〈本多忠勝〉小牧・長久手の単騎牽制 — 大軍の前で馬を洗う
500騎で秀吉の大軍(8万とも16万とも)の眼前に進み、龍泉寺川で悠々と馬の口を洗わせて進軍をためらわせた — 典拠は『三河後風土記正説大全』など江戸期の徳川系軍記で、兵数も書により異同が大きい。従軍と、武名が豊臣方に知られたことは確かだが、「川で馬を洗う」場面は史実として確認できない。
検証リサーチ
「〈本多忠勝〉小牧・長久手の単騎牽制 — 大軍の前で馬を洗う」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
同時代の記録には無く、享保期の『三河後風土記正説大全』など江戸期徳川方の編纂物にのみ出る話。幕府編纂『徳川実紀』の付録は同じ場面を八百人の対峙とし、馬洗いを書かない。牽制は諸説あり、馬洗いは伝説。
くわしい根拠
結論
「本多忠勝が500騎で秀吉の大軍の前に出て、龍泉寺川で悠々と馬の口を洗わせた」という話は、合戦と同じ時期の記録では確かめられません。江戸時代に徳川方でまとめられた本にだけ出てきます。ただし「忠勝が小牧に残され、少ない手勢で秀吉の大軍と川をはさんでにらみ合った」という骨組みのほうは、幕府の公式史書『徳川実紀』にも、それとは別系統の伝えとしても載っています[1][3]。つまり「牽制した」は諸説あり、「馬を洗った」は伝説に近い、と二段に分けるのが正確です。
この話が最初に出てくる史料
図鑑が典拠に挙げる『三河後風土記正説大全』は、享保年間(1716〜1736年)に神田白龍子がまとめた50巻本です[6]。合戦から約130年もあとの本で、書目録の多くで偽書(作りものとされる書物)に分類されます[6]。早稲田大学図書館に伝わる写本も書写年不明の11冊で、外題は『三河後風土記』とされています[7]。板本ではなく写本で読み継がれた実録もの(読み物風の記録)でした。
では、それより古い記録はどうか。豊臣方の立場で書かれた小瀬甫庵『太閤記』巻九は、天正12年(1584年)4月9日の同じ場面を細かく描きます。秀吉が龍泉寺に着いて激怒し、小幡へ攻め込もうとするのを稲葉らが押しとどめ、柏井へ引き上げた、という筋です[4]。ここに本多忠勝はまったく出てきません。
いっぽう19世紀に幕府が編んだ『東照宮御実紀』(『徳川実紀』本編)巻三には、忠勝が石川康通とわずかな手勢で「龍泉寺川の南」を駆け、秀吉の旗本へ鉄砲を撃ちかけたあと、「忠勝も馬より下り川邊にて馬の口をすゝがしむ」と書かれます[1]。現在たどれる範囲では、「馬を洗う」場面は江戸中期以降の徳川方の書物にしか見えません。
異説や否定説
同じ『徳川実紀』の付録『東照宮御実紀附録』巻四は、〈柏崎物語〉という別の本を出典として明記したうえで、忠勝は「己が手勢わづか八百人」で川沿いを進み、秀吉が感心した、と記します。ここには馬を洗う場面がありません[3]。一つの編纂事業の中でさえ、話の形が二つに割れているのです。
人数もそろいません。図鑑の「500騎」は、『徳川実紀』本編では「わづかの勢」[1]、付録では「八百人」[3]です。秀吉軍のほうも、『徳川実紀』は「惣軍八萬餘人を十六段になして押出す」と書き、引き揚げの場面では「十二萬の軍勢」とします[2]。「8万とも16万とも」という振れ幅は、この「八万余を十六段(16の部隊)に分けた」という一文が読み違えられて広まった可能性があります。断定はできませんが、16万という数を同時代の記録で裏づけることはできません。
忠勝を見とがめた人物も食い違います。『徳川実紀』では稲葉一鉄が「本多平八にて候」と言い当てますが[1]、正説大全にもとづく通俗の説明では加藤清正・福島正則が討ち取りを進言したことになっています[5]。
