〈石田三成〉首は友人たちが弔った

三成の首は生前親交のあった大徳寺の春屋宗園・沢庵らが引き取り、三成自身が創建に関わった三玄院に葬られた。1907年の発掘調査で遺骨が確認されている。

検証リサーチ

「〈石田三成〉首は友人たちが弔った」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

大筋は認められるが同時代史料は未確認。通説が語るのは「首」でなく「遺骸」で、根拠は三玄院の寺伝と近世の伝記。区分は「諸説あり」を提案する。

くわしい根拠

結論

「三成の首を友人たちが弔った」という話は、大筋では研究者にも受け入れられている。三成が春屋宗園に参禅し、三玄院の創建に関わったこと [3][4]、そして三玄院に三成の墓とされる石があり、1907年にそこから一体分の人骨が出たこと [6][7] は動かない。

ただし「史実」と言い切るには弱い点が三つある。

  1. 通説が語るのは「首」ではなく「遺骸(からだ全体)」である。三条河原にさらされたのは首だが、三玄院に葬られたのは遺骸だと書かれている [1][2]。
  2. 引き取りを記した慶長5年(1600年)当時の一次史料(その場にいた人の日記や書状)は、今回の調査では見つからなかった。根拠は三玄院の寺伝と、春屋宗園・沢庵の側に伝わった記録である [2][5][6]。
  3. 1907年に掘られたのは「三成の墓と伝えられてきた墓」で、墓石の文字は磨滅して一字も読めなかった [6][7]。

したがって区分は「史実」より「諸説あり」がふさわしい。

この話が最初に出てくる史料

最初に書いたのが誰かを特定できる同時代史料は確認できなかった。現在たどれる根拠は次の三系統である。

(a) 春屋宗園側の記録。春屋宗園(大宝円鑑国師)は三成の禅の師で、三玄院の開山。三成らが創建に関わった塔頭である [3][4]。春屋の語録『一黙稿』は三玄院に伝わり、1960年に『大寶圓鑑國師一黙稿』として活字化された [5]。1907年の改葬碑も「国師の記に拠るに」と、この種の記録を根拠にしている [6]。ただし、その「記」に埋葬そのものが書かれているかどうかは、碑文の書きぶりからは読み取れない。

(b) 沢庵側の伝記。沢庵宗彭は春屋の弟子で、前年から三成の居城・佐和山にいた。落城後に春屋のもとへ逃れ、春屋とともに遺体を引き取って三玄院に葬ったとされる [2]。ただしこれを伝えるのは、沢庵の門人・武野宗朝がまとめた伝記『東海和尚紀年録』である [2]。沢庵の死後に弟子が編んだ本であり、事件と同時代の記録ではない。

(c) 三玄院の寺伝。ここが一番重要である。1907年の「石田治部少輔遺骨改葬の碑」(撰文は東京帝国大学の三上参次)は、こう書いている。「大徳寺塔頭三玄院の塋域に苔石あり。高二尺許銘文磨滅一字を弁ずべからず、相伝えて石田治部少輔の墳として…」。そして埋葬については「按ずるに」「蓋し国師其遺骸を乞いて之を院中に葬りしならん」と、推し量る言い方で結んでいる [6]。当時一流の歴史家も、断定できる史料は挙げられなかったのである。伝記『稿本石田三成』の墓の写真説明も「同院にて三成の墓と伝うるものなり」と書き、「形式よりもいうも、年代より考うるも、慶長頃のものたるは疑なき」と、様式による年代推定を もう一つの根拠にしている [7]。

異説や否定説

三玄院の創建者にも異説がある。『日本歴史地名大系』は「三人の檀越については異説があり」とし、『都林泉名勝図会』は三成を挙げず、浅野幸長・森長定・森忠政の三人とする [3]。創建年も、京都市の駒札は天正17年(1589年)とするが [4]、事典は「天正年間(一五七三―九二)」としか書かない [3]。三成と三玄院の結びつき自体、近世にはゆらぎがあったことになる。

処刑そのものを否定する伝承もある。秋田市の帰命寺には、三成が佐竹氏にかくまわれて生き延びたという伝説があり、1929年10月26日の『秋田魁新報』夕刊にも「石田三成が秋田で死んだという説」という記事が載っている [9]。これは伝承であって史実とは認められていないが、「首の行方」に別の物語が育っていたことは示している。

