〈藤堂高虎〉田平子峠で農民を処刑した
天正17年(1589)頃、紀伊北山一揆鎮圧の拠点として赤木城を築き、一揆に加担した多数の農民を田平子峠で斬首した(『新七郎家乗』)。「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」という俗謡が現地に残る。人数など細部には諸説あるが処刑の事実は記録・伝承の双方にあり、人情家・忠義の人という像だけでは語れない、豊臣政権の武将としての苛烈な一面である。
天正17年(1589)頃、紀伊北山一揆鎮圧の拠点として赤木城を築き、一揆に加担した多数の農民を田平子峠で斬首した(『新七郎家乗』)。「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」という俗謡が現地に残る。人数など細部には諸説あるが処刑の事実は記録・伝承の双方にあり、人情家・忠義の人という像だけでは語れない、豊臣政権の武将としての苛烈な一面である。