〈成田長親〉水攻めは三成の失策だったのか
「三成が高松城に倣って水攻めを発案し失敗した」は『関八州古戦録』等の軍記の脚色。同時代書状では天正18年6月12日に秀吉が三成に水攻めを指示し、三成はむしろ「より積極的な攻撃が必要」と批判的な書状を送っていた。秀吉は力攻めの戦功を賞しつつも水攻め継続を命じ続けた。「三成の戦下手」は軍記が作った歴史像である。根拠: 中野等『石田三成伝』(2017)、鈴木紀三雄「「忍城水攻め」歴史像の形成」(2014)。当サイト石田三成ページの判定と同じ。
「三成が高松城に倣って水攻めを発案し失敗した」は『関八州古戦録』等の軍記の脚色。同時代書状では天正18年6月12日に秀吉が三成に水攻めを指示し、三成はむしろ「より積極的な攻撃が必要」と批判的な書状を送っていた。秀吉は力攻めの戦功を賞しつつも水攻め継続を命じ続けた。「三成の戦下手」は軍記が作った歴史像である。根拠: 中野等『石田三成伝』(2017)、鈴木紀三雄「「忍城水攻め」歴史像の形成」(2014)。当サイト石田三成ページの判定と同じ。