〈明智光秀〉「敵は本能寺にあり」と叫んだ

同時代史料に記録なし。初出に近いのは林羅山『織田信長譜』(1641頃)で、流布は頼山陽『日本外史』(1826)以降。『信長公記』は兵たちが「家康を討つのだ」と思っていたと記しており、標的を全軍に明かした可能性自体が低い。

検証リサーチ

「〈明智光秀〉「敵は本能寺にあり」と叫んだ」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

伝説。同時代史料に光秀の言葉はなく、最古級は寛永18年(1641年)『織田信長譜』の漢文「敵在本能寺」で場所は大江山。桂川で叫ぶ形は『日本外史』の脚色。

くわしい根拠

結論

「敵は本能寺にあり」は「伝説」です。本能寺の変(天正10年=1582年)と同じ時代の史料に、明智光秀がこう叫んだという記録はありません [4]。いま確認できるいちばん古い形は、事件から約60年後、寛永18年(1641年)に成立した林羅山の『織田信長譜』にある漢文「敵在本能寺」で、しかも場所は桂川ではなく「大江山」の出来事として書かれています [4]

事件から初出史料までの年数
約59年
天正10年(1582年)の変から寛永18年(1641年)成立まで
出典: [4] 本能寺の変 - Wikipedia

。図鑑の区分「伝説」は妥当です。

この話が最初に出てくる史料

古い順に並べると、こうなります [4]。

  • 『織田信長譜』(林羅山、寛永18年=1641年)…「光秀曰敵在本能寺於是衆始知其有叛心」(光秀が言った、敵は本能寺にあり。そこで兵たちは初めて謀反の心があると知った)。場所は大江山
  • 『明智軍記』(元禄年間=1688〜1702年頃)…「敵は四条本能寺・二条城にあり」と、行き先を二か所挙げる
  • 『日本外史』(頼山陽)…桂川を渡るときに「吾敵在本能寺矣」と述べた、という形になる

つまり、私たちがよく知る「桂川で全軍に叫ぶ」場面は、いちばん新しい『日本外史』の形です。その『日本外史』も「世上に流布した軍記物にもとづいて書かれているため誤りも多い」と評価されています [6]。軍記物(読み物としての戦争物語)を材料にした本、ということです。

異説や否定説

そもそも「全軍に標的を明かした」こと自体が疑わしい、というのが有力な見方です。

同時代史料の『信長公記』(太田牛一著。「事実を客観的かつ簡潔に述べており、史料的価値は高い」とされる [3])は、亀山での相談相手を明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐という数人に限り、一般の兵(諸卒)には「山崎から摂津国へ出陣する」という進路だけを触れた、と書いています [1]。標的の名は出てきません。

江戸初期の『川角太閤記』(元和7〜寛永2年=1621〜1625年頃成立)も同じです。桂川を渡ったあとに全軍へ出した触れは「今日よりして天下様に被成御成候」(今日からわが殿が天下様におなりになる)で、本能寺の名は出てきません [2]。「桂川で触れを出した」という枠組みは早くからあったのに、その中身が別だったわけです。

さらに強いのが、実際に本能寺を攻めた明智方の兵・本城惣右衛門が晩年(寛永17年=1640年)に書いた『本城惣右衛門覚書』です。天理大学附属天理図書館が原本を所蔵し、「本能寺の変の現場にいた明智光秀配下の武士が残した唯一の記録」とされます [8]。そこには「いゑやすさまとばかり存候」(徳川家康さまを討つのだとばかり思っていた)とあり、兵に標的が知らされていなかったことを示しています [5]。宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも、兵が家康を襲うのかと疑ったという記述があります [5]。

後世にどう語られたか

広めたのは学問より芝居と読み物でした。本能寺の変を題材にした人形浄瑠璃『絵本太功記』は寛政11年(1799年)に初演されています [9]

『絵本太功記』の初演年
1799年
本能寺の変を題材にした太閤記物の代表作
出典: [9] 太閤記物人形浄瑠璃作品に表われた謀叛人 ―『絵本太功記』の光秀を中心に―(演劇学論集 日本演劇学会紀要 55、2012年、67頁〜)

。『日本外史』のほうは天保7〜8年(1836〜37年)ごろに刊行されて大ベストセラーになりました [7]

