〈石田三成〉忍城水攻めの失敗は三成のせい
秀吉の朱印状(天正18年6月12日付など)が現存し、水攻めは秀吉の直接指示。三成はむしろ力攻めを進言した形跡がある。28kmの石田堤を短期間で築いた動員力は行政力の証明だ。
検証リサーチ
「〈石田三成〉忍城水攻めの失敗は三成のせい」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
区分は「諸説あり」が妥当。三成発案説の出どころは『関八州古戦録』(1726年成立)など後世の軍記で、同時代の書状は秀吉主導を示す。堤28kmは伝聞で約14km説もある。
くわしい根拠
結論
「忍城(おしじょう)の水攻めは石田三成が思いついて、失敗した」という筋書きは、そのまま史実とは言えない。三成が高台から地形を見て水攻めを発案した、と書くのは『関八州古戦録』や『成田記』といった後世の軍記物(合戦を物語ふうにまとめた読み物)である[1]。『関八州古戦録』は槙島昭武(まきしま あきたけ)の著で1726年の成立、合戦から130年以上あとの本だ[7]。いっぽう天正18年(1590年)当時の書状(同時代史料)からは、水攻めを主導したのは秀吉で、三成はそれを実行した側だと整理されている[1][4]。図鑑の「水攻めは秀吉の直接指示」という理解は、いまの研究の方向と合っている。ただし「28kmの堤を短期間で築いた」という数字のほうは、行田市自身が「と言われています」と伝聞のかたちで書いており[3]、約14kmとする資料もある[2]。区分は「史実」と言い切るより「諸説あり」が実態に近い。
この話が最初に出てくる史料
同時代史料は、まず書状である。行田市郷土博物館の館長・鈴木紀三雄さんは「水攻めを指示する秀吉の書状が残っています」と述べ、うまくいかなかった理由を「秀吉が現地を見ずに作戦を立てたこと」に求めている[4]。書状のやりとりの中身も整理されている。6月12日に秀吉から三成へ水攻めの指示が出た一方で、三成の側は水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要だとする書状を送っており、それに対して秀吉が改めて水攻めの注意点を細かく指示している[1]。図鑑が挙げる「天正18年6月12日付など」の朱印状(秀吉が朱の印を押した命令書)は、この文脈の史料だ。
これに対して「三成の発案」という物語は、あとの時代の本に現れる。『関八州古戦録』(1726年成立)[7]や『成田記』に、三成が近くの小山に登って地形を見わたし、備中高松城の戦いにならって水攻めを思いついた、と書かれている[1]。つまり「三成が言い出した」の初出は同時代史料ではなく、近世の編纂物である。
異説や否定説
- 秀吉主導説(現在の主流)。同時代史料から見るかぎり水攻めを主導したのは秀吉であって三成ではない、という整理がされている[1]。
- 地形のせいだとする見方。忍城のまわりは低湿地で、水は城ではなく現在の下忍(しもおし)・堤根(つつみね)方面にたまってしまい、やがて堤が決壊した、と行田市は説明する[3]。この一帯はいまでも利根川が破堤すれば「忍城の水攻め」に似た風景が再現されうる、と地理学の発表要旨も述べている[9]。
- 堤の壊れ方も一定しない。増水に耐えられず決壊したとする説明[2][3]のほか、城兵が夜に堤を壊し、逆流した水が豊臣方の陣を襲ったという説も紹介されている[4]。
- 規模の異説。28km説のほかに、『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』は約14kmとする[2]。行田市も、実際は既存の自然堤防や微高地を巧みにつなぎ合わせたものだろうとしている[3]。
後世にどう語られたか
「忍城攻めの失敗」は事典の記述にまで定着した。『改訂新版 世界大百科事典』の石田三成の項は、小田原征伐などで自ら指揮をとったが「武蔵忍(おし)城攻略の失敗にみられるように成果はなかった」と書く[8]。軍記物では三成の築堤が強調され、「石田堤」という呼び名とともに攻防戦の「歴史像」がつくられていった、とも指摘される[1]。
