〈小早川秀秋〉開戦と同時に東軍として参戦した

慶長5年9月17日付石川康通・彦坂元正連署書状など一次史料の分析から、白峰旬氏は「開戦は午前10時頃、秀秋らは開戦とほぼ同時に参戦し西軍は短時間で崩壊」と結論。前日に西軍の伊藤盛正を追い出して松尾山を占拠した行動自体が事実上の東軍だったとも。ただし離反の正確な時刻には本多隆成・笠谷和比古氏らの再反論もあり、議論は継続中。

検証リサーチ

「〈小早川秀秋〉開戦と同時に東軍として参戦した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

「東軍に転じて西軍が崩れた」は合戦2日後の一次史料で確認できる史実。ただし「開戦と同時」は白峰説の解釈で、同時代の日記には西軍優勢後の裏切りとする記述もあり、諸説あり。

くわしい根拠

結論

「小早川秀秋が東軍に転じ、その結果として西軍が崩れた」ことは、合戦の2日後に書かれた一次史料(同時代の書状)で確かめられます[1]。ここは史実です。

ただし「開戦と同時に」という部分は、白峰旬氏が一次史料を読み解いて示した解釈のひとつです[2]。同じころの日記には「上方衆(西軍)が勝っていたのに秀秋が裏切った」という書き方もあり[5]、離反の時刻まで一次史料で決めることはできません。図鑑の区分「諸説あり」は妥当です。

史料には重さの順番があります。合戦のすぐあとに当事者が書いた書状(一次史料)がいちばん重く、江戸時代にまとめられた軍記や家譜はそのあとです。この話も、その順番で分けて見ると整理できます。

この話が最初に出てくる史料

もっとも古いのは、合戦2日後の慶長5年9月17日付、松平家乗宛の石川康通・彦坂元正連署書状です。東軍が敵陣へ攻めかかり、「そのとき」秀秋らが「うらきり」をしたので敵は敗走した、と書かれています[1]。同じ書状は、家康が15日の午前10時ごろに関ヶ原へ動いて合戦になったとも記します[1]。

ここで大事なのは、一次史料が使う言葉が「うらきり(裏切り)」であって、「東軍として参戦」ではないことです[1]。

白峰氏は、この連署書状に吉川広家自筆書状や近衛前久の書状を合わせ、「開戦は午前10時ごろ、秀秋はすぐ松尾山を下りて西軍を攻め、開戦直後に勝敗が決まった」と論じました[2]。前日の9月14日に西軍方の伊藤盛正を追い出して松尾山城に入った行動も、通説として確認されています[4]。

いっぽう有名な「問鉄砲(といでっぽう=家康が催促のために撃たせたという鉄砲)」は、同時代の史料には出てきません。初出は寛文3年(1663年)刊の軍記『慶長軍記』とされ、合戦から63年もあとです[3]。従来初出とされてきた元禄元年(1688年)の『黒田家譜』より25年古いのですが、いずれにせよ同時代の記録ではありません[3]。

異説や否定説

  • 笠谷和比古氏は開戦を午前8時ごろとみます。そのうえで「秀秋がすぐ裏切ったのだから問鉄砲はなかった」という議論は開戦10時説を前提にしており、8時ならその前提が崩れる、と反論しています[3]。
  • 同時代の日記『中臣祐範記(なかとみすけのりき)』は、上方衆が勝っていたのに秀秋が後ろから1万5000余で切りかかったため敗れた、と記します[5]。「開戦と同時」なら、西軍が優勢な場面は生じにくいはずです。
  • 笠谷氏の立場では、秀秋の離反は「開戦とほぼ同時」ではなく、戦いがしばらく続いたあとの出来事になります[3]。同じ関ヶ原でも、時計の針の置き方が研究者ごとに違うのです。
  • 事典の通説はいまも「午前7時過ぎ開戦、午後2時ごろ決着」で、図鑑の本文が採る白峰説とは3時間ほどずれます[8]。
  • 議論は現在も動いています。岐阜関ケ原古戦場記念館の館長が2025年の学会で「書き換えが進む関ヶ原の戦い」と題して講演しています[9]。

後世にどう語られたか

江戸幕府が天保期にまとめた『徳川実紀』の一部『東照宮御実紀附録』巻十には、「この日辰刻に軍はじまり、午の刻に及びてもいまだ勝敗分れず」とあり、家康が家臣に「鉄炮を放して試みよ」と命じ、麓から撃ちかけると「筑前勢はじめて色めき立ちて麓へ下せしとぞ」と続きます[6]。しかも原注は、その出所を『天元実記』と示しています[6]。

