〈島津家久〉豊臣秀長に毒殺された
降伏直後の急死(天正15年6月5日)は史実で、島津家側の家譜には「膳に鴆毒があった」趣旨の記事があり、江戸期から毒殺説が語られてきた。犯人候補は秀長のほか大友義統・伊東氏残党・島津本家説まで乱立する。しかし秀長側近・福地長通が義弘に宛てた5月13日付書状に家久の病気が記され、死の3週間以上前から病臥していたことが分かるため、現在は病死説(急性の疫病・持病説等)が有力。近年の検討に桐野作人「島津家久は毒殺されたのか」(『歴史研究』721号、2024)。
降伏直後の急死(天正15年6月5日)は史実で、島津家側の家譜には「膳に鴆毒があった」趣旨の記事があり、江戸期から毒殺説が語られてきた。犯人候補は秀長のほか大友義統・伊東氏残党・島津本家説まで乱立する。しかし秀長側近・福地長通が義弘に宛てた5月13日付書状に家久の病気が記され、死の3週間以上前から病臥していたことが分かるため、現在は病死説(急性の疫病・持病説等)が有力。近年の検討に桐野作人「島津家久は毒殺されたのか」(『歴史研究』721号、2024)。