〈斎藤義龍〉六角承禎に「成り上がりの家」と罵倒された
永禄3年(1560)、六角承禎が嫡男と義龍娘の縁談に猛反対して家臣に与えた条書が現存(「六角承禎条書写」)。「道三の父は妙覚寺の僧から還俗した成り上がり」と罵る内容は、皮肉にも「二代国盗り説」の最大の根拠となり、落胤説を否定する傍証にもなった。名門が家柄以外に断る理由を並べられないほど、義龍の家格が上昇していた証でもある。
検証リサーチ
「〈斎藤義龍〉六角承禎に「成り上がりの家」と罵倒された」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
史実。永禄3年の「六角承禎条書」は実在し「成あかり」の語も原文にある。ただし家老あての内部文書で、家柄以外の反対理由も多数並ぶ。
くわしい根拠
結論
区分は「史実」でよい。永禄3年(1560)に六角承禎(義賢)が家老たちへ出した条書は実在し、そこには斎藤義龍の祖父が「京都妙覚寺法花坊主」だったこと、父の代に「斎藤同名に成あかり(斎藤を名乗るまで成り上がった)」ことが書かれている[1]。「成り上がり」という語は原文にある。ただし二点、図鑑の書き方と史料がずれている。ひとつは、これは義龍に面と向かって浴びせた罵倒ではなく、六角家の内部文書だということ[3]。もうひとつは「家柄以外に断る理由を並べられない」という部分で、条書には家柄以外の理由が山ほど並ぶ[2]。
この話が最初に出てくる史料
史料名は「六角承禎条書写」(『戦国遺文 佐々木六角氏編』では「六角承禎条書案」八〇一号)。もと春日家に伝わった文書で、現在は滋賀県草津市の所蔵[9]。冒頭が欠けた(前欠)写しであって、原本ではない[1]。日付は永禄3年7月21日、宛先は平井兵衛尉・蒲生下野入道・後藤但馬守・布施淡路入道・狛修理亮の家老5人[1][3]。
書かれた事情はこうだ。六角家の当主だった義弼(のちの義治)が、父承禎に無断で義龍の娘との縁組を進め、止められて寺に引きこもった。承禎が家老たちに義弼を連れ戻させ、これまでの外交方針を守らせるために出したのがこの条書である[1]。
問題の一節の原文はこうだ。「彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主にて西村与申、長井弥二郎所へ罷出…(略)…彼者斎藤同名に成あかり」[1]。義龍の死の前年、道三の死からわずか4年後の、ほぼ同時代の記録である[3]。
この文書は昭和40年代のはじめ、『岐阜県史』を編さんする作業の中で見つかった[3]。1968年に岐阜県庁の岐阜県史編集室が発見した、とする記述もある[5]。
異説や否定説
調べた範囲では、この条書そのものを偽文書とする説は見あたらなかった。ただし次の点は押さえたい。
- 「二代国盗り説」の初出はこの条書ではない。 江戸時代の軍記『江濃記』がすでに二代説を採っていた[4]。条書の発見は、埋もれていた二代説を決定づけた、というのが正しい。
- 日付に揺れがある。 7月21日付とするもの[1][3]と、7月20日付とするもの[9]がある。
- 縁談の結末は不明。 婚姻が成立したかどうかは分からない。ただし翌永禄4年(1561)には義龍側が六角氏へ援軍を出しており、関係は改善したとみられる[6]。
- 落胤説(義龍の実父は土岐頼芸)の否定材料になる。 この条書に義龍の父が別にいるという話は一言も出てこない[7]。ここは図鑑の記述どおりでよい。
- 残っているのは写しである。 前欠の写(案)なので、文言が原本どおりかを一字一句まで保証はできない[1][9]。
- 書き手は敵対側である。 承禎は義龍を全否定する立場で書いており、斎藤氏を悪く言う方向のかたよりがある。「主殺し・親殺し」の列挙は、事実の記録であると同時に、反対のための材料でもある[1]。
