〈大野治長〉冬の陣の講和をまとめた
慶長19年12月8日〜12日、織田有楽斎とともに本多正純・後藤光次と交渉し、和議を成立させて次男・治安を人質に出した(『大日本史料』所収文書)。「内堀まで埋められたのは治長の交渉失敗」という通説にも、徳川方の既定方針だったとする再検討がある。家康が戦後に治長の「粉骨と忠義」を賞賛したという伝えもある。
慶長19年12月8日〜12日、織田有楽斎とともに本多正純・後藤光次と交渉し、和議を成立させて次男・治安を人質に出した(『大日本史料』所収文書)。「内堀まで埋められたのは治長の交渉失敗」という通説にも、徳川方の既定方針だったとする再検討がある。家康が戦後に治長の「粉骨と忠義」を賞賛したという伝えもある。