〈伊集院忠棟〉朝鮮出兵の兵站を握り「日本一之遅陣」の責任を問われた

文禄の役で義弘がわずか23騎で名護屋に赴き「日本一之大遅陣」と恥じたことは義弘自身の書状で史実(義弘ページと整合)。だが遅陣の原因は島津領国の動員体制の疲弊と国人の非協力にあり、忠棟個人の怠慢と断ずる一次史料はない。むしろ太閤検地はこの失敗を受けた体制改革でもあった。

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