後世にどう語られたか
江戸時代以降は、油売りから身を起こした道三が一代で美濃を奪ったという「一代国盗り説」が広く信じられた。条書の発見で、その前半生は父・長井新左衛門尉の事績だと分かり、美濃の戦国史は書き直された[3][5]。研究の側でも1970年代に入って二代説が公表され、以後は定説になっていった[5]。
近年の一般書やテレビでは、この条書が「名門六角による成り上がり批判」として紹介されることが多い。承禎の文章がとにかく長く、怒りがあふれていて引用しやすいことも大きいだろう。そこから「家柄を理由に断られた」という短い要約が生まれたと考えられるが、原文を通して読むとその要約は成り立たない[2]。逸話として面白い部分だけが独り歩きした形である。
読者が次に抱く疑問
Q1. 承禎は家柄だけを理由に断ったのか。 いいえ。原文には、越前朝倉氏との縁組の約束を破ることになる、織田と組んで揖斐五郎を美濃へ入れる計画がつぶれる、斎藤からの援軍は「頸ニ綱を付而も」出て来ない、といった外交・軍事の計算が並ぶ[2]。実際、桶狭間の頃、六角氏と織田氏は連携関係にあった[9]。同じ条書は義龍を「彼国取候被官人(国を奪った家来)」とも呼んでいる[2]。
Q2. 義龍の家格は本当に上がっていたのか。 上がっていた。永禄1年(1558)に治部大輔へ任官し、翌59年には将軍の相伴衆に列している[8]。ただしそれを示すのは官途や幕府の待遇であって、この条書ではない。条書はむしろ義龍を格下扱いしている[2]。
Q3. 縁談はどうなったのか。 条書は「起請文を出して城へ戻れ」と義弼に迫る内容で、承禎はいったん縁談を止めた[1]。その後この婚姻が成立したかどうかは史料から分からない[6]。ただし翌永禄4年(1561)には斎藤方が六角方へ援軍を送っており、両家が敵対をやめたことは確かである[6]。
図鑑の記述への提案
- 区分「史実」は維持でよい。
- 「名門が家柄以外に断る理由を並べられないほど」は削除か修正を。原文には朝倉・織田との連携、揖斐五郎の美濃入国計画、援軍が期待できない事情などが列挙される[2]。
- タイトルの「罵倒された」は、義龍に直接ではなく六角家内部の文書での悪口である旨を一言添えたい[1]。
- 文書の素性を足すと精度が上がる。永禄3年7月21日付、家老5人あて、前欠の写(案)、もと春日家文書で現在は草津市蔵[1][3][9]。
- 「義龍の家格が上昇していた証」は、治部大輔任官・相伴衆列座[8]に置き換えるほうが安全。
- 「二代国盗り説の最大の根拠」は正しいが、『江濃記』にすでに二代説があった点を添えるとより正確[4]。
出典
- 『戦国遺文 佐々木六角氏編』八〇一・本文と現代語訳~長文で激怒する六角承禎(八〇一 六角承禎条書案(春日匠氏所蔵文書) 第3条・原文)条書の原文には、義龍の祖父・新左衛門尉が京都妙覚寺の法華坊主で西村と名乗ったこと、父の代に斎藤を名乗るまで「成り上がった」ことが記されている。
「一、彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主にて西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、又父左近大夫代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斎藤同名に成あかり」
- 『戦国遺文 佐々木六角氏編』八〇一・本文と現代語訳~長文で激怒する六角承禎(八〇一 六角承禎条書案 越前・尾州に関する条・原文)条書には家柄以外の反対理由、すなわち朝倉氏との断交、織田氏と組んで揖斐五郎を美濃へ入国させる計画への支障といった外交・軍事上の計算が並んでいる。
