〈保科正俊〉武田滅亡時の逃避行 — 大日方氏か、箕輪城か
天正10年(1582)3月の武田滅亡時、『赤羽記』は水内郡の大日方直幸を頼ったと伝え、通説は父子で三男・昌月の箕輪城に逃れたとする(内藤昌月ページは後者を通説として採用)。両者は時期をずらせば両立可能だが確定はできず、真田昌幸の引き合わせで一族が再会したという伝えも含め、この間の足取りは伝承レベルの情報である。
天正10年(1582)3月の武田滅亡時、『赤羽記』は水内郡の大日方直幸を頼ったと伝え、通説は父子で三男・昌月の箕輪城に逃れたとする(内藤昌月ページは後者を通説として採用)。両者は時期をずらせば両立可能だが確定はできず、真田昌幸の引き合わせで一族が再会したという伝えも含め、この間の足取りは伝承レベルの情報である。