後世にどう語られたか
近代以降の事典は、この場面を採りません。『日本大百科全書』の本多忠勝の項は、長久手での武者ぶりが有名だと書くだけで、馬を洗う話には触れないのです[8]。反対にインターネット上の解説では、正説大全の巻42・巻43を典拠として「500名」「16万」「龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせた」という形が定着しています[5]。研究のほうは、藤田達生「小牧・長久手の戦いと羽柴政権」(『愛知県史研究』13、2009年)のように、戦い全体を政治史として問い直す方向へ進んでおり[9]、武辺話の真偽そのものは主題になっていません。
読者が次に抱く疑問
Q1. 「龍泉寺川」とは今のどの川ですか。 川名を出すのは『徳川実紀』のほうで[1]、より古い『太閤記』は「吾馬しるし下なる川」と書くだけで名を挙げません[4]。つまり「龍泉寺川」という呼び方自体が後世の書物の言い方で、当時そう呼ばれていた確証はありません。
Q2. なぜ「馬を洗う」なのですか。 敵の目の前で馬の口をすすがせるのは、「少しも慌てていない」ことを示す型どおりの演出です。『徳川実紀』でもこの動作の直後に「秀吉其擧動を感ずる事かぎりなし」と続き[1]、忠勝の胆力を印象づける締めくくりになっています。読み物として効く場面ほど、あとから足された疑いを持つ必要があります。
Q3. 武名が上がったこと自体は確かですか。 事典も長久手での武者ぶりを著名と認めており[8]、武名が高まったこと自体を疑う理由はありません。ただし「秀吉が涙を浮かべて討つなと命じた」という台詞まわしは、江戸期の読み物の語り口です[1][5]。
図鑑の記述への提案
- 典拠の書き分け。「江戸期の徳川系軍記」ではなく、「享保年間に神田白龍子が編んだ『三河後風土記正説大全』(50巻本。偽書とされることが多い)と、19世紀の幕府編纂『徳川実紀』巻三」と具体名で示す[1][6][7]。
- 兵数を断定しない。「『徳川実紀』本編は『わづかの勢』、付録は『八百人』、通俗の説明は500騎」と併記する[1][3][5]。
- 「8万とも16万とも」に一言添える。『徳川実紀』の「惣軍八萬餘人を十六段になして押出す」を引けば、数字が振れる理由まで読者に伝わります[2]。
- 否定の根拠を具体化。「川で馬を洗う場面は史実として確認できない」に、「幕府編纂の『東照宮御実紀附録』は同じ場面を八百人の対峙として記し、馬を洗う描写を持たない」を足す[3]。
- 区分は「諸説あり」のままでよいものの、本文で「牽制の逸話=諸説あり/馬を洗う場面=伝説」と二段に分けると誤解が減ります。
図表
出典
- 東照宮御実紀 卷三(『徳川実紀』本編、Wikisource 翻刻)(卷三 天正十二年 長久手の条)幕府編纂の『徳川実紀』本編には、忠勝が龍泉寺川で馬の口をすすがせ秀吉が感心した、稲葉一鉄が彼を本多平八と見分けた、と記されている。
「稻葉一鐵侍りしが。鹿の角の前立物に白き引𢌞しは。先年姉川にて見覺えたる德川が股肱の勇士本多平八にて候と申す。秀吉淚をながし。天晴剛のものかな。をのれこゝにて討死し。主の軍を全くせんとおもふとみえたり。我彼等主從を終には味方となし。被官に屬せんと思へば。汝等かまへて矢の一筋もいかくべからずと下知しとりあはざれば。忠勝も馬より下り川邊にて馬の口をすゝがしむ。秀吉其擧動を感ずる事かぎりなし。」
- 東照宮御実紀 卷三(秀吉軍の兵数の記述、Wikisource 翻刻)(卷三 天正十二年 秀吉出陣の条)『徳川実紀』本編は秀吉軍を「八万余人を十六段に分けて押し出した」と記しており、8万と16という数字が一文に同居している。
