〈浅井長政〉姉川の「十一段崩し」
磯野員昌が織田の13段構えを11段まで突破したという話の初出は元禄期ごろの『浅井三代記』。『信長公記』に段数の記述はなく、数値は後世の脚色。ただし浅井軍先鋒が織田軍を強く圧迫したこと自体は戦況から否定されない。「大激戦」像自体も『甫庵信長記』以降の増幅との指摘がある(太田浩司)。
検証リサーチ
「〈浅井長政〉姉川の「十一段崩し」」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「伝説」で妥当。十三段・十一段という数字は同時代史料になく、江戸前期(寛文末年版行)の軍記『浅井三代記』巻十五が初出。ただし浅井勢が信長本陣に迫った骨組みは否定されない。
くわしい根拠
結論
図鑑の区分「伝説」は妥当です。「織田の十三段の備えを十一段まで崩した」という数字は、同時代の記録には出てきません。江戸時代前期の軍記物(合戦を物語風に書いた読み物)『浅井三代記』が書いたものです [1][2][4]。ただし「浅井方の先鋒(せんぽう、いちばん前の部隊)が織田軍を強く押した」という骨組みまでは否定できません [6]。そのうえで、本文には直したほうがよい点が3つあります(最後にまとめます)。
この話が最初に出てくる史料
『浅井三代記』巻第十五「姉川合戦の事」に、次の2か所があります。まず織田軍の布陣として「摠して信長卿の本陣迄は十三段なり」[1]。次に戦闘の場面で「かくて浅井か手は信長卿の御勢を十一段まて切崩し」[2]。数字の出どころはここです。
『浅井三代記』は、伊香郡木之本浄信寺(いかぐん きのもと じょうしんじ)の僧・遊山(雄山)が書いたとされます。『改訂新版 世界大百科事典』は、「寛文末年に前田家老臣奥村氏を経て加賀藩主に献上され,1部15巻として版行された」とし、「内容は架空の軍談が多く史料的価値は低い」と評価します [4]。寛文の末は1673年ごろで、合戦(1570年)からおよそ100年後です。
いっぽう、信長の右筆(ゆうひつ、秘書役)太田牛一が書いた『信長公記』巻三「あね川合戦之事」には、段数の話がありません。合戦の場面は「六月廿八日 卯刻己寅へむかつて被及御一戦御敵もあね川へ懸り合推つ返しつ散々に入みたれ」とあるだけで、すぐに討ち取った首の一覧に移ります [3]。布陣も「西は三田村口一番合戦家康公むかはせられ東は野村の郷そなへの手へ信長御馬廻又東は美濃三人衆」という3方向の書き方で、13という数は出ません [3]
。磯野の名は、この合戦のあとの佐和山城の話にしか出てきません [3]。
異説や否定説
(1) 数字は本によってばらばらです。小瀬甫庵の『信長記』(1604年成立・1622年刊)は、『信長公記』を「甫庵が物語風に潤色したのが本書」と説明される本です [5]。軍勢の数も大きく書かれます。
(2) 「大激戦」像そのものへの史料批判があります。佐藤圭「姉川合戦の事実に関する史料的考察」(『若越郷土研究』59巻1号、2014年、12〜29頁。J-STAGEで全文公開)は、当日付の信長書状・感状・公家山科言継の日記『言継卿記』など確実な史料だけで戦況を組み立て、『甫庵信長記』以下の軍記は軍勢の数以外は使わない、という方針をとっています [6]。同論文は、軍勢の数が『信長公記』でいちばん少なく、『甫庵信長記』『三河物語』と時代が下るほどふくらむこと、それが「少ない人数で大勢を討ち取った」と見せる脚色であることを指摘します [6]。太田浩司(長浜市長浜城歴史博物館)の『浅井長政と姉川合戦』(サンライズ出版、2011年)も、姉川合戦を章立てて論じた研究書です [7]。
