〈丹羽長秀〉安土城普請の総奉行
天正4年(1576)正月、『信長公記』巻九に「正月中旬より江州安土御普請、惟住五郎左衛門に仰付けらる」と明記。天守を持つ画期的城郭と城下町の建設を統括した。それ以前にも二条御新造の普請や蘭奢待切り取り(1574、奉行の一人)を務めており、行政能力は一次史料で確認できる。
検証リサーチ
「〈丹羽長秀〉安土城普請の総奉行」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「丹羽長秀が安土普請を命じられた」は『信長公記』巻九にある史実。ただし「総奉行」は原典にない語で、石奉行・大工・天主は別担当。二条御新造は村井貞勝の担当で図鑑は要修正。
くわしい根拠
結論
「丹羽長秀が安土城の普請(ふしん=土木工事)を信長から命じられた」という骨格は「史実」です。同時代史料『信長公記』巻九にはっきり書かれています[1]。ただし「総奉行」という肩書きは原典にありません。『信長公記』にあるのは「惟住五郎左衛門に被仰付(仰せ付けられ)」だけで、石垣・大工・瓦にはそれぞれ別の担当者が並べて記されます[2][3]。「城と城下町の全部を統括した」という言い方は、後世の要約や小説がふくらませた表現に近いです。区分は「史実」のままでよいものの、言葉づかいは直したほうが正確です。
この話が最初に出てくる史料
初出は同時代史料です。信長の側近だった太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記』巻九「安土御普請之事」の冒頭に、天正4年(1576)の記事として「正月中旬より江州安土山御普請 惟住五郎左衛門に被仰付」とあります[1]。惟住(これずみ)五郎左衛門は丹羽長秀のことです。続けて2月23日に信長が安土へ移り、普請の出来ばえが気に入って名物の茶碗「周光茶椀」を長秀に与えた、とも書きます[1]。命じられたことも褒められたことも、一次史料で確かめられます。
なお図鑑の引用は「江州安土御普請」ですが、原文は「江州安土山御普請」、末尾も「仰付けらる」ではなく「被仰付」です[1]。
異説や否定説
「長秀ではない」という否定説は見あたりません。争点は「役割がどこまでか」です。
- 同じ巻九には、4月1日から石垣を築く記事に続けて「石奉行 西尾小左衛門 小沢六郎三郎 吉田平内 大西」と別の4人が挙がります。瓦は「瓦焼唐人之一観」に任せています[2]。
- 巻九「安土御普請首尾仕之事」(天主の描写)の末尾は「御大工 岡部又右衛門…瓦唐人の一観に被仰付… 御普請奉行 森三郎左衛門」と締めます[3]。天主の造営(作事=建物工事)の項に長秀の名はなく、別人が「御普請奉行」と書かれます。翻刻によってこの人名の読みは揺れており、確定していません。
- 同じ年の4月以降、信長は京都の御座所づくりのため上洛し、「安土御普請之儀は御息 秋田城介信忠に様子仰をかせられ」と、嫡男信忠に段取りを指示しています[2]。長秀ひとりに丸投げ、ではありません。
- 秀吉の名も出ますが、それは巨石「蛇石(じゃいし)」を引き上げる応援で、滝川一益・長秀と3人がかりだった、という文脈です[2]。
事典類の書き方も「総奉行」ではありません。国の史跡指定解説(大正15年指定)は「天正四年織田信長ガ丹羽長秀ヲ奉行トシ安土山ニ築カシメ」[4]、『改訂新版 世界大百科事典』は「普請奉行には丹羽長秀があたった」とし、天主は「熱田大工岡部又右衛門に造らせた」と分けて書いています[5]。
後世にどう語られたか
「総」の字がつくのは、主に近代以降の紹介文です。城跡を所有する摠見寺(そうけんじ)の公式サイトは「天正四年(一五七六)一月十七日、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え」と書きます[6]。しかし『信長公記』は「正月中旬」としか書かず、1月17日という日付は原典にありません[1]。
ウィキペディア日本語版「安土城」は「総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には…瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった」という役職表を載せます[7]。ところが『信長公記』にあるのは石奉行4人と大工岡部又右衛門だけで、「縄張奉行 羽柴秀吉」「瓦奉行 小川祐忠ら」は原文に出てきません(この一文には出典注も付いていません)[2][3][7]。山本兼一の小説『火天の城』や映画版でも長秀は「総普請奉行」として描かれ、この呼び方が広まりました。
読者が次に抱く疑問
Q1. 長秀は「城下町」まで作ったの? 『信長公記』の安土関係の記事は、山上の普請と天主の描写が中心で、城下町づくりを長秀に命じたと書いた箇所はありません[2][3]。「城下町の建設まで統括」は踏み込みすぎです。
Q2. 二条御新造の普請も長秀の仕事? いいえ。『信長公記』巻九「二条殿御搆御普請之事」では、信長は普請の様子を「村井長門守に被仰聞」、つまり京都所司代の村井貞勝に指示しています[8]。二条の普請の担当者は村井であって、長秀ではありません。
Q3. 蘭奢待(らんじゃたい)の話は合っている? 合っています。巻七、天正2年3月27日の記事に「御奉行 塙九郎左衛門 菅屋九右衛門 佐久間右衛門 柴田修理 丹羽五郎左衛門…」と並び、長秀は奉行の一人です[9]。図鑑の書き方どおりです。
図鑑の記述への提案
