〈北条氏政〉上洛を拒否し続けて滅亡を招いた
実際は1588年に弟・氏規を名代上洛させ、1589年の沼田裁定も受け入れて12月上洛を一旦約束していた。延期申し入れを秀吉が拒否し、名胡桃城奪取事件(氏政・氏直の命令ではないと氏直は弁明)で宣戦に至る。黒田基樹氏は、豊臣政権との一度の武力対決は徳川・島津・長宗我部ら有力大名に普遍的な行動で、「暗愚だから抗戦した」のではないと指摘する。
実際は1588年に弟・氏規を名代上洛させ、1589年の沼田裁定も受け入れて12月上洛を一旦約束していた。延期申し入れを秀吉が拒否し、名胡桃城奪取事件(氏政・氏直の命令ではないと氏直は弁明)で宣戦に至る。黒田基樹氏は、豊臣政権との一度の武力対決は徳川・島津・長宗我部ら有力大名に普遍的な行動で、「暗愚だから抗戦した」のではないと指摘する。