〈小早川秀秋〉裏切りは事前調略の帰結だった
家老・稲葉正成と平岡頼勝が、頼勝の縁戚・黒田長政を通じて開戦前から東軍と交渉。「我々は北政所様のために動いている」と記す黒田長政・浅野幸長連署状が現存し、家康・長政は松尾山に目付を派遣していた。ただし北政所自身が東軍支持だったかは反論もあり諸説。
検証リサーチ
「〈小早川秀秋〉裏切りは事前調略の帰結だった」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
事前調略があったことは当時の書状で確認でき「史実」。ただし当日の逡巡や「問鉄砲」は江戸期の軍記が初出で諸説あり。区分は史実のまま、当日の経過は諸説と切り分ける提案。
くわしい根拠
結論
「小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の裏切りは、開戦前からの調略(ちょうりゃく。味方に引き入れる交渉)の結果だった」——この話の前半は「史実」と言ってよい。当時の当事者が書いた書状が残っているからだ [1][2]。
ただし後半、「だから当日は段取りどおりに裏切った」という部分は「諸説あり」になる。当日の秀秋がためらっていたのか、開戦直後にすぐ動いたのかは、いまも研究者のあいだで決着していない [4][5]。図鑑の区分「史実」は前半について正しいが、当日の経過まで史実として読めてしまう書き方は避けたほうがよい。
この話が最初に出てくる史料
事前調略の根拠は、後世の軍記(ぐんき。読み物としての戦記)ではなく、当時の書状である。
黒田長政と浅野幸長が連名で秀秋側に送った書状が現存し、そこには「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれている。東軍側からの勧誘が慶長5年8月28日以前から行われていたことも、この線の史料からわかっている [2]。交渉の窓口になったのは、秀秋の付家老(つけがろう。主君につけられた重臣)である稲葉正成と平岡頼勝で、平岡頼勝は黒田家と縁戚(えんせき。親戚)だった [1]。
裏切りそのものを記した最も早い記録も、同時代の書状にある。合戦の2日後、慶長5年9月17日付の松平家乗宛・石川康通・彦坂元正連署書状は、開戦を15日午前10時ごろとし、小早川秀秋らが「うらきり」をしたと書く [3]。つまり「裏切りがあった」ことは、軍記を待たずに確認できる。
いっぽう、有名な「問鉄砲(といでっぽう)」——家康が松尾山に鉄砲を撃ちかけて裏切りを催促した、という場面——は事情がまったくちがう。江戸時代前期に成立した『内府公軍記』『当代記』『三河物語』『関原始末記』などには、この銃撃の記事そのものがない [4]。現在確認されている初出は、寛文3年(1663)成立の軍記『慶長軍記』(植木悦)で、合戦から63年後である [7]。よく引かれる『関原軍記大成』(宮川忍斎)も、古典籍の書誌には「元禄三序」とあり、いずれにせよ合戦から90年ほどあとの編纂物だ [8]。
異説や否定説
一つめは、北政所が東軍支持だったという説への反論だ。「秀秋は育ての親である北政所に従って東軍についた」という説明は広く行われてきたが、白川亨・三池純正らは逆に「高台院は西軍を支持していた」と論じている。先の連署状も、文面のうえでは「北政所のために東軍につけ」とまでは書いていない [2]。
二つめは、「問鉄砲」を全否定する見方への反論である。笠谷和比古は、秀秋がためらっていたことは徳川方の史料だけでなく、調略を仲介した黒田家じしんが編んだ『黒田家譜』にも明記されている以上、すべてを作り話とは言えない、と反論する [5]。開戦時刻を午前8時とみるか10時とみるかで、この評価は変わる。
三つめは、「計画どおりではなかった」という見方だ。事前に話がついていても、9月15日の戦闘そのものが突発的に起きたとみる説では、当日の行動は秀秋の計画した戦略とは別物になる [3]。
後世にどう語られたか
近世の軍記が「迷う秀秋・催促する家康」という筋書きを整え、それが近代の通説的な叙述や小説・映画へ受けつがれた [7]。いまも岐阜関ケ原古戦場記念館の史跡案内は「一説には、ここから松尾山の小早川秀秋を鉄砲で威嚇したと言われています」と、あくまで一説として紹介している [9]。事典類にも「関ケ原の戦いのさなかに秀秋を説得し東軍に内通」と、当日の説得を前提に書くものがある [6]。事前の調略と当日の逡巡(しゅんじゅん。ためらい)は、語りのなかで混ざりやすい。
読者が次に抱く疑問
Q. 事前に約束していたのに、なぜ「迷った」と言われるの? A. 迷ったという話の出どころは、江戸時代に編まれた本である [4]。合戦直後の書状は、開戦後まもない「うらきり」しか書いていない [3]。
Q. 東軍から目付(めつけ。監視役)が送られていたのは本当? A. 東軍から奥平貞治・大久保猪之助が目付として派遣されたと伝わる。ただし秀秋が離反の意思を伝えた相手は浅野長政とされ、連署状の差出人である浅野幸長とは別人(親子)である [1]。
Q. 秀秋は何歳だったの? A. 天正10年(1582)生まれ、慶長7年(1602)に21歳で死去しているので、関ヶ原の時点で十代である [6]。
図鑑の記述への提案
- 区分は「史実」のままでよい。ただし本文の末尾に「事前の調略があったことは書状で確認できる史実。当日の逡巡の有無や「問鉄砲」は江戸時代の編纂物が初出で、諸説ある」という一文を足し、二つを切り分けたい [4][7]。
- 「家康・長政は松尾山に目付を派遣していた」は、目付の名(奥平貞治・大久保猪之助)を挙げ、あわせて離反の連絡先は浅野長政、連署状の差出は浅野幸長と、二人の浅野を区別したほうが正確になる [1]。
- 「ただし北政所自身が東軍支持だったかは反論もあり諸説」はそのままでよい。可能なら白川亨らの名を添えると、読者が説を追いやすい [2]。
出典