墓は一か所ではない。高野山奥の院や京都・妙心寺壽聖院などにも三成の墓・供養塔がある [1]。「ここに葬られた」と称する場所が複数ある点は、割り引いて読む必要がある。

後世にどう語られたか

この話が広く知られるようになったのは、明治の顕彰運動がきっかけである。1907年5月19日、実業家の朝吹英二の呼びかけと時事新報社の協力で墓が発掘された。目的は渡辺世祐が三成の伝記を書くためだったが、その『稿本石田三成』(1907年)は遺骨のことを書いていない [8]。同年10月20日、遺骨は春屋宗園の墓のそばに改葬された [7]。碑文には、三成が「永く汚名を蒙る」ことを哀しんだと記されている [6]。つまり「逆賊」とされてきた三成を見直す動きの中で、「友が弔った」という物語が語り直されたのである。

遺骨は京都帝国大学の足立文太郎が調べたが公表せず、1943年に清野謙次が引き継いだ。結果は「頭は前後に長く反っ歯」「没年41歳相当」などで、のちに鈴木尚が写真から再検討している [8]。ただし石膏像などの標本は貸し出し先から戻らず、行方不明になった [8]。「1907年に確認された」という言い方が独り歩きしやすいのは、この経緯が知られていないためだろう。

読者が次に抱く疑問

Q. さらし首なのに、どうやって引き取れたの? A. 手続きを書いた当時の記録は見つからなかった。碑文が「乞いて」と推測で書くように、経緯そのものが分かっていない [6]。

Q. 掘り出された骨は本当に三成のもの? A. 決め手は「三成の墓と伝えられてきた場所」から、慶長頃の様式の墓石とともに出たことである [7]。銘は読めず [6]、標本も失われたため [8]、今のところ独立した再検証はできない。

Q. 弔ったのは春屋と沢庵の二人だけ? A. 春屋の指示で弟子の江月宗玩と沢庵らが運んだ、と紹介する解説もある [6]。名前の顔ぶれは資料によって揺れる。

図鑑の記述への提案

  • 「三成の首は…引き取られ」→「三成の遺骸は…引き取られ」に。通説は遺骸(全身)を葬ったとしており [1][2]、1907年に出土したのも一体分の骨である [8]。「首」と書くと、首だけを埋めた首塚の話に読めてしまう。
  • 「1907年の発掘調査で遺骨が確認されている」→「1907年に墓が発掘され、一体分の人骨が出土した。ただし墓石の銘は磨滅しており、三成本人と確定する独立の証拠はない」に。標本が失われた事実も添えたい [8]。
  • 区分を「史実」→「諸説あり」に。同時代史料が確認できず、根拠が寺伝と近世の伝記だからである。
  • 余裕があれば「三玄院の創建は天正17年(1589年)とする説が有力だが、檀越の顔ぶれには異説もある」を補足したい [3][4]。