- 区分は「史実」のままでよいと思います。命令の事実は一次史料で確認できます[1]。
- 「総奉行」→「普請奉行(『信長公記』は「惟住五郎左衛門に被仰付」とのみ記す)」に。「総奉行」は原典にない語です[1][4][5]。
- 「城下町の建設を統括」は削るか「安土山の普請を任された」に。原典に根拠が見あたりません[2][3]。
- 「二条御新造の普請」は要修正。『信長公記』では村井貞勝の担当です[8]。削るか、佐和山城の在番や蘭奢待の奉行など、確認できる例に差し替えるのが安全です[9]。
- 引用は「江州安土山御普請」「被仰付」と原文どおりに直したいところです[1]。
- 補足として「4月以降は嫡男信忠にも普請の指示が出され、天主の作事は大工岡部又右衛門が担った」と添えると、長秀ひとりの手柄という誤解を防げます[2][3][5]。
出典
- 信長公記 巻九(一)安土御普請之事(ウィキソース)(巻九(一)安土御普請之事)天正4年正月中旬から安土山の普請を惟住五郎左衛門(丹羽長秀)に命じたと同時代史料に明記される。
「正月中旬より江州安土山御普請 惟住五郎左衛門に被仰付 二月廿三日安土に至而 信長 被移住座先御普請御意に相(あい)為御褒美御名物之周光茶椀 五郎左衛門被下忝次弟也」
- 信長公記 巻九(一)安土御普請之事(石奉行・蛇石・信忠への指示)(巻九(一)安土御普請之事(四月朔日以下))石垣には別に石奉行4名が置かれ、瓦は唐人一観が担い、4月以降は嫡男信忠に安土普請の様子が指示された。
「四月朔日より当山大石を以て御搆之方に石垣を被築又其内には天主を可被仰付之旨にて尾濃勢三越若州畿内之給倍京都奈良堺之大工諸職人等被召寄在安土仕候て瓦焼唐人(かはらやきとうじん)之一観(いつくわん)被相添唐様(からやう)に被仰付観音寺山長命寺山長光寺山伊場山所々之大石を引下し千一一千三千宛に而安土山へ被上候 石奉行 西尾小左衛門 小沢六郎三郎 吉田平内 大西 大石を撰取小石を被選退爰に 津田坊 大石御山之麓迄雖被寄候蛇石(シヤイシ)と云名にて勝たる大石に候間一切に御山へ不上候然間 羽柴筑前 滝川左近 惟住五郎左衛門為㆓三人㆒助勢一万余之以人数夜日三日に被上げ 信長公御巧を以輙御天主へ上させられ昼夜山も谷も数計候へキ 京都にも御座所可被仰付之由にて安土御普請之儀は御息 秋田城介信忠に様子仰をかせられ」
- 信長公記 巻九(六)安土御普請首尾仕之事(安土山御天主之次第)(巻九(六)安土御普請首尾仕之事 末尾)天主造営の担当者として大工岡部又右衛門らが列挙され、末尾の「御普請奉行」には丹羽長秀とは別の人名が記される。
「御大工 岡部又右衛門 漆師(ぬうし)首(かしら)刑部 白金屋の御大工 宮西遊左衛門 瓦唐人の一観に被仰付奈良衆焼申也 御普請奉行 森三郎左衛門」
- 安土城跡(文化遺産オンライン/国指定文化財等データベース)(解説)国の史跡指定解説は丹羽長秀を「奉行」とし、「総奉行」とは書いていない。
「天正四年織田信長ガ丹羽長秀ヲ奉行トシ安土山ニ築カシメ同十年本能寺ノ變ニ至ルマデ信長ノ居城タリ變後間モナク天守閣火災ニ罹リ其後マタ附近ノ諸城築カルヽニ當リテ石材等ヲ取去ラシタレトモ本丸二丸以下石疊、磴道井泉等善ク遺存シ濠渠ノ阯マタ見ルヘキモノアリテ其ノ雄大ナル規模ヲ窺フニ足ル而シテ信長廟及總見寺マタ此」
- 安土城とは(改訂新版 世界大百科事典/コトバンク)(改訂新版 世界大百科事典(執筆者:宮上茂隆))事典は丹羽長秀を「普請奉行」とし、天主の造営は熱田大工岡部又右衛門の仕事として区別している。
「織田信長が1576年(天正4)から築城を開始し,普請奉行には丹羽長秀があたった。石垣普請には11ヵ国から労働者を集め,坂本穴太(あのう)の石工らが動員された。79年には熱田大工岡部又右衛門に造らせた天主も完成し,信長は子息信忠に家督とともに岐阜城を譲ってここに移り,天下経営の本拠とした。しかし82年」
- 織田信長の安土城址と摠見寺(公式サイト)(トップページ「安土城址」)城跡を所有・管理する側の現行の紹介文は、長秀を「総普請奉行」とし着工日を1月17日と特定している。
「天正四年(一五七六)一月十七日、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え、 標高一九九mの安土山に築城させた平山城。 岐」
- 安土城 - Wikipedia(概要)通俗的な役職一覧では長秀が「総奉行」とされ、縄張奉行や瓦奉行など『信長公記』にない役職名も列挙される。
「総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。 」
- 信長公記 巻九(二)二条殿御搆御普請之事(巻九(二)二条殿御搆御普請之事)二条の御普請について信長が指示した相手は村井長門守(村井貞勝)であり、丹羽長秀ではない。
「二条殿御屋敷幸空間地(サイワイアキチ)に而在之泉水大庭眺望面白被思食御普請の様子条々 村井長門守に被仰聞」
- 信長公記 巻七(四)蘭奢待被切捕の事(巻七(四)蘭奢待被切捕の事)天正2年3月27日の蘭奢待切り取りで丹羽五郎左衛門は奉行の一人として名を連ねている。
「三月廿七日 信長 奈良之多門に至て御出 御奉行 塙九郎左衛門 菅屋九右衛門 佐久間右衛門 柴田修理 丹羽五郎左衛門 蜂屋兵庫頭 荒木摂津守 夕庵 友閑 重御奉行 津田坊 以上」
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