〈立花宗茂〉大津城への矢文
慶長5年9月の大津城攻め参加と、関ヶ原本戦当日の開城は史実。この攻城に西軍約1万5千が拘束されたことは敗因の一つとされる。ただし家臣が馬印に矢文を命中させた等の劇的な細部は軍記系史料由来で、開城には孝蔵主の仲介など他の要因も記録される。
検証リサーチ
「〈立花宗茂〉大津城への矢文」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
大津城攻めへの参加と9月15日の開城は史実。ただし矢文の場面は立花家側の記録にしかなく、京極家側の史料は大砲と使者の説得で開城したと記す。
くわしい根拠
結論
立花宗茂(たちばなむねしげ)が慶長5年(1600年)9月の大津城攻めに加わったこと、そして関ヶ原本戦と同じ9月15日に大津城が開城したことは、複数の史料が一致して伝える史実です [1][6][7]。しかし「家臣が矢文(やぶみ=手紙を結びつけた矢)を京極高次の馬印(うまじるし=大将の目印)に命中させ、それを読んだ高次が降伏した」という劇的な部分は、攻められた側である京極家の記録にはまったく出てきません [3][4][5]。図鑑の区分「諸説あり」は妥当ですが、実態は「開城の主因としては裏づけがない、立花家側の家伝」に近いものです。
この話が最初に出てくる史料
矢文の話をたどると、行き着くのは立花家(柳川藩)側の記録です。この逸話を載せる現在の解説は、いずれも『旧柳川藩志』(1957年刊)と『福岡県史 近世史料編7(柳川藩初期 下)』(1988年刊)を典拠に挙げています [2]。どちらも近代以降に藩や家臣の家の記録を集めて編んだ本で、同時代(慶長5年当時)の書状や日記ではありません [2]。
いっぽう筆者は、江戸時代の代表的な関ヶ原軍記である『関原軍記大成』(宮川忍斎、享保期成立)の巻之二十二「大津城攻附和平」と、参謀本部『日本戦史 関原役』(1911年)第七篇第九章「大津」を、国立国会図書館の全文テキストで通読しました。どちらにも矢文の記述はありません(確認方法は末尾の調査メモに記しました)。
つまり、いま確認できる範囲では、この話は「同時代の書状や日記」→「江戸時代の軍記」→「近代の研究」という順に流れてきたのではなく、立花家に伝わった家臣の功名話が、近代の藩志編さんの中で活字になったという経路をたどっています [2]。史料の階層でいえば、いちばん下の層にあたります。
異説や否定説
京極家側の記録は、開城の理由をまったく別に説明します。東京大学史料編纂所『大日本史料』第十二編之六(慶長十四年五月三日、高次卒去の条)が収める京極家系の史料には、まず「立花勢長等山より城中に大筒を打入、これにより防戰難儀」とあり、長等山(ながらやま)からの大砲が効いたと書かれています [3]。続けて、山(新)庄東玉斎と高野山の木食応其(もくじきおうご)上人が城に入って和議をすすめ、家老の黒田伊予が再三降伏を願い、それでも高次が承知しないところへ「秀頼の母儀の使として、海津尼、幸藏主來りて」とあります [4]。
同じ条に収める京極家の覚書(『譜牒余録』)はさらに具体的で、「御使孝藏主、海伴と申尼被差越候故、雖非本意任其意、同十五日之朝城」(=孝蔵主と海伴という尼が使者として遣わされたので、本意ではないが従い、15日の朝に城を……)と、開城の直接のきっかけを使者の説得だとしています [5]。立花宗茂の書状も矢文も、ここには一言も出てきません [5]。
なお図鑑本文は「孝蔵主の仲介」とだけ書いていますが、京極家側の記録では孝蔵主は「秀頼の母儀」すなわち淀殿の使者として現れます [4][5]。孝蔵主はもともと豊臣秀吉と北政所(高台院)に仕え、大坂城内で奥向きの奏者(そうじゃ=取り次ぎ役)を務めた女性です [8]。そのため「北政所の使者」とする説明も流布していますが [1]、史料が食い違う以上、どちらか一方に断定するのは避けるのが安全です。
