〈丹羽長秀〉御馬揃えで一番入場

天正9年(1581)の京都御馬揃え——信長最大の軍事パレードで、長秀は一番に入場する栄誉を与えられた。『信長公記』が明記する。丹羽家の格式が織田家中で最上位級だったことの、目に見える証明である。

検証リサーチ

「〈丹羽長秀〉御馬揃えで一番入場」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 86 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

入場順そのものは『信長公記』が記す史実。ただし「一番=最高の栄誉」は史料にない後世の解釈で、行列の最後は信長本人。

くわしい根拠

結論

「天正9年(1581)の京都御馬揃えで、丹羽長秀が一番に馬場へ入った」——この順番そのものは史実とみてよい。信長の側にいた太田牛一の『信長公記』が、入場順を名指しで書き残している[1]。ただし「一番=最高の栄誉」「丹羽家の格式が織田家中で最上位級だった証明」という意味づけのほうは、史料に書かれていない。そこは後世の解釈である。区分は「史実」のままでよいが、本文の評価部分は書き分けたほうがよい。

この話が最初に出てくる史料

初出は『信長公記』巻十四「御馬揃之事」。原文は「御馬場入之次第 一番に 惟住五郎左衛尉長秀 并摂州衆 若州衆 西岡之河島」[1]。注意点が三つある。

一つめ。名前が「丹羽」ではない。ここでは「惟住(これずみ)五郎左衛尉長秀」と書かれる。信長が「丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ」と姓を与えたためで[3]、事典も「惟住(これずみ)の姓を与えられ一時これを称す」とする[5]。なお賜姓の年は『信長公記』が天正3年七月、事典は天正4年とし、一致しない[3][5]。

二つめ。『信長公記』は同時代の日記ではない。牛一が後年まとめた編纂物(あとから整理して書いた本)である。そもそも「馬揃」とは、辞書の定義では「良馬の飼育の奨励と兵馬の訓練のため、平時に軍馬を集めて検分し、あわせてその調練を検閲すること」[4]。単なる見せ物ではなく、軍馬の閲兵である。

三つめ。書き手が長秀に近い。牛一は「信長の死後には織田家臣の丹羽長秀に右筆として仕え」、同書は「長秀・秀吉家臣時代の記録をもとに編纂された」とされる[7]。長秀の家臣が書いた記録だという点は、割り引いて読む理由になる。

異説や否定説

「長秀が一番だった」を正面から否定する史料は見つからなかった。しかし裏づける同時代史料も見つからない。

奈良の僧の日記『多聞院日記』天正9年2月28日は、「今日於京都馬揃在之云々。諸国見物衆数多上」(返り点は省略)としか記さない[4]。開催の事実を伝聞(「云々」)で書くだけで、順番は出てこない。京都の公家・吉田兼見の『兼見卿記』にも、信長が光秀に触れを出させた記事などはあるが[8]、入場順の記載は今回確認できなかった。つまり入場順は**『信長公記』一本にしか確認できない**情報である。

さらに、「一番=最上位」という読み方には、同じ本文自体が反証になりうる。『信長公記』は長秀ら四組の後に、信忠ら一門、公家衆、馬廻・小姓衆、柴田勝家ら越前衆、弓衆百人と続けて記す[1]。そして最後に信長本人が入った。行列は普通、後ろほど中心に近い。長秀が先頭なのは摂津衆・若狭衆という与力(配属された部隊)を率いる立場だったからで——長秀は元亀元年(1570)から若狭を領していた[9]——「格式が最上位級」の証明とまでは言い切れない。 ただし公平にいえば、『信長公記』は編纂物のなかでは記述が正確な部類とされ、入場順を疑う積極的な材料も今のところない。「順番の記録は信じてよいが、順番の意味づけは史料の外側」——これが今わかる線引きである。

後世にどう語られたか

馬揃えには尾ひれもついた。有名な「山内一豊の妻がへそくりで名馬を買い、この馬揃えで出世の糸口をつかんだ」という話について、Wikipediaは、一豊が当時すでに2千石を持ち所領も播磨だったことから「逸話の信憑性は現在はおよそ否定されている」とまとめる[6]。同じ行事のまわりに、記録と作り話が同居している。長秀一番の話は前者に属するが、そこに「最上位の栄誉」という評価を足した部分は後者に近づく。

読者が次に抱く疑問

なぜ光秀は三番なのか。 光秀はこの馬揃えの奉行(責任者)だった。信長は正月廿三日に「維任日向守に被仰付…御朱印を以て御分国御触在之」と、光秀に全領国への触れを出させている[2]。八木書店の『兼見卿記』紹介も「信長京都において馬汰を行わんとし光秀をして分国中に布達せしむ」と要約する[8]。順番と実務上の重みは別だとわかる。

羽柴秀吉はどこにいたのか。 一覧に秀吉はいない。中国方面で対陣中で参加できなかったとされる[6]。順番を「家中の序列表」と読むと、こうした事情を見落とす。

なぜ長秀が摂津衆と若狭衆を率いたのか。 長秀は元亀元年(1570)5月に小浜を中心とする若狭の半国、天正3年(1575)にほぼ全域を与えられていた[9]。一番の組は「長秀の担当部隊」であって、家格の順に並べた列ではない。

図鑑の記述への提案

  1. 区分「史実」は、入場順という事実に限れば維持してよい。ただし「栄誉を与えられた」「最上位級だったことの目に見える証明」は史料にない評価なので、「『信長公記』は一番に入ったと記す」と事実を書き、意味づけは「そう解釈されてきた」と分けて示したい[1]。
  2. 「『信長公記』が明記する」は正しい。あわせて**同書での表記は「惟住五郎左衛尉長秀」**である旨を補うと精度が上がる[1][3]。
  3. 「『信長公記』は太田牛一の編纂物で、牛一は長秀の家臣でもあった」と一言添えると、読者が史料の性格を自分で判断できる[7]。
  4. 行列の最後は信長本人だったことを添えれば、「一番=最上位」という誤読を防げる[1]。

