〈小山田信茂〉織田信忠に「不忠」と断罪され甲斐善光寺で処刑された

出頭後の処刑は『信長公記』(3月7日条に「小山田出羽守」成敗)で確認できる。『甲乱記』『甲斐国志』は3月24日甲斐善光寺とし、命日は長生寺『月日過去帳』と一致(日付は史料間で相違)。面罵の文言は軍記的脚色の可能性がある。

検証リサーチ

「〈小山田信茂〉織田信忠に「不忠」と断罪され甲斐善光寺で処刑された」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 87 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

処刑自体は同時代史料で確認できる史実。ただし「善光寺」「3月24日」「信忠の面罵」は後世の軍記由来で、日付も場所も執行者も史料間で割れる「諸説あり」。

くわしい根拠

結論

小山田信茂が武田氏滅亡の直後に織田方に処刑されたこと自体は、同時代史料で確かめられます[1]。しかし逸話の細部、つまり「甲斐善光寺で」「3月24日に」「織田信忠が『不忠』と面と向かって罵って」という三点は、同時代史料にはありません。すべて江戸時代の軍記(戦争を物語風に書いた本)や地誌(地域の記録集)から出てきます[2][3][4][8]。とくに面罵の場面は、私が確認した『甲乱記』の版本本文にも台詞としては出てきません。よって区分は「史実」ではなく「諸説あり」が適切です。

この話が最初に出てくる史料

最も古いのは織田信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記』です。三月七日の条で、織田信忠が上諏訪から甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を置き、武田勝頼の一門・親類・家老を捜し出してことごとく成敗した、と記します。その処刑者名簿の中に「小山田出羽守」の名があります[1]。

ただし、ここには「善光寺」も「不忠」の言葉も、家族が殺されたという話も出てきません。場所は甲府とあるだけです[1]。しかも同じ『信長公記』は勝頼父子の自害を三月十一日としています[1]。信茂の離反は三月九日ごろとされますから[7]、三月七日にすでに処刑されていたとは考えにくく、この条は信忠の甲府入り以後の処断をまとめて並べた記事と読むのが自然です。つまり同時代史料でも、日付はそのままの意味では受け取れません。

善光寺・信忠・家族・日付がそろうのは『甲乱記』です。本文は「葛山十郎信貞并に小山田出羽守信茂は、善光寺にて刺殺され」と書き[2]、別の箇所では「勝頼生害以後、十三日と申すに、城介殿へ召出されて、押へて取つて刺殺さる」、続けて七十過ぎの老母・妻・八歳の男子・三歳の女子も刺殺されたと記します[3]。「城介殿」は秋田城介、すなわち織田信忠のことです。勝頼の自害(三月十一日)から十三日目が三月二十四日にあたります。

ただし『甲乱記』は軍記物語で、成立年代も著者も確実ではなく、版本(印刷された本)は正保3年(1646年)の開版と記され、成立の下限はその年とされます[4]。滅亡から60年以上あとの本です。『甲斐国志』はさらに新しく、松平定能が編集した甲斐国の地誌で、1814年(文化11年)の完成です[8]。つまり「善光寺で3月24日」は、同時代の記録ではなく後世の編纂物の情報です。

異説や否定説

第一に、誰が命じたかが割れます。『甲乱記』は「城介殿」=信忠としますが[3]、現代の辞典には「織田信長に甲府善光寺で殺された」とするものもあります[7]。

第二に、日付が割れます。『信長公記』は三月七日条[1]、『甲乱記』は「十三日と申すに」で逆算して三月二十四日[3]です。

第三に、場所です。同時代の『信長公記』は甲府とだけ書き、善光寺とは書きません[1]。善光寺説は『甲乱記』や『甲陽軍鑑』系の伝えで、そこでは信茂のほか葛山信貞・小山田八左衛門尉・小菅五郎兵衛らも善光寺で処刑されたとされます[5]。

第四に、そもそも処刑されなかったという伝承もあります。信茂はこのとき死なず、のちに武蔵国の五日市(東京都あきる野市)あたりに館を構えたという説があり、都立五日市高校の敷地内に「鎧塚」と呼ばれる墓碑が残ります[6]。史料的な裏づけは弱く、伝承の域を出ません。

後世にどう語られたか

『甲乱記』は信茂を「梟悪(きょうあく)の名を末代に流し」と地の文で厳しく断罪しますが、これは書き手の論評であって、信忠の台詞ではありません[3]。この語り口が、のちの読み物で「信忠が面と向かって不忠をなじった」という場面に作り替えられていったと考えられます。歴史研究者の記事でも、この最期は「不忠であることを指弾され、処刑されたと伝わっている」という伝承の形で紹介されています[9]。