後世にどう語られたか
矢文の話は、語り直されるうちに細部が変わっています。「高次の馬印に矢文を命中させた」とする書き方 [1] と、「旗印の旗竿を鏑矢で射切り、両軍が喝采して屋島の戦いの那須与一になぞらえた」とする書き方 [2] があり、後者は『平家物語』の「扇の的」をなぞった典型的な軍記の型です [2]。射た的が馬印なのか旗竿なのかも一致しません。さらに、矢文が射込まれた日を14日とする書き方 [1] と、13日の三の丸占領のあとと読める書き方 [2] があり、時点もそろっていません。
参考までに、『関原軍記大成』が開城の理由として書くのは、13日朝に寄せ手が撃った石火箭(いしびや=大砲)が天守の柱を打ち切り、松の丸殿(高次の姉妹で秀吉の側室)に仕える女房2人が死んだこと、それに驚いた松の丸殿がしきりに和議を願ったこと、家老黒田伊与の説得、淀殿の使者である孝蔵主と阿茶局、そして木食興山(応其)と本玉斎の勧告です。京極家側の記録 [3][4][5] とほぼ同じ筋立てで、やはり矢文は出てきません。
こうした「後の時代ほど話が細かく劇的になる」現象は、関ヶ原まわりで広く指摘されています。白峰旬は小山評定を例に、江戸時代の編纂史料を並べて「どの時代からその内容の脚色がエスカレートしていくのか」を検討しています [9]。大津籠城戦そのものについても、樋爪修「大津城と大津籠城戦」(『大津市歴史博物館研究紀要』15、2008年、17〜37頁)という専論が出ています(本回答では本文を確認できていません)。
読者が次に抱く疑問
Q1. では宗茂の書状は存在しなかったのか。 「無かった」とまでは言えません。城攻めで降伏を勧める書状のやり取り自体はふつうのことです。ただし、それを矢文で馬印に当てたという場面を裏づける同時代史料は、今回の調査では見つかりませんでした [3][4][5]。
Q2. 開城の決め手は結局なにか。 京極家側の記録が挙げるのは、長等山からの大砲 [3]、木食応其らの和議勧告 [4]、家老黒田伊予の説得 [4]、そして淀殿の使者・孝蔵主らの説得 [5] の四つです。
Q3. 西軍1万5000が足止めされた話は本当か。 京極勢3000が包囲を持ちこたえたこと、その功で高次が若狭小浜を与えられたことは事典類も記しています [6]。大津市歴史博物館も「関が原合戦を東軍の勝利に導いた大津籠城戦は有名」と位置づけています [7]。
図鑑の記述への提案
区分「諸説あり」は維持でよいと考えます。そのうえで、本文を次のように補うと根拠が強くなります。
- 「軍記系史料由来」ではなく「立花家(柳川藩)側の記録に由来し、『旧柳川藩志』などの近代の編纂物で確認できる」と書くほうが正確です。江戸時代の代表的軍記『関原軍記大成』には見えません [2]。
- 「開城には孝蔵主の仲介など他の要因も記録される」は、京極家側の記録では大砲・木食応其の和議勧告・家老黒田伊予の説得・淀殿の使者という順で説明されると具体化できます [3][4][5]。
- 孝蔵主については「北政所(きたのまんどころ)付きの女性だが、この場面では淀殿の使者として記録される」と一言添えると、食い違いが読者に伝わります [1][4][5]。
図表
出典
- 大津城の戦い ― ウィキペディア日本語版(「経緯」節(9月14日の記述))矢文の逸話は「宗茂の書状を家臣の世戸口政真が高次の馬印に命中させ、高次が降参した」という形で語られ、同時に北政所の使者・孝蔵主や黒田伊予の説得も理由に挙げられている。
「その時、宗茂が高次の一命を助けようとの保証の書状をしたため、家臣の世戸口政真が大津城に立てられる高次の馬印に矢文を見事に命中させた。その書状の内容を読んだ高次は宗茂の厚情に感じ入り、かつ北政所の使者・孝蔵主を受け、老臣の黒田伊予の説得もあり、遂に降参した。」