『日本外史』の刊行時期
1836〜37年ごろ
完成は文政9年(1826年)説と文政10年(1827年)説がある
出典: [7] 日本外史とは(コトバンク/日本大百科全書)

。名文の漢文で書かれた『日本外史』の「吾敵在本能寺矣」が、幕末から明治の読者に刷り込まれた、という順序です。

読者が次に抱く疑問

Q. 『日本外史』の完成は1826年? 1827年? 事典で食い違います。世界大百科事典は「26年(文政9)完成」[6]、日本大百科全書は「1827年(文政10)に完成し、松平定信に献呈された」[7] と書きます。刊行はどちらも天保7〜8年(1836〜37年)ごろです [7]。広まった時期を言うなら、成立年より刊行年を書くほうが正確です。

Q. では光秀は本当に何と言ったのか? 分かりません。同時代史料に光秀の発言は残っていないからです [4]。『川角太閤記』の「今日よりして天下様に被成御成候」も、事件から約40年後に聞き書きを集めた本の記述で、そのまま史実とはいえません [2]。

Q. なぜ場所が「大江山」から「桂川」に変わったのか? 『織田信長譜』は大江山、『日本外史』は桂川です [4]。桂川で全軍に触れを出す場面は『川角太閤記』にすでにあり [2]、頼山陽がその場面に別の名台詞をはめ込んだ、と読むのが自然です。

図鑑の記述への提案

  1. 区分「伝説」は維持でよいです。
  2. 「『信長公記』は兵たちが『家康を討つのだ』と思っていたと記しており」は、出典の取り違えと思われます。 『信長公記』の本能寺の変の記事に、その兵の心境は書かれていません(確認方法は method_note に記載)。これは『本城惣右衛門覚書』(寛永17年=1640年)の「いゑやすさまとばかり存候」です [5][8]。出典の差し替えを提案します。
  3. 『信長公記』から言えるのはこちらです。 「談合の相手は明智左馬助ら数人に限られ、諸卒には山崎から摂津へ向かうという進路しか触れていない」[1]。標的を全軍に明かした形跡がない、という論拠としてこちらのほうが強く、しかも同時代史料です。
  4. **『織田信長譜』の場面は「大江山」**であり、文言は漢文「敵在本能寺」だと添えると、場所と言い回しが後世に変わっていく流れが見えます [4]。あわせて『明智軍記』が「四条本能寺・二条城」と二か所を挙げていることも一行入れると、話が育っていく様子が伝わります [4]。
  5. 「流布は『日本外史』(1826)以降」は書き分けたいです。完成年は文政9年(1826年)説 [6] と文政10年(1827年)説 [7] があり、一般に読まれたのは天保7〜8年(1836〜37年)ごろの刊行以降です [7]。「文政9〜10年ごろ成立、天保7〜8年ごろの刊行以降に流布」とすると正確になります。