出典

  1. 信長公記 巻十四(二)御馬揃之事(Wikisource/甫喜山景雄刊『我自刊我書』本)(巻之十四(二)御馬揃之事/「御馬場入之次第」以下)
    『信長公記』は天正9年2月28日の京都御馬揃えの入場順を、一番に惟住(丹羽)長秀、以下二番蜂屋・三番明智・四番村井、続いて一門・公家衆・馬廻・越前衆・弓衆と記す。
    「御馬場入之次第 一番に 惟住五郎左衛尉長秀 并摂州衆 若州衆 西岡之河島  二番 蜂屋兵庫頭 并河内衆 和泉衆 根来寺之内大ケ塚 佐野衆  三番 維任日向守 并大和 上山城衆  四番 村井作右衛門 根来 上山城衆  御連枝之御衆 中将信忠卿 馬乗八十騎 美濃衆 尾張衆 北畠中将信雄 馬乗三十騎 伊勢衆 織田上野守信兼 馬乗十騎 同三七信孝 馬乗十騎 同七兵衛信澄 馬乗十騎 同源五 同又十郎 同勘七郎 同中根 同竹千代 同周防 同孫十郎  公家衆 近衛殿 正親町中納言殿 烏丸中納言殿 日野中納言殿 高倉藤右衛門佐殿」 細川右京大夫殿 細川右馬頭殿 伊勢兵庫頭殿 一色左京権大夫殿 小笠原     御馬廻御小性衆何れも十五騎づゝ与〳〵を被仰付 越前衆 柴田修理亮 同伊賀 柴田三左衛門 不破河内守 前田又左衛門 金森五郎八 原彦次郎  御弓衆百人」
  2. 信長公記 巻十四(一)御爆竹之事(Wikisource)(巻之十四(一)御爆竹之事/正月廿三日条)
    京都馬揃えの触れは天正9年正月23日に明智光秀へ命じられ、御朱印で分国に触れ出された。
    「正月廿三日 維任日向守に被仰付京都に而可被成御馬揃之間各及㆑程尽結搆可罷出之旨御朱印を以て御分国御触在之」
  3. 信長公記 巻八(天正三年七月三日条)(Wikisource)(巻之八/七月三日条)
    丹羽五郎左衛門(長秀)は信長から「惟住」の姓を与えられた。
    「明智十兵衛は 維任日向になされ 簗田左衛門太郎は別喜右近に被仰付 丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ忝之次第也」
  4. 馬揃(うまぞろえ)|精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書(コトバンク)(精選版 日本国語大辞典「馬揃」語釈および初出の実例)
    馬揃は軍馬の検分・調練の閲兵行事であり、同時代の『多聞院日記』天正9年2月28日条は開催と見物人の多さを伝聞で記すだけで入場順は記さない。
    「良馬の飼育の奨励と兵馬の訓練のため、平時に軍馬を集めて検分し、あわせてその調練を検閲すること。簡馬(かんば)。[初出の実例]「今日於二京都一馬揃在レ之云々。諸国見物衆数多上」(出典:多聞院日記‐天正九年(1581)二月二八日)」
  5. 丹羽長秀|日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク)(日本大百科全書(ニッポニカ)「丹羽長秀」)
    丹羽長秀は佐和山を守り、天正年間に「惟住」の姓を与えられて一時これを称した(事典は天正4年とする)。
    「1571年(元亀2)浅井長政(ながまさ)の旧属城近江(おうみ)佐和山(さわやま)(滋賀県彦根市内)を守る。76年(天正4)惟住(これずみ)の姓を与えられ一時これを称す。」
  6. 京都御馬揃え - Wikipedia(「逸話」節)
    この馬揃えに付随する「山内一豊の妻の名馬購入」逸話は、現在はおおむね否定されている。
    「貧窮していた山内一豊の妻がへそくりを用立てて安土城下にて良馬を購入し、この天覧馬揃えに参加した。これが信長に高評価されて出世に繋がった、という話は有名であるが、史実と照らし合わせた場合、山内は当時既に2千石の所領を持ち、さらに所領は播磨国であったことから、逸話の信憑性は現在はおよそ否定されている。」
  7. 信長公記 - Wikipedia(「成立」節)
    『信長公記』の著者太田牛一は信長の死後に丹羽長秀へ右筆として仕え、同書は長秀・秀吉家臣時代の記録をもとに編纂されたと考えられている。
    「太田牛一は尾張国春部郡の出自で、信長の死後には織田家臣の丹羽長秀に右筆として仕え、長秀の没後には豊臣秀吉に仕えている。『信長公記』は長秀・秀吉家臣時代の記録をもとに編纂されたと考えられている。」
  8. 史料纂集古記録編 新訂増補 兼見卿記1(八木書店)(商品説明・収録記事一覧)
    『兼見卿記』には、信長が京都で馬揃えを行うにあたり光秀に分国中へ布達させた記事が含まれる。
    「○信長京都において馬汰を行わんとし光秀をして分国中に布達せしむ」
  9. 名将丹羽長秀 功績たどる 小浜 県立若狭歴博で特集展示(福井新聞/若狭湾観光連盟)(本文3段落目)
    丹羽長秀は1570年に若狭国の半分、1575年にほぼ全域を信長から与えられ、若狭を領していた。
    「1570年5月、長秀は信長から小浜を中心とする若狭国の半分を、75年にほぼ全域を領地として与えられた。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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