- 小早川秀秋 - Wikipedia(「関ヶ原の戦い」節)秀秋の離反は、付家老の稲葉正成・平岡頼勝と、頼勝の縁戚である東軍の黒田長政が中心となって当初から調略していたものである。
「この秀秋の離反については、当初から付家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の縁戚関係である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われていた。頼勝は自らの正室とその母、弟を庇護していた黒田家との繋がりが深かったと見られている。」
- 小早川秀秋 - Wikipedia(「関ヶ原の戦い」節)黒田長政・浅野幸長連署の書状が現存し、東軍からの勧誘は8月28日以前から行われていたが、北政所が東軍支持だったかについては白川亨らの異説がある。
「また、黒田長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれた連書状が現存している。白川亨・三池純正らの、「高台院は西軍を支持していた」という異なる説やその他傍証もあり、この書状の内容について研究が待たれている(内容では、北政所のために東軍につけとは直接言ってはいない)。ともあれ、秀秋に対する長政ら東軍側からの勧誘は、8月28日以前より行われていたことが判明している。」
- 関ヶ原の戦い - Wikipedia(「一次史料による合戦当日の記録」節)合戦2日後の慶長5年9月17日付の石川康通・彦坂元正連署書状(松平家乗宛)は、開戦を15日午前10時ごろとし、小早川秀秋らが「うらきり」をしたと記す。
「合戦終了2日後の慶長5年9月17日に作成された松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状の内容は以下通りである。(1)9月14日に赤坂に着いた家康は、15日の午前10時ごろ、関ヶ原に移動し合戦に及んだ。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は、前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣した。(2)「先手」の井伊直政・福島正則隊を先手に東軍各隊が続いて、敵陣に攻め掛かった。そのとき、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋父子が「うらきり」をしたため、敵は敗走した。」
- 関ヶ原の戦い - Wikipedia(「小早川秀秋の陣に対する家康の銃撃」節)白峰旬によれば、江戸時代前期に成立した『内府公軍記』『当代記』『三河物語』などには家康による銃撃(問鉄砲)の記事そのものが存在しない。
「(1)『内府公軍記』・『当代記』・『三河物語』・『藤堂家覚書』・『関原始末記』・『武徳編年集成』等江戸時代前期成立の史料では、銃撃の記事そのものが存在しない。(2)寛文から正徳期の間に成立した諸史料では、逸話の内容に差異がある。」
- 関ヶ原の戦い - Wikipedia(「小早川秀秋の陣に対する家康の銃撃」節)笠谷和比古は、秀秋が逡巡したことは黒田家自身が編纂した『黒田家譜』にも明記されており、すべてを捏造とはできないと反論している。
「秀秋が逡巡して動かなかったことは、徳川系の史料のみならず、秀秋の裏切りを仲介した黒田長政の黒田家が編纂した『黒田家譜』にも明記されていることから、後代に編纂されたものとはいえ、全てを捏造とすることはできないとする。」
- 平岡頼勝とは - コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「平岡頼勝」)事典類は平岡頼勝を「関ケ原の戦いのさなかに秀秋を説得し東軍に内通」させた人物として記し、当日の説得を前提に書いている。
「小早川秀秋の家老。関ケ原の戦いのさなかに秀秋を説得し東軍に内通,西軍の大谷吉継軍を壊滅させ東軍大勝の要因をつくった。秀秋の死後,徳川家康から美濃(みの)(岐阜県)に1万石をあたえられ徳野藩の祖となる。」
- 家康は「早く裏切れ」と小早川秀秋に催促したわけではない(呉座勇一)(2ページ目「家康が小早川軍を徴発した「問鉄砲」は本当にあったのか」)現在確認されている「問鉄砲」の初出史料は寛文3年(1663)成立の軍記『慶長軍記』であり、問鉄砲が後世の創作であることはほぼ確定したとされる。
「白峰氏によれば、「問鉄砲」の初出は元禄元年(1688)成立の『黒田家譜』だという。白峰氏の新説提唱後、学界で研究が進展し、現在確認されている「問鉄砲」の初出史料は植木悦が著した軍記物『慶長軍記』である。同書は寛文3年(1663)に成立しているので、『黒田家譜』よりは20年以上早いが、それでも関ヶ原合戦から半世紀以上を経ている。一連の研究により、「問鉄砲」が後世の創作であることはほぼ確定したと言える。」
- 『関原軍記大成』を探している。 | レファレンス協同データベース(国立国会図書館)(回答プロセス(日本古典籍総合目録データベース 著作ID 343146))『関原軍記大成』は宮川忍斎の著で、日本古典籍総合目録データベースの成立年は「元禄三序」と記録されている。
「分類 戦記著者 宮川/忍斎成立年 元禄三序国書所在【写】内閣(四五巻四五冊),東博(正徳写四五冊),学士院(巻五、一冊),九大(正徳三写四五巻二三冊)」
- 小早川秀秋コース|古戦場・史跡巡り|岐阜関ケ原古戦場記念館(関連史跡「徳川家康最後陣地」)岐阜県の公式施設の史跡案内でも、家康が松尾山へ鉄砲を撃った話は「一説には」と留保つきで紹介されている。
「徳川家康は午前11時ごろ、戦況が把握できないため、笹尾山の三成の陣の正面であるこの陣地に、本陣を移しました。一説には、ここから松尾山の小早川秀秋を鉄砲で威嚇したと言われています。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。