その歴史像がどう組み立てられたか自体が、いまは研究の対象である。鈴木紀三雄「問題提起 「忍城水攻め」歴史像の形成」(『地方史研究』64巻5号、2014年10月、18〜21頁)[5]、中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)[6]。後者は「一次史料から明らかとなった人間三成の実像」を掲げ、目次に「石田三成像の形成」の章を置く[6]。現代では小説『のぼうの城』とその映画化で、忍城が全国的に知られるようになった[4]。
読者が次に抱く疑問
Q. 石田堤は本当に28kmあったの? 行田市は「全長28キロメートルに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています」と伝聞で書き、実際は自然堤防や微高地をつないだものだろうとする[3]。『角川日本地名大辞典』は約14km[2]。現存するのは行田市堤根の約282mで、県指定史跡である[3]。数字は幅をもたせて読むのが安全だ。
Q. なぜ秀吉は水攻めにこだわったの? 現地の地形を知らないまま作戦を立てたことが失敗の理由だろう、というのが博物館館長の見方である[4]。低湿地とはいえ本丸まわりは堤を築いた側より高く、水がたまりにくかった[3]。
Q. 「三成は戦下手」と決めていいの? 少なくとも忍城の一件を根拠にするのは弱い。命じたのは秀吉であり[1][4]、失敗の説明も地形要因に寄せられている[3][9]。
図鑑の記述への提案
- 区分を「史実」から「諸説あり」へ。「水攻めは秀吉の指示」は一次史料に支えられるが、失敗の中身(誰の責任か、堤がなぜ壊れたか)は説が割れている[2][3][4]。
- 「28kmの石田堤を短期間で築いた動員力は行政力の証明だ」は断定を弱めたい。行田市も「と言われています」と書き、約14km説もある[2][3]。「既存の自然堤防・微高地をつないだ」と添えると誤解が減る。
- 「三成はむしろ力攻めを進言した形跡がある」は残してよいが、根拠(水攻めに批判的で積極的な攻撃を求めた三成の書状)を一行添えると強くなる[1]。
- 「この逸話の出どころは『関八州古戦録』(1726年成立)などの後世の軍記物」という一文を足すと、読者が史料の層を区別できる[1][7]。
出典
- 忍城の戦い - Wikipedia(水攻め の節)三成が地形を見て水攻めを発案したと書くのは『関八州古戦録』『成田記』などの後世の軍記物で、同時代の書状からは水攻めを主導したのは秀吉だと整理されている。
「豊臣方の石田三成は、城攻めが上手くいかないので、近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いた、と『関八州古戦録』や『成田記』には記されている。実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて、三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている。これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない。」
- 石田堤 - Wikipedia(脚注・注釈(『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』103頁))石田堤の長さには28km説のほかに約14kmとする資料があり、規模の数字は一定しない。
「『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』103頁では長さ約14 kmと記されている。」
- 石田堤(県指定記念物・史跡)/行田市(文化財の説明)行田市は「全長28キロメートルの堤を一週間で築いた」を伝聞として記し、実体は自然堤防や微高地をつないだものと考え、水は忍城でなく下忍・堤根側にたまって堤が決壊したと説明する。
