に、後世が物語を入れた、というのが実際の経緯です [5]。
- 誰の母かも揺れます。江戸後期の『太閤真顕記』は「此老母といふは光秀が実母にはあらず、叔父明智兵庫介光安入道宗叔が妻なり」とし、叔母に変えています [5]。「母とも伯母とも」と伝わるのはこのためです。
後世にどう語られたか
伝わり方には順番があります [5]。
- 『総見記』(1702年刊)の話が、貝原益軒『朝野雑載』や湯浅常山『常山紀談』(元文4年=1739年成立)にほぼそのまま採られる。ただし両書とも、光秀を「不孝」と非難する材料に使っています。
- 実録『太閤真顕記』(安永9年=1780年ごろ)で、はじめて「信長が処刑を待ってくれなかった→光秀が恨んだ」という展開が加わります。怨恨説と結びついたのはここからです。
- 読本『絵本太閤記』(寛政9〜享和2年=1797〜1802年刊、武内確斎・作、岡田玉山・画) [7] は広く読まれましたが、研究によれば、むしろ怨恨の要素を削り、光秀を誠意の人として描いています [5]。
- 浄瑠璃『絵本太功記』(寛政11年=1799年初演)では母は「皐月」と名づけられ、光秀自身が誤って刺し殺す筋に変わります [5]。
Wikipedia「八上城」も「事実とはほど遠い創作で信じるに足りない」とします [8]。
読者が次に抱く疑問
Q1. 磔の日はいつ? 『信長公記』は六月四日と書きます [1]。一方、吉田兼見が六日に京都を通るのを見ているため『兼見卿記』の6月8日が正しいとされ、谷口克広氏も6月8日とします [9]。数字が割れている点です。
Q2. 「調略」とは結局なにをしたのか? 『信長公記』は書きません。光秀の書状にも「城中調略之子細候」とあるだけです [5]。わからない、が正確な答えです。
Q3. なぜ江戸時代の人はこの話を信じたのか? 益軒も常山も、史実だという前提で光秀を論評しています [5]。作り話が事典的な本に入り、さらに読本・浄瑠璃で絵になったことが大きいと考えられます。
図鑑の記述への提案
- 区分「伝説」はそのままでよいです。
- 「初出は『総見記』『絵本太閤記』等の江戸期読本」→ 初出は軍書『総見記』(貞享2年序・元禄15年=1702年刊)。『絵本太閤記』はその約100年後の読本で、初出ではなく広めた側です [3][5][7]。
- 「怨恨説の『原点』」→ 『総見記』は本能寺の変と結びつけていません。結びつけたのは『太閤真顕記』(1780年ごろ)です [5]。
- 「八上城は兵糧攻めで落城しており前提自体が成立しない」→ 少し強すぎます。『信長公記』も「調略を以て召し捕り」と記すので、「兵糧攻めで追い詰めたうえで調略により捕らえた。ただし人質の記載はない」と書くほうが正確です [1]。
- 「金子拓・谷口克広両氏も史実性を否定する」→ 今回の調査では、この2氏がこの逸話を否定した文言そのものは確認できませんでした。確認できたのは小泉三申(1897年)、高柳光寿(1958年)、野口隆(2024年)です [4][5]。出典を差し替えるか、書名と頁を明示することをおすすめします。
図表
出典
- 『信長公記』巻十二(五)丹波国波多野兄弟張付之事(Wikisource 翻刻)(巻十二(五)丹波国波多野兄弟張付之事)同時代史料『信長公記』は八上城の兵糧攻めと「調略」による波多野兄弟三人の捕縛・安土での磔を記すが、光秀の母や人質には一切触れていない。
「去程丹波国 波多野舘去年より維任日向守押詰取巻三里四方に堀をならせ塀柵を丈夫に幾重も申付被責候籠城の者既及餓死初は草木の葉を食とし後には牛馬を食し了簡(レウケン)尽果無体に罷出候を悉切捨波多野兄弟三人の者以調略召捕 六月四日 安土へ進上則慈恩寺町末に三人の者張付に懸させられさすの思切候て前後神妙の由候」
- 『信長公記』巻十一(十五)丹波国波多野舘取巻之事(Wikisource 翻刻)(巻十一(十五)丹波国波多野舘取巻之事)『信長公記』は天正六年十二月の時点で光秀が八上城を堀と塀柵で幾重にも囲み、透き間なく封鎖していたと記す。
