〈細川忠興〉ガラシャの最期 — 人質を拒んで死んだ
慶長5年(1600)7月17日、石田方の人質要求を拒み、家老・小笠原少斎に胸を突かせて死んだ。主史料は侍女の回想録『霜女覚書』(1668)とイエズス会の1600年度日本年報。キリスト教では自殺が大罪のため、自害でなく家臣の手にかかる道を選んだとされる。介錯者や最期の様子には史料間で異同があり(太田牛一は「自ら胸を突いた」と記す)、細部は確定できない。
慶長5年(1600)7月17日、石田方の人質要求を拒み、家老・小笠原少斎に胸を突かせて死んだ。主史料は侍女の回想録『霜女覚書』(1668)とイエズス会の1600年度日本年報。キリスト教では自殺が大罪のため、自害でなく家臣の手にかかる道を選んだとされる。介錯者や最期の様子には史料間で異同があり(太田牛一は「自ら胸を突いた」と記す)、細部は確定できない。