(3) それでも骨組みは残ります。佐藤の論考は、磯野員昌が家臣に出した書状に戦場が「於野村河原合戦」、浅井長政の感状に「於辰鼻表合戦」と書かれることから、浅井勢が野村→野村河原→龍ヶ鼻(信長の本陣)と押し返して信長の旗本に迫った、とみています [6]。また『信長公記』でも岡山大学池田家文庫本には「信長之御手前へさし懸」(敵が信長のすぐ前まで攻め込んだ)とあり、写本によってはこの部分が削られている、とも指摘します [6]。つまり「本陣に迫った」は否定できず、「十三段のうち十一段」という段数だけが後世の飾り、という整理になります。
後世にどう語られたか
『浅井三代記』は「江戸時代広く読まれたらしく各種の系図記録に引用されている」と注意されるほど流布しました [4]。段数の話もそれで広まりました。ただし「十一段崩し」という言葉は『浅井三代記』の本文には出てきません。原文は「十一段まて切崩し」で、「員昌の姉川十一段崩し」という呼び名は後の人がつけた見出しです [1][2][8]。しかも原文で崩したのは磯野ひとりではなく「浅井か手」(浅井勢全体)で、磯野は先鋒として最初に坂井右近の備えを突き崩した人物として描かれます [1][2]。Wikipediaも「これは後世の創作という見方が強い」とします [8]。なお「姉川合戦」という呼び名自体、もとは徳川方からの言い方だとされ、浅井方の文書は「野村」と書きます [6][9]。江戸時代を通じて、この合戦は「家康の活躍と信長方の大勝」という型で語られてきました [6]。
読者が次に抱く疑問
Q. 織田軍は本当に13段に並んだの? 同時代に近い『信長公記』は3方向の配置しか書かず、13という数は『浅井三代記』だけの数字です [1][3]。
Q. 磯野の名前は「員昌」でいいの? 『浅井三代記』の表記は「磯野丹波守員正」で、同じ巻に「員政」の表記もあります [1][2]。人名事典も「名は員正ともかき」とします。図鑑で「員昌」を使うのは通用表記として問題ありませんが、原文とは字が違います。
Q. この合戦の呼び名は? 地名をとって「野村合戦」「三田村合戦」とも呼ばれます [9]。浅井方の感状も「野村河原」と書きます [6]。
図鑑の記述への提案
- 「元禄期ごろ」→「江戸前期(17世紀後半)」に。世界大百科事典は版行を「寛文末年」(1673年ごろ)とします [4]。元禄(1688〜1704年)より前です
。 2. 「磯野員昌が織田の13段構えを11段まで突破した」→「磯野員昌を先鋒とする浅井勢が…切り崩した」に。原文の主語は「浅井か手」です [2]。あわせて「十一段崩し」は原文の語ではなく後世の呼び名だ、と一言添えると親切です。 3. 「(太田浩司)」という帰属は、出典を添えたほうがよいです。姉川の「大激戦」像への具体的な史料批判は、佐藤圭2014が全文を読めます [6]。太田浩司の論は『浅井長政と姉川合戦』(2011年)で確認できます [7]。
出典
- 『浅井三代記』巻第十五「姉川合戦の事」(近藤瓶城編『史籍集覧』第6冊を底本とする翻刻)—Wikisource(巻第十五「姉川合戦の事」冒頭の布陣の記述(【 NDLJP:121】))「十三段」という数は『浅井三代記』巻第十五が、織田軍の先陣から信長本陣までの段数として記したものである。
「斯くて越前勢の手当は徳川家康卿に決定す浅井か勢に向ふ信長卿の先陣は坂井右近二番には池田庄三郎三番は木下藤吉郎四番は柴田修理亮五番は中条将監簗田出羽守摠して信長卿の本陣迄は十三段なり」
- 『浅井三代記』巻第十五「姉川合戦の事」戦闘場面—Wikisource(巻第十五「姉川合戦の事」戦闘場面)『浅井三代記』は十一段まで崩したのを磯野個人ではなく「浅井か手」(浅井勢全体)の働きとして書き、「十一段崩し」という語は本文に用いていない。
「かくて浅井か手は信長卿の御勢を十一段まて切崩し森か手にてしはしさゝへけれとも備前守長政勝にのり旗本をくつしかゝれと下知せられけれは信長卿の御旗本大に騒動す」