出典

  1. 信長公記(ウィキソース、我自刊我書本の翻刻)(巻十五(三十一)明智日向守逆心之事)
    同時代史料『信長公記』は、光秀が謀反の相談をしたのは明智左馬助ら数人に限られ、一般の兵には山崎から摂津へ出陣するという進路だけを触れたと記す。
    「明智左馬助 明智次右衛門 藤田伝五 斎藤内蔵佐 是等とし而談合を相究 信長を討果し天下主と可成調儀を究亀山より中国へは三草越を仕候爰を引返し東向に馬之首を並老之山へ上り山崎より摂津国地を可出勢之旨諸卒に申触談合之者共に先手を申付」
  2. 川角太閤記(ウィキソース)(桂川を乗越候事の条)
    江戸初期成立の『川角太閤記』では、桂川を越えた地点で全軍に出した触れの内容は「今日よりして天下様に被成御成候」であり、本能寺の名は含まれていない。
    「扠桂川を乗越候事一そこにての触には今日よりして天下様に被成御成候間下々さうり取以下にまていさみ悦候へとのふれなり」
  3. 信長公記とは(コトバンク/日本大百科全書)(日本大百科全書(ニッポニカ)「信長公記」)
    『信長公記』は信長に近侍した太田牛一が記した同時代の記録で、史料的価値が高いとされる。
    「本文は平易な漢文と仮名交じり文で記され、事実を客観的かつ簡潔に述べており、史料的価値は高い」
  4. 本能寺の変 - Wikipedia(本能寺への進軍(「敵は本能寺にあり」の段))
    「敵は本能寺にあり」の初出に近いのは寛永18年(1641年)の林羅山『織田信長譜』で場所は大江山、元禄年間の『明智軍記』は「四条本能寺・二条城」、桂川で述べた形は頼山陽『日本外史』であり、同時代史料に光秀の言葉は残っていない。
    「これは江戸時代前期の元禄年間頃に成立した『明智軍記』にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」や、寛永18年(1641年)に成立したとされる林羅山の『織田信長譜』で、大江山の出来事として「光秀曰敵在本能寺於是衆始知其有叛心(光秀曰く、敵は本能寺にあり。これを於いて衆はその叛心有るを知る)」という記述を出典として変化した俗説である。江戸時代後期の文政10年(1827年)に頼山陽が様々な歴史書から引用して書き上げた『日本外史』では、桂川を渡る際に「吾敵在本能寺矣(我が敵は本能寺に在り)」と述べたという記述になった。しかし同時代史料には光秀の言葉は一切残っていない。」
  5. 本能寺の変 - Wikipedia(本能寺への進軍(本城惣右衛門覚書・フロイス日本史の段))
    明智軍に従軍した本城惣右衛門の『本城惣右衛門覚書』には「いゑやすさまとばかり存候」とあり、兵には真の標的が知らされていなかったことを示す。
    「明智軍に従軍していた本城惣右衛門による『本城惣右衛門覚書』には「(家康が上洛していたので)いゑやすさまとばかり存候」という記述があり、家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたとされ、真の目的が知らされていなかったことを示している。」
  6. 日本外史とは(コトバンク/改訂新版 世界大百科事典)(改訂新版 世界大百科事典「日本外史」(頼祺一 執筆))
    『日本外史』は文政9年(1826年)完成とされ、史実は世に流布した軍記物にもとづいて書かれているため誤りも多いと評価される。
    「1800年(寛政12)脱藩後の幽閉中に執筆を始め,その後推敲(すいこう)を重ね,論賛を加えて26年(文政9)完成。22巻。《通議》《日本政記》とともに山陽の歴史書三部作とされる。人物中心の武家興亡史であるが,簡潔・平易な漢文,情熱あふれる名文で叙述された歴史文学ともいえる。史実は《大日本史》などの歴史書以外に,世上に流布した軍記物にもとづいて書かれているため誤りも多いが」
  7. 日本外史とは(コトバンク/日本大百科全書)(日本大百科全書(ニッポニカ)「日本外史」)
    『日本外史』は1827年(文政10年)完成・松平定信へ献呈、刊行は1836〜37年(天保7〜8年)ごろで、事典によって完成年の記載が1826年と1827年に分かれる。
    「江戸後期の歴史書。22巻。頼山陽(らいさんよう)著。1827年(文政10)に完成し、松平定信(さだのぶ)に献呈された。1836~37年(天保7~8)ごろ刊行。源平二氏から徳川氏に至る武家の興亡が家別・人物中心に漢文で記述されている。」
  8. 本能寺の変従軍記録「本城惣右衛門覚書」 福知山市が信頼性補強する新説(両丹日日新聞)(本文冒頭(2021年1月14日))
    『本城惣右衛門覚書』は本能寺の変から58年後の寛永17年(1640年)に書かれた回想録で、現場にいた明智方の武士が残した唯一の記録とされ、原本は天理大学附属天理図書館が所蔵する。
    「本能寺の変の現場にいた明智光秀配下の武士が残した唯一の記録として有名な「本城惣右衛門覚書」」
  9. 太閤記物人形浄瑠璃作品に表われた謀叛人 ―『絵本太功記』の光秀を中心に―(演劇学論集 日本演劇学会紀要 55、2012年、67頁〜)(抄録(doi:10.18935/jjstr.55.0_67))
    本能寺の変を題材にした人形浄瑠璃『絵本太功記』は1799年に初演され、光秀の謀反像が舞台を通じて広く流通した。
    「One of the most major plays in the group is Ehon Taikoki (The Taiko's Exploit, first performed in 1799), a play based on a historical act of “treason” called the “Honnoji no hen” (“Honnoji Incident”)」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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