「長久手の先手大敗すと聞て。敵今はつかれたるらん。いそぎはせ付て討とれと其まゝ早貝吹立させ。惣軍八萬餘人を十六段になして押出す。」
- 東照宮御実紀附録 巻四(『徳川実紀』付録、Wikisource 翻刻)(巻四 長久手役 本多忠勝の条(末尾に出典〈柏崎物語〉と明記))同じ幕府編纂物の付録は〈柏崎物語〉を典拠として忠勝の手勢を八百人とし、馬の口を洗う場面を記していない。
「本多平八郎忠勝は小牧山に残り守りしが、秀吉が大軍押出すをみて、遮り伐たむといふ、酒井忠次・石川数正きかざれば、己が手勢わづか八百人もて川水にそひ、秀吉が大軍と睨みあひつゝ川越に押して行く、秀吉其大胆にして且忠烈なるを感ず、」
- 太閤記 巻九(小瀬甫庵、Wikisource 翻刻)(巻九 天正十二年卯月九日 龍泉寺・柏井引揚げの条)豊臣方の立場で書かれた早い時期の記録は、天正12年4月9日の龍泉寺の場面を詳しく述べるが、本多忠勝も馬を洗う話も出てこない。
「秀吉もはや彼寺へ着給ふていかりつゝ、池田に敵をかならす侮らざれ、まばらかけすなと再三制しつるに不㆑用してかく取越度事、むねん極々せりとて、腹をたち〳〵小幡へかゝつて池田か弔合戦してんよと、いきまきて馬をはやめ給ひしを、各くつはに取付、はや日も西山にかゝり、てきも勝て甲の緒をしめ、一かう不㆓取合㆒体に見之候条、唯柏井まて御馬をいれられ、可㆑然おはさんと、稲葉などもつよくいさめ申せば、応㆓其儀㆒帰陣し給ふ、」
- 本多忠勝 - Wikipedia(「生涯」節(脚注は『三河後風土記正説大全』巻42・43))現在ひろく流布する形は「500名」「豊臣方16万」「龍泉寺川で単騎乗り入れて馬の口を洗わせた」であり、典拠として『三河後風土記正説大全』巻42・巻43が挙げられている。
「天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った。」
- 三河後風土記 - Wikipedia(「概要」節)『三河後風土記正説大全』は享保年間に神田白龍子が編んだ50巻本で、書目録の多くで偽書とされる。
「享保年間、神田白龍子により編まれた改撰本(中山本)全50巻があり、この50巻本は、家康の九代の祖・世良田有親から「家康公関八州拝領」の天正18年(1590年) の180年余の物語となっている。徳川家歴代を賛美する傾向が強いことが特徴とされる。42巻本『改正三河後風土記』、50巻本『三河後風土記正説大全』は、ともに類書として広く流布したようであるが、速見行道の『偽書叢』など書目録の多くで偽書とされる。」
- 三河後風土記正説大全 巻之1-22(早稲田大学図書館 古典籍総合データベース)(請求記号 文庫31 E1174/内容等 Notes)『三河後風土記正説大全』は書写年不明の写本として伝わり、巻末書名は「三河後風土記正説」、外題は「三河後風土記」である。
「巻之1の巻末書名:三河後風土記正説 外題:三河後風土記」
- 本多忠勝とは(コトバンク/日本大百科全書ほか)(日本大百科全書(ニッポニカ)「本多忠勝」高木昭作執筆)事典の本多忠勝の項は長久手での武者ぶりが著名だと述べるにとどまり、龍泉寺川で馬を洗う逸話には触れていない。
「84年(天正12)長久手(ながくて)の戦いでの武者ぶりも著名。「徳川四天王」の一人とされる。」
- 小牧・長久手の戦いと羽柴政権(藤田達生、『愛知県史研究』13、2009年)(文化財論文 書誌情報(1-14頁))小牧・長久手の戦いについては、個々の武辺話ではなく羽柴政権の政治史として論じる研究がある。
「藤田達生 2009「小牧・長久手の戦いと羽柴政権」 『愛知県史研究』」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。