〈武田勝頼〉高天神城を「見殺し」にした
天正9年(1581)3月、徳川軍に包囲された高天神城に後詰を送れず、城は玉砕した。織田との和睦交渉中だったこと、北条戦で兵力が釘付けだったこと、財政の限界が理由に挙がる。信長は家康に城兵の降伏受け入れを許さず「後詰できなければ武田の威信は崩壊する」と計算していたことが書状から判明しており、勝頼は信長の政治戦に敗れた面が大きい(平山優)。
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