「一、越前とハ不通ニなり、斎治申合対様成へからす、殊揖斐五郎拘置、入国内談之由候、尾州ニ急与可有馳走由、美濃守殿江申談由候、然者、彼両国より濃州へ出張之時、当方働可有如何候哉」
- 斎藤道三とは何者なのか~一代ではなく、二代で成し遂げた「国盗り物語」(谷口研語)(「国盗り伝説はかくして覆された」節)通説を覆した新史料は、永禄3年(1560)7月21日付の六角承禎書状(春日家文書)で、岐阜県史編纂の過程で発見された。
「その新史料とは、道三の死の4年後、永禄3年(1560)7月21日付けの六角承禎書状(春日家文書)。南近江の戦国大名六角承禎が老臣たちに対し、息子の義治と美濃の斎藤義龍の娘との間で進められている婚姻を止めるよう命じたものだが、そこに斎藤義龍の身上についての記述があった。」
- 斎藤道三とは何者なのか~一代ではなく、二代で成し遂げた「国盗り物語」(谷口研語)(「国盗り伝説はかくして覆された」節)二代国盗り説自体は条書発見以前から存在し、江戸時代の軍記『江濃記』がすでに採っていた。
「江戸時代の書物にも二代説を採るものがなかったわけではない。近江と美濃の戦国時代を記す『江濃記』は二代説を採っている。」
- 斎藤道三 - Wikipedia(「国盗り二代説」節)「六角承禎条書(写)」は1968年、『岐阜県史』編集の過程で岐阜県史編集室により発見された。
「1968年、『岐阜県史』編集の過程で、岐阜県庁の岐阜県史編集室により、道三の履歴が記された古文書「六角承禎条書(ろっかくじょうていすじがき)(写)」が発見された」
- 斎藤義龍 - Wikipedia(「六角氏との関係」に関する記述)永禄3年の縁談は承禎の猛反対を受けたが、婚姻が成立したかは不明で、翌永禄4年には義龍側が六角氏へ援軍を出し関係は改善したとみられる。
「永禄3年(1560年)には六角義治と政略結婚の交渉を進めていたが、義治の父・承禎(義賢)の猛反対を受けている(「六角承禎条書写」)。婚姻が成立したかは不明だが、永禄4年(1561年)には六角氏に援軍を出しており関係は改善されたものとみられる」
- 斎藤義龍 - Wikipedia(「出生(土岐頼芸落胤説)」節)この条書に義龍の実父が別にいるという言及はなく、土岐頼芸落胤説を否定する材料とされる。
「永禄3年(1560年)に六角義賢が家臣に宛てた書状「六角承禎条書写」においても義龍の父が別にいるなどという言及はなく」
- 斎藤義龍とは? 意味や使い方 - コトバンク(日本大百科全書)(日本大百科全書(ニッポニカ)「斎藤義龍」)義龍は永禄1年(1558)に治部大輔へ任官し、翌59年には将軍相伴衆に列しており、家格の上昇は官途と幕府の待遇で裏づけられる。
「58年(永禄1)治部大輔(じぶだいぶ)に任官、翌59年将軍相伴衆(しょうばんしゅう)に列し、以後たびたび織田信長と争う」
- 【寄稿】義元左文字と桶狭間の戦い 信長はなぜ勝てたのか?六角氏の加勢の新史料(原史彦・名古屋城調査研究センター)(「尾張・近江・越前 3国の「良好」な関係」節)「六角承禎条書写」は滋賀県草津市蔵で、承禎が義弼の重臣に宛てた怒りの書状の写しであり、桶狭間当時に織田氏と六角氏が連携していたことを示す記述がある。
「「六角承禎条書写」は、六角義賢よしかた(承禎)が、子の義弼よしすけ(後の義治よしはる)の重臣に対して送った怒りの書状の写しで、義弼が美濃の斎藤義龍たつおきの娘を娶めとり斎藤家と同盟を結ぶことに強く反対する内容が書かれています。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。