- 世戸口政真 ― ウィキペディア日本語版(「生涯」>「大津城の戦い」節/参考文献に『旧柳川藩志 下巻』(1957年)・『福岡県史 近世史料編7』(1988年))同じ逸話が「鏑矢で旗竿を射切り、那須与一になぞらえて称賛された」という別の形でも語られており、その典拠は『旧柳川藩志』『福岡県史 近世史料編7』という近代の編纂物である。
「宗茂は大津城に翻る京極高次の旗印を政真に指し示して射るように命じ、政真は宗茂の書状を結び付けた鏑矢で旗竿を射切ることに成功。その様子を見た両軍は喝采を挙げ、政真を屋島の戦いにおける那須与一になぞらえて称賛したという。」
- 『大日本史料』第十二編之六 三三〇頁(慶長十四年五月三日 京極高次卒去の条)― 東京大学史料編纂所・史料集版面検索(三三〇頁(本文3行目付近))京極家側の史料は、大津城の防戦が苦しくなった原因として立花勢が長等山から城内へ撃ち込んだ大筒(大砲)を挙げている。
「立花勢長等山より城中に大筒を打入、これにより防戰難儀」
- 『大日本史料』第十二編之六 三三一頁(慶長十四年五月三日 京極高次卒去の条)― 東京大学史料編纂所・史料集版面検索(三三一頁(本文))京極家側の史料は開城の経緯を、木食応其らの和議勧告・家老黒田伊予の再三の説得・秀頼の母(淀殿)の使者である海津尼と孝蔵主の来訪として記し、立花宗茂の書状や矢文には触れていない。
「家臣黒田伊豫某も再三和議せむことを請、このとき高次領掌せさるのところ、秀頼の母儀の使として、海津尼、幸藏主來りて」
- 『大日本史料』第十二編之六 三三五頁(『譜牒余録』所収 京極家覚書)― 東京大学史料編纂所・史料集版面検索(三三五頁(『譜牒余録』所収の覚、慶長五子年の条))京極家自身が幕府へ提出した覚書は、開城の直接のきっかけを孝蔵主と海伴という尼の使者の説得だとしており、矢文にはまったく触れていない。
「御使孝藏主、海伴と申尼被差越候故、雖非本意任其意、同十五日之朝城」
- 大津城 ― コトバンク(講談社「日本の城がわかる事典」)(「日本の城がわかる事典」大津城)京極高次は毛利元康・立花宗茂ら西軍1万5000の包囲を京極勢3000で7日間持ちこたえ、二の丸まで占領されて開城し、その功で若狭小浜へ加増転封された。
「高次は1600年(慶長5)の 関ヶ原 の戦いの際、東軍に与して大津城に籠城し、 毛利元康 ・立花宗茂ら西軍(豊臣方)1万5000の包囲攻撃を受けた。」
- 大津城跡 ― 大津の歴史事典(大津市歴史博物館)(「大津城跡」本文)大津市歴史博物館は、慶長5年の大津籠城戦を関ヶ原合戦を東軍勝利に導いた戦いとして位置づけている。
「慶長5年(1600)の関が原合戦を東軍(徳川家康軍)の勝利に導いた大津籠城戦は有名。」
- 孝蔵主 ― コトバンク(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「孝蔵主」)孝蔵主は豊臣秀吉と北政所(高台院)に仕えた奥女中で、大坂城内で奥向きの奏者(取り次ぎ役)を務めた人物である。
「出家して孝蔵主と称し, 豊臣秀吉 と 北政所 ( きた のまんどころ)( 高台院 )につかえ,奥向きの 奏者 として大坂城内で 権勢 をふるう。」
- 白峰旬「「小山評定」の誕生:江戸時代の編纂史料における小山評定の記載内容に関する検討」『別府大学大学院紀要』16(2014年)― 別府大学機関リポジトリ(抄録(Abstract))関ヶ原合戦をめぐる有名な場面には、江戸時代の編纂史料の中で時代が下るほど脚色が強まるものがあり、その過程を史料ごとに検討する研究がある。
「どの時代の史料から小山評定の記載があらわれるのか、そしてどの時代からその内容の脚色がエスカレートしていくのか、という点を検討する必要がある」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。