出典

  1. 石田三成 - Wikipedia(「最期」節(参考文献は中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年))
    通説では、三条河原にさらされたのは「首」だが、三玄院に葬られたのは「遺骸」であり、引き取ったのは春屋宗園と沢庵宗彭とされる。
    「三成の首は、行長や恵瓊の首、さらに自害していた長束正家の首と共に、三条河原で梟首された。そして、三成の遺骸は生前親交のあった春屋宗園と沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。」
  2. 沢庵宗彭 - Wikipedia(「生涯」節。同記事は出典に『東海和尚紀年録』を挙げ、「後に門人・武野宗朝が『東海和尚紀年録』を記している」とする)
    沢庵は佐和山落城後に春屋のもとへ逃れ、春屋とともに三成の遺体を引き取って三玄院に葬ったとされる(典拠は門人・武野宗朝が編んだ伝記『東海和尚紀年録』)。
    「この後、春屋と共に、処刑された三成の遺体を引き取った後、三玄院に葬り、手厚く弔っている。」
  3. 三玄院とは - コトバンク(平凡社『日本歴史地名大系』)(日本歴史地名大系「三玄院」項)
    三玄院の創建は天正年間で、石田三成を含む三人の檀越が春屋宗園を開山として建てたと「伝える」ものであり、檀越の顔ぶれには異説がある。
    「大徳寺の塔頭。天正年間(一五七三―九二)に石田三成・浅野幸長・森忠政の三名が、春屋宗園(大宝円鑑国師)を開山として創建したと伝える。三人の檀越については異説があり、「都林泉名勝図会」は、次のように浅野幸長・森長定・森忠政の三人をあげている。」
  4. 三玄院|【京都市公式】京都観光Navi(駒札)(観光スポット情報「三玄院」駒札本文)
    京都市公式の駒札解説は、三玄院を天正17年(1589)に浅野幸長・石田三成・森忠政が春屋宗園を開祖として創建した寺とし、境内に三成らの墓があるとする。
    「天正17年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が、春屋宗園(しゅんおくそうえん)和尚(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。」
  5. 大寶圓鑑國師一黙稿(三玄院編、淡交新社、1960年) - 国立国会図書館サーチ(書誌情報(五百部限定、奥付に編者 藤井宗省の表示あり))
    春屋宗園(大宝円鑑国師)の語録『一黙稿』は三玄院が編んで1960年に淡交新社から刊行されており、三玄院に春屋自身の記録が伝わることを示す。
    「大寶圓鑑國師一黙稿 資料種別 図書 著者 三玄院編 出版者 淡交新社 出版年 1960.2」
  6. 石田三成のお墓は京都「大徳寺三玄院」にあり!原則非公開の墓の秘密 - MKメディア(「石田治部少輔遺骨改葬の碑」碑文の引用部分。同碑文は続けて「按ずるに」「蓋し国師其遺骸を乞いて之を院中に葬りしならん」と記す)
    1907年の「石田治部少輔遺骨改葬の碑」(三上参次撰文)は、墓石の銘が磨滅して読めず「相伝えて」三成の墓とされていたこと、春屋宗園による埋葬は推定であることを示している。
    「大徳寺塔頭三玄院の塋域に苔石あり。高二尺許銘文磨滅一字を弁ずべからず、相伝えて石田治部少輔の墳として、之に触るれば必ず祟ありと云う。」
  7. 石田三成のお墓は京都「大徳寺三玄院」にあり!原則非公開の墓の秘密 - MKメディア(『稿本石田三成』引用部)(「1907年に石田三成の墓を『再発見』」節、『稿本石田三成』の写真説明の引用)
    渡辺世祐『稿本石田三成』(1907年)の墓の写真説明は、この墓を三玄院で「三成の墓と伝うるもの」と記し、1907年5月19日の発掘と同年10月20日の改葬の経緯を述べている。
    「これは山城大徳寺塔頭三玄院の墓地にありしものにて同院にて三成の墓と伝うるものなり。」
  8. 墓から掘り起こされ、調査された石田三成の遺骸(渡邊大門) - Yahoo!ニュース エキスパート(本文中段。末尾に「調査後、京都帝国大学に三成の石膏像などの標本が保存され、遺骨は改葬された。しかし、標本は貸し出した際に返却されることなく、ついに行方がわからなくなった。」とある)
    1907年の発掘は渡辺世祐の伝記執筆のためだったが『稿本石田三成』は遺骨を扱っておらず、その後の鑑定資料(石膏像などの標本)も行方不明になった。
    「その理由は、中世史家の渡辺世祐(東京帝国大学。のちに明治大学教授)が三成の伝記を執筆するためだったが、『稿本石田三成』(1907)は三成の遺骨について取り上げていない。」
  9. 石田三成が秋田で死んだという説 : 秋田魁新報 - 国立国会図書館サーチ(書誌情報(秋田魁新報記事見出し検索、所蔵は秋田県立図書館))
    三成が六条河原で処刑されずに秋田で没したという異説(生存説)が唱えられ、1929年の『秋田魁新報』に記事として掲載されている。
    「タイトル 石田三成が秋田で死んだという説 : 秋田魁新報 タイトルよみ イシダミツナリガアキタデシンダトイウセツ : あきたさきがけしんぽう 出版年月日等 1929年10月26日 夕刊 2面」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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