つまり「朝8時に開戦→昼まで動かない秀秋→家康の催促射撃」という筋書きは、幕府の編纂物の段階で整えられた形です。白峰氏も江戸時代の編纂史料を精査したうえで、「問鉄砲」の話は歴史的事実ではなく創作されたものだと結論づけています[7]。

読者が次に抱く疑問

Q. 結局、秀秋は何時に動いたのですか。──一次史料は「そのとき」としか書かず、細かい時刻を記しません[1]。そのため、午前10時の開戦直後とみる説[2]と、正午ごろとみる説[3]が並びます。

Q. なぜ裏切ったのですか。──東軍側からの働きかけは合戦前から進み、目付も送られていました[4]。ただ本人は2年後に亡くなり、理由を語っていません。事典も「途中ねがえって」と書くにとどまります[8]。

Q. 一次史料が正しいなら、それで決まりではないのですか。──一次史料でも、書いた人が現場にいたとは限りません。9月17日付の連署書状も、合戦後に情報を集めて書かれたものです。だから「午前10時」という数字をどこまで細かく信じるかで、研究者の結論が変わります[1][3]。

Q. 松尾山の占拠は「東軍宣言」だったのですか。──前日に入城した行動自体は伝えられていますが[4]、それを「事実上の東軍」と読むのは現代の解釈で、一次史料にその評価は書かれていません。

図鑑の記述への提案

  1. 区分「諸説あり」は、そのままで問題ありません。
  2. 見出しと本文の「東軍として参戦した」は、一次史料の語「うらきり」や同時代の評価とずれます[1][5]。「東軍に転じた(一次史料の表現は「うらきり」)」のように言いかえることを提案します。
  3. 「本多隆成・笠谷和比古氏らの再反論」について、今回、離反の時刻をめぐる反論として原文で確認できたのは笠谷氏のものだけでした[3]。本多氏の白峰説批判は主に「小山評定」をめぐるもので、離反時刻への反論は確認できませんでした。氏名は根拠を示せる範囲に絞るのが安全です。
  4. 「開戦は午前10時頃」という数字は連署書状に由来すること、事典の通説(午前7時過ぎ開戦)とは差があることを一言添えると、読者が混乱しません[1][8]。
  5. 「問鉄砲」に触れる場合は、初出が寛文3年『慶長軍記』であること、幕府編纂物『徳川実紀』に採られて広まったことを添えると、読者に親切です[3][6][7]。