- 『信長公記』巻三(八)「あね川合戦之事」(町田本系・我自刊我書本)—Wikisource(巻之三(八)あね川合戦之事)『信長公記』の姉川合戦の記事には段数の記述がなく、布陣も三田村口・野村の郷・美濃三人衆という3方向の書き方にとどまる。
「六月廿八日 卯刻己寅へむかつて被及御一戦御敵もあね川へ懸り合推つ返しつ散々に入みたれ黒煙立てしのきをけつり錫をわり爰かしこにて思ひ〳〵の働有終に追崩し於手前討取頸之注文」
- 浅井三代記(あさいさんだいき)—改訂新版 世界大百科事典(細溝典彦執筆)・コトバンク(改訂新版 世界大百科事典「浅井三代記」)『浅井三代記』は寛文末年に版行された軍記で、架空の軍談が多く史料的価値は低いと評価されている。
「著者は伊香郡木之本浄信寺の僧遊山(雄山)。寛文末年に前田家老臣奥村氏を経て加賀藩主に献上され,1部15巻として版行された。内容は架空の軍談が多く史料的価値は低い。江戸時代広く読まれたらしく各種の系図記録に引用されているので注意が必要である。」
- 信長記(しんちょうき)—日本大百科全書(ニッポニカ、村上学執筆)・コトバンク(日本大百科全書(ニッポニカ)「信長記」)小瀬甫庵『信長記』は『信長公記』を物語風に潤色したもので、1622年に刊行された。
「江戸初期の仮名草子。小瀬甫庵(おぜほあん)作。1622年(元和8)刊。15巻。太田牛一(ぎゅういち)作の実録『信長公記(しんちょうこうき)』を、甫庵が物語風に潤色したのが本書で」
- 佐藤圭「姉川合戦の事実に関する史料的考察」『若越郷土研究』59巻1号(2014年)12-29頁—J-STAGE(全文PDF無料公開)(書誌ページ(DOI: 10.69261/jakuetsu.59.1_12))姉川合戦を確実な文書史料から検証し直した佐藤圭の論考が『若越郷土研究』59巻1号(2014年)12-29頁に掲載され、J-STAGEで全文が無料公開されている。
「姉川合戦の事実に関する史料的考察 佐藤 圭 著者情報 佐藤 圭 [日本] 責任著者(Corresponding author) 研究報告書・技術報告書 フリー 2014 年 59 巻 1 号 p. 12-29」
- 太田浩司『浅井長政と姉川合戦—その繁栄と滅亡への軌跡』(淡海文庫46、サンライズ出版、2011年)—国立国会図書館サーチ書誌(書誌情報(国立国会図書館請求記号GC152-J77))太田浩司による姉川合戦の研究書『浅井長政と姉川合戦』は2011年にサンライズ出版から刊行されている。
「資料種別図書著者太田浩司 著出版者サンライズ出版出版年2011.10資料形態紙ページ数・大きさ等245p ; 19cm」
- 姉川の戦い - Wikipedia(「その他」節)「員昌の姉川十一段崩し」の逸話は『浅井三代記』に載るもので、後世の創作という見方が強いとされる。
「浅井三代記』(17世紀後半成立)には、浅井軍の磯野員昌が織田軍の十三段の備えを十一段まで打ち破り信長の本陣まで肉薄したという逸話が記述されているが(員昌の姉川十一段崩し)、これは後世の創作という見方が強い。」
- 姉川の戦い(あねがわのたたかい)—日本大百科全書(ニッポニカ、小和田哲男執筆)・コトバンク(日本大百科全書(ニッポニカ)「姉川の戦い」)姉川の戦いは地名から野村合戦・三田村合戦とも呼ばれ、緒戦は浅井・朝倉軍が優勢だったとされる。
「1570年(元亀1)6月28日、近江(おうみ)(滋賀県)の姉川畔で繰り広げられた浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の戦い。戦いのあった場所の地名をとって、野村合戦とも三田村合戦ともよばれる。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。