読者が次に抱く疑問

Q. なぜ人質を差し出そうとした信茂が許されなかったのか。 史料は理由を書きません。『信長公記』を見るかぎり、信忠は武田の一門・親類・家老を広く捜し出して処断しており[1]、信茂だけが特別だったわけではないようです。

Q. 家族まで殺されたのは本当か。 これを書くのは『甲乱記』だけです[3]。同時代史料には出てきません。断定はできません。

Q. 信茂は本当に「逆臣」なのか。 近年は総合的な再評価が進んでおり、裏切りの一点だけで評価する見方は見直されつつあります[9]。

図鑑の記述への提案

  1. 区分を「史実」から「諸説あり」へ。処刑は史実でも、日付・場所・執行者・面罵のすべてが史料間で割れます。
  2. 「『信長公記』(3月7日条に「小山田出羽守」成敗)で確認できる」はそのままで正確ですが、「同書は場所を甲府とするだけで善光寺とは書かず、面罵も家族の処刑も記さない」と一文足すと誤解が減ります[1]。
  3. 「『甲乱記』『甲斐国志』は3月24日」は、『甲乱記』の版本本文が「勝頼生害以後、十三日と申すに」と書く形であることを明示し、3月24日は逆算値だと書き分けるのが正確です[3]。
  4. 執行者を「織田信忠」と断定せず、「『甲乱記』は『城介殿』(信忠)とするが、信長とする辞典もある」と併記を[3][7]。
  5. 「面罵の文言は軍記的脚色の可能性がある」は、より強く「軍記の版本本文にも信忠の台詞としては見えず、後世の読み物での脚色と考えられる」と書けます[3][4]。

出典

  1. 信長公記 巻十五(九)信長公御乱入之事(ウィキソース)(巻十五(九)信長公御乱入之事)
    同時代史料『信長公記』は三月七日条で織田信忠の甲府入りと武田一門・家老の一斉処刑を記し、その処刑者名に「小山田出羽守」を挙げるが、善光寺とも面罵とも書かない。
    「三月七日 三位中将信忠卿上ノ諏訪より甲府に至而御入国 一条蔵人 私宅に被居御陣 武田四郎勝頼一門親類家老之者尋捜而悉御成敗  生害之衆 一条右衛門大輔 清野(キヨノ)美作守 朝比奈摂津守 諏訪越中守 武田上総介 今福筑前守 小山田出羽守 正用軒 山県三郎兵衛子 隆宝是はおせうどう事也 此等皆御成敗候〻也」
  2. 甲乱記 下・武田の一族家僕の面々生害の事(ウィキソース)(甲乱記 下「武田の一族家僕の面々生害の事」)
    『甲乱記』は小山田信茂の処刑場所を善光寺と記す。
    「葛山十郎信貞并に小山田出羽守信茂は、善光寺にて刺殺され」
  3. 甲乱記 下・小山田出羽守心替並勝頼最後の事(ウィキソース)(甲乱記 下「小山田出羽守心替並勝頼最後の事」)
    『甲乱記』は処刑を「勝頼生害以後、十三日」目とし、命じたのは「城介殿」(織田信忠)、老母・妻・八歳の男子・三歳の女子も殺されたと記すが、信忠が「不忠」と面罵する台詞は書かない。
    「勝頼生害以後、十三日と申すに、城介殿へ召出されて、押へて取つて刺殺さる。我のみならず、七十に余る老母、年頃相馴れし妻、八歳になる男子、三歳になる女子共に、皆刺殺さる。纔に十三日生き延びんとて、梟悪の名を末代に流し、嘲を万人の舌頭に残す。」
  4. 甲乱記 - Wikipedia(成立年代と著者)
    『甲乱記』は成立年代・著者が不詳の軍記物語で、版本は正保3年(1646年)開版と記され成立の下限とされる。
    「版本では江戸時代の正保3年(1646年)に開版したと記されており、成立の下限は同年とされる。」
  5. 甲斐善光寺 - Wikipedia(歴史(武田氏滅亡))
    甲斐善光寺での処刑は『甲陽軍鑑』等に基づく伝えで、信茂のほか葛山信貞らも処刑されたとされる。
    「『甲陽軍鑑』等によれば、甲斐善光寺では勝頼異母弟の葛山信貞、郡内領主・小山田氏の当主小山田信茂、小山田一族の小山田八左衛門尉、山県同心の小菅五郎兵衛らが処刑されたという。」
  6. 小山田信茂 - Wikipedia(信茂の勝頼離反から滅亡)
    信茂はこのとき処刑されず武蔵五日市に生き延びたとする伝承があり、鎧塚と呼ばれる墓碑が残る。
    「伝承だが、信茂はこのときには処刑されず、その後に現在の東京都立五日市高等学校(東京都あきる野市)の辺りに館を構えていたとする説があり、同校敷地内の西側に鎧塚と呼ばれる墓碑が現存している。」
  7. 小山田信茂とは(デジタル版 日本人名大辞典+Plus / コトバンク)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「小山田信茂」)
    現代の人名辞典は処刑を天正10年3月24日・甲府善光寺とし、命じた人物を織田信長とする。
    「武田勝頼の滅亡のときうらぎったが,天正(てんしょう)10年3月24日織田信長に甲府善光寺で殺された。44歳。通称は弥三郎。」
  8. 甲斐国志とは(日本大百科全書 / コトバンク)(日本大百科全書(ニッポニカ)「甲斐国志」)
    『甲斐国志』は松平定能編の甲斐国地誌で1814年(文化11年)完成、事件から230年余りのちの編纂物である。
    「松平定能(まつだいらさだまさ)編集の甲斐国(山梨県)4郡の地誌。1814年(文化11)完成。全123巻。」
  9. 【戦国こぼれ話】武田勝頼を裏切った小山田信茂。実際には、本当に逆臣だったのだろうか(渡邊大門)(■悲惨な信茂の最期)
    研究者による解説でも、不忠を指弾されて処刑されたという最期は「伝わっている」という伝承の形で示され、逆臣像の再評価が進んでいる。
    「ところが、逆に信茂は不忠であることを指弾され、処刑されたと伝わっている。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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