出典

  1. 関ヶ原の戦い - Wikipedia(節「一次史料による合戦当日の記録」)
    合戦2日後の慶長5年9月17日付・松平家乗宛の石川康通・彦坂元正連署書状は、東軍が敵陣に攻めかかったそのときに小早川秀秋らが「うらきり」をしたため敵が敗走した、と記す。
    「(2)「先手」の井伊直政・福島正則隊を先手に東軍各隊が続いて、敵陣に攻め掛かった。そのとき、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋父子が「うらきり」をしたため、敵は敗走した。」
  2. 関ヶ原の戦い - Wikipedia(節「合戦の経過に関する諸説(開戦時刻)」)
    白峰旬は同連署状などから、開戦は午前10時頃で秀秋はすぐ松尾山を下りて西軍を攻め、開戦直後に東軍の勝利が決まったとする説を提唱している。
    「白峰旬は上記の連署状から、合戦が午前10時頃に始まると、小早川秀秋がすぐに松尾山を下山して西軍に攻撃を仕掛け、開戦直後に東軍の勝利が決まったとする説を提唱している。白峰はまた、(慶長5年9月17日)吉川広家自筆書状、(慶長5年)9月20日付近衛信尹宛近衛前久書状などからも、戦いは東軍と西軍の一進一退の攻防ではなく、一方的な東軍の攻勢に終わり、西軍はすぐさま敗北したと主張する。」
  3. 関ヶ原の戦い - Wikipedia(節「小早川秀秋の陣に対する家康の銃撃」)
    「問い鉄砲」の初出は寛文3年(1663年)刊『慶長軍記』とされ、笠谷和比古は開戦を午前8時とみて「問い鉄砲はなかった」とする議論に反論している。
    「呉座勇一は、その後の研究調査で、2023年時点では、寛文3年(1663年)刊の軍記もの、植木税『慶長軍記』が「問い鉄砲」の初出であり、元禄元年(1688年)『黒田家譜』より25年古いが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いから既に63年経ってからの初出では信用性が無いとしている。 笠谷和比古は、秀秋の裏切りがすぐに行われたことから問い鉄砲は行われず、全て後世の作り話であると切り捨てる見解に対し、開戦時刻を午前10時に始まったことを前提としており、午前8時ならばその前提が崩れると反論する。」
  4. 小早川秀秋 - Wikipedia(節「関ヶ原の戦い」)
    秀秋は決戦前日の9月14日に西軍方の伊藤盛正を松尾山城から追い出して入城し、通説では9月15日午前8時頃の開戦後しばらく松尾山から傍観していたとされる。
    「9月14日、東西両軍決戦の前日に当たるこの日、秀秋は突如として、8,000とも、1万5,000ともされる軍勢を率い、美濃関ヶ原の南西にある松尾山城の伊藤盛正を追い出して入城し、山に布陣した。 9月15日午前8時頃、関ヶ原の戦いが始まると、秀秋は東西両軍が激突するなか、松尾山から傍観していた。」
  5. 小早川秀秋 - Wikipedia(脚注(『中臣祐範記』の記載))
    同時代の日記『中臣祐範記』は、上方衆(西軍)が勝利を得ていたところに秀秋が背後から切りかかって敗北させた、と記し、その行為を非難している。
    「『中臣祐範記』では「上方衆が(それまで)勝利を得ていたのに、小早川秀秋が裏切って後ろから1万5000余にて切りかかったため、どうにもならず(上方衆が)敗北した。……秀秋が「太閤秀吉」の御養子として出頭之仁であるにもかかわらず、今回のことの次第(裏切り)は武勇のうえとは言え、比興之所行であると世間之嘲嘍を受けた」としている。」
  6. 東照宮御実紀附録/巻十 - Wikisource(巻十「秀秋の態度」の条(原注に〈天元実記〉))
    江戸幕府の編纂史料『徳川実紀』の一部である『東照宮御実紀附録』巻十は、辰刻に開戦し午の刻になっても勝敗が決まらず、家康が松尾山へ鉄砲を撃たせると小早川勢が動いた、という筋書きを『天元実記』からの引用として載せる。
    「この日辰刻に軍はじまり、午の刻に及びてもいまだ勝敗分れず、やゝもすれば味方追靡けらるゝ様なり、【秀秋の態度】金吾中納言秀秋かねて裏切すべき由内々聞えしが、いまだその様も見えず、久留島孫兵衛某、先手より御本陣に来り、金吾が旗色何とも疑はし、もし違約せむも計り難しといへば、御気色俄に変じ、しきりに御指をかませられ、扨は忰めに欺かれたるかとの上意にて、孫兵衛に、汝は金吾が陣せし松の尾山にゆき、鉄炮を放して試みよと宣へば、孫兵衛組の同心を召連れ、山の麓より鉄炮打かけしかば、筑前勢はじめて色めき立ちて麓へ下せしとぞ、〈天元実記、〉」
  7. フィクションとしての「問鉄砲」(パート1) : 家康神話創出の一事例(その2)(別府大学機関リポジトリ)(内容記述(Abstract)/別府大学紀要54号、67-78頁)
    白峰旬は、「問鉄砲」に関する江戸時代の編纂史料を精査した結果、それは歴史的事実ではなく家康神話創出を背景に創作された話だと結論している。
    「関ヶ原の戦い(慶長5年9月15日)において、徳川家康が命じて小早川秀秋の松尾山の陣所に向けて鉄砲を撃たせたことにより小早川秀秋の軍勢が家康方に寝返ることになった、いわゆる「問鉄砲」の話については、家康方の軍勢の勝利を決定付け、戦局の流れを変えたとされており、これまで従来の研究史では歴史的事実とされてきた。しかし、「問鉄砲」に関する諸史料(江戸時代の編纂史料)を精査検討した結果、「問鉄砲」に関する話は歴史的事実ではなく、江戸時代における家康神話創出を背景として、「問鉄砲」に関する話が創作された、との結論を得た。」
  8. 小早川秀秋とは - コトバンク(「世界大百科事典(旧版)」内の【関ヶ原の戦】の言及)
    事典類は通説として、関ヶ原の戦いは午前7時過ぎに始まり、秀秋の裏切りもあって午後2時ごろ東軍の勝利に終わったと記す。
    「戦闘は午前7時過ぎから始まったが,この東軍9万余,西軍8万余が東西4km,南北2kmの小盆地で激突した大会戦は,小早川秀秋の裏切りもあって,午後2時ごろ東軍の勝利に終わった。」
  9. 書き換えが進む関ヶ原の戦い(日本農村医学会雑誌 74巻6号)(書誌ページ(文化講演、74巻6号549-551頁、2026年公開))
    岐阜関ケ原古戦場記念館館長の小和田哲男は2025年の学術総会の文化講演で「書き換えが進む関ヶ原の戦い」と題して報告しており、関ヶ原研究の見直しが現在も進行中であることを示す。
    「文化講演 書き換えが進む関ヶ原の戦い 静岡大学 公益財団法人日本城郭協会 岐阜関ケ原古戦場記念館」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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