「石田三成らは、地形を見て忍城を水攻めすることにし、全長28キロメートルに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています。実際には自然堤防や微高地を巧みにつなぎ合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も、自然堤防上に1~2メートル程盛土をしたものです。 こうして堤が完成し、利根川や荒川の水を引き入れましたが、地形的に忍城や城下町よりも現在の下忍や堤根方面に水が溜まってしまい、遂には堤が決壊し、水攻めは失敗に終わります。」
- 【天下取りの城へ】豊臣軍の水攻めに耐えた 難攻不落の浮き城 忍城|たびよみ(旅行読売)(本文(行田市郷土博物館館長 鈴木紀三雄氏の談話))行田市郷土博物館館長の鈴木紀三雄氏は、水攻めを指示する秀吉の書状が現存すること、失敗の理由は秀吉が現地を見ずに作戦を立てた点にあることを述べている。
「「水攻めを指示する秀吉の書状が残っています」と行田(ぎょうだ)市郷土博物館館長の鈴木紀三雄(きみお)さんは語る。秀吉の命を受けた三成は、長大な堤防を築き、城全体を水没させるという大胆な作戦に出た。ところが、もともと湿地の上に築かれた忍城はそう簡単には沈まない。水に浮かぶように佇(たたず)む本丸の姿が、「忍の浮き城」という異名を生んだ。 「秀吉が現地を見ずに作戦を立てたことが、うまくいかなかった理由でしょう」と鈴木さんは指摘する。」
- 問題提起 「忍城水攻め」歴史像の形成(鈴木紀三雄)|国立国会図書館サーチ(書誌情報(地方史研究 64(5)=371:2014.10, p.18-21))「忍城水攻め」の歴史像がどう形成されたかを主題にした研究報告が『地方史研究』64巻5号(2014年10月、18〜21頁)に載っている。
「国立国会図書館請求記号Z8-371国立国会図書館書誌ID025848492資料種別記事著者鈴木 紀三雄出版者東京 : 地方史研究協議会出版年2014-10資料形態紙掲載誌名地方史研究 64(5)=371:2014.10掲載ページp.18-21」
- 石田三成伝(中野等 著、吉川弘文館、2017年)|国立国会図書館サーチ(資料詳細・要約等/目次)中野等『石田三成伝』は一次史料から三成像を組み立て直す研究書で、目次に「石田三成像の形成」の章を置く。
「資料種別図書著者中野等 著出版者吉川弘文館出版年2017.1資料形態紙ページ数・大きさ等565p ; 20cmNDC289.1詳細を見る資料詳細要約等:豊臣政権を支えた五奉行の一人。「文治派」「智の参謀」「関ヶ原」イメージを超え、一次史料から明らかとなった人間三成の実像。」
- 《関八州古戦録》とは - コトバンク(世界大百科事典 旧版)(世界大百科事典(旧版)内の《関八州古戦録》の言及/【小田原評定】)『関八州古戦録』は槙島昭武の著で1726年成立の江戸中期の軍記であり、合戦から130年以上あとの編纂物である。
「1590年(天正18)豊臣秀吉が,後北条氏を相模小田原城に攻めたとき,城内の評定で対策が評議されたが,空しく日を過ごすのみであったという故事から,一般にいつまでもまとまらない会議,相談を指すようになった。槙島昭武《関八州古戦録》(1726成立)にこの故事が紹介され」
- 石田三成とは - コトバンク(改訂新版 世界大百科事典)(改訂新版 世界大百科事典「石田三成」(岩沢愿彦 執筆))「忍城攻略の失敗」を三成の武将としての成果のなさの例に挙げる書き方は、標準的な事典類にも定着している。
「90年の小田原征伐および奥羽平定ではみずから戦闘の指揮をとったが,武蔵忍(おし)城攻略の失敗にみられるように成果はなかった。むしろ彼の特質は兵站(へいたん)の掌握や民政の実施,服属大名との折衝などにらつ腕を振るうところにあった。」
- 関東平野中央部,荒川,利根川の河川地形,河川災害と伝統的防災システム(島津弘)|J-STAGE(抄録)行田周辺は自然堤防や本堤防で水が堰き上げられて湛水しやすい地形で、破堤時には「忍城の水攻め」に似た状況が再現されうると地理学の発表要旨が述べている。
「利根川の妻沼低地で破堤した場合は,氾濫水は以前の利根川に沿って南流し,元荒川など東西方向の自然堤防や現在の荒川本堤防で堰上げが生じ,行田地域では「石田三成による忍城の水攻め」のときの風景が再現される可能性がある」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。