「維任日向は直に丹波へ相働 波多野か舘取巻四方三里かまはりを 維任一身之手勢を以て取巻堀をほり塀柵幾れも付させ透間もなく塀際に諸卒町屋御に小屋を懸させ其上廻番を丈夫に警固を申付」
- 総見記 1-15,17-23巻(国立国会図書館サーチ 書誌)(書誌情報/出版年月日等)人質の逸話を載せる『総見記』(別名『織田軍記』)は遠山信春の著で、元禄15年(1702年)刊行の江戸中期の編纂物である。
「タイトル総見記タイトルよみソウケンキ巻次・部編番号1-15,17-23巻著者・編者遠山信春タイトル標目織田軍記 オダグンキ著者標目遠山, 信春, 延宝-貞享頃 トオヤマ, ノブハル, エンポウ-ジョウキョウ ゴロ ( 00481372 )典拠 出版事項難波 : 刊出版年月日等元禄15 [1702]」
- 野口隆「明智光秀の母と八上城攻略」(国立国会図書館サーチ 書誌)(書誌情報)この逸話の成立過程を扱った学術研究ノートが2024年に『大阪学院大学人文自然論叢』88号48-36頁に発表されている。
「出版者THE ASSOCIATION OF THE CULTURAL AND NATURAL SCIENCES IN OSAKA GAKUIN UNIVERSITY出版年2024-03-31資料形態デジタル掲載誌名大阪学院大学人文自然論叢 88掲載ページp.48-36」
- 野口隆「明智光秀の母と八上城攻略」大阪学院大学学術機関リポジトリ(本文PDF公開)(アイテムページ(本文PDF「野口隆「明智光秀の母と八上城攻略」.pdf」615KB を参照))同論文は『信長公記』から甫庵『信長記』『総見記』『朝野雑載』『常山紀談』『太閤真顕記』『絵本太閤記』『絵本太功記』へと、人質と磔の物語が段階的に作られ変形していった経緯を原文を挙げて追跡し、人質の件は史実と認めがたいとする。
「大阪学院大学人文自然論叢 第88号 明智光秀の母と八上城攻略明智光秀の母と八上城攻略」
- 波多野秀治(改訂新版 世界大百科事典、コトバンク)(改訂新版 世界大百科事典「波多野秀治」(高木傭太郎執筆))事典の記述は、1578年4月からの包囲と1年半の籠城のすえ1579年6月に投降・安土で処刑されたとするのみで、人質の逸話を採らない。
「78年4月明智軍が八上城を包囲し,秀治は1年半にわたり籠城を続けたが,79年6月に投降し,安土で処刑された。執筆者:高木 傭太郎」
- 絵本太閤記(デジタル大辞泉、コトバンク)(デジタル大辞泉「絵本太閤記」)『絵本太閤記』は寛政9年〜享和2年(1797〜1802年)刊の読本であり、『総見記』より約100年あとの本である。
「読本。7編84冊。寛政9~享和2年(1797~1802)刊。武内確斎著とされ、岡田玉山画。豊臣秀吉の一代記。太閤記物の流布書に精細な挿絵を入れたもの。禁令に触れ、文化元年(1804)絶版を命ぜられた。」
- 八上城(Wikipedia 日本語版)(「概要」節)母の磔の逸話は『総見記』『柏崎物語』に載るが、調略の記録を恣意的に解釈した創作であるとされている。
「この母親が磔になったとされる逸話は『総見記』や『柏崎物語』に記載されているが、光秀の調略による波多野兄弟の誘降に関する記録を恣意的に解釈したものである。八上城の落城は確実であったわけであるから、光秀としても、あえて母親を人質とする必要に迫られることはなかったのである。事実とはほど遠い創作で信じるに足りない。」
- 波多野秀治(Wikipedia 日本語版)(注釈)磔の日付は『信長公記』の6月4日と『兼見卿記』の6月8日で食い違い、谷口克広は6月8日を採る。
「『信長公記』は磔を6月4日のこととしているが、6日に京都を通るのを吉田兼見が見物していることから、『兼見卿記』の6月8日が正しいと考えられ、谷口 (2010, p. 362) も6月8日としている。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。