〈斎藤義龍〉足利一門「一色氏」に改姓した
永禄2年(1559)8月、幕府から一色氏家督を認められた事実は幕府関係史料で確実(初出研究は木下聡「斎藤義龍の一色改姓について」2007)。意図は諸説あるが、頼芸存命中に「土岐」は名乗れず、管領家ほど不相応でもない「ちょうどよい名家」を選んだ家格戦略説が主流。父殺しの汚名を薄め、土岐支配の正統性を相対化する効果もあった。
検証リサーチ
「〈斎藤義龍〉足利一門「一色氏」に改姓した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
一色改姓自体は史実。ただし時期は永禄2年8月説と永禄4年説があり、動機の説明には江戸期編纂物由来の脚色が混ざる。
くわしい根拠
結論
「斎藤義龍が足利一門の一色氏に改姓した」こと自体は「史実」です。義龍・龍興の側が出した文書や味方の記録では、親子は「一色」と呼ばれており、後世の作り話ではありません[6]。一色氏は足利氏の一門で、美濃守護の土岐氏より家格(いえがら=家の格式)が上とされます[4]。ただし図鑑が書く「永禄2年(1559)8月」という時期と、「初出研究は木下聡2007」という組み合わせには直すべき点があります。動機の説明も、江戸時代の本の説明と現代の推測が混ざっています。
この話が最初に出てくる史料
まず押さえたいのは、同時代の記録『信長公記』に「義龍の一色改姓は書かれていない」ことです。太田牛一が書くのは、道三が三男の喜平次を「一色右兵衛大輔」にしたという話[1]と、道三を討ったあと義龍が「范可(はんか)」と名乗った話[2]だけです。つまり一色の名は道三の子にすでに使われており、義龍の改姓そのものの根拠は軍記ではなく、義龍・龍興側の文書や味方(越前朝倉氏・本願寺)の記録にあります[6]。改姓は突然の思いつきではなく、弘治4年(1558)の治部大輔任官、永禄2年(1559)4月の上洛と御相伴衆就任という家格上げの流れの先にありました[4]。
一方、敵対する勢力は「一色」を使いませんでした。永禄3年(1560)に六角承禎が家老たちへ出した条書(『六角承禎条書写』)は、義龍を「彼斎治(=斎藤治部大輔)」と呼び、その家の出自を「祖父新左衛門尉は京都妙覚寺の法花坊主で西村といった」と書いてこき下ろします[9]。織田方の『信長公記』も終始「斎藤」です[6]。改姓は「認めた側」と「認めない側」で扱いが割れていました。研究として正面から扱った早い例が、木下聡「斎藤義龍の一色改姓について」(『戦国史研究』54号、2007年、33〜34頁)です[7]。
異説や否定説
改姓自体を否定する研究は見当たりません。争われているのは「時期」と「意図」です。
時期は、図鑑と同じ永禄2年8月に幕府から一色氏家督を認められたとする記述[4]のほかに、「永禄4年(1561)2月の左京大夫任官のとき」とする推定があります[8]。後者は前掲2007年の木下論考の見解として紹介されたもので、その場合、義龍は同年5月に死去するので「一色義龍」だった期間はごく短いことになります[8]。
意図は、(1)土岐氏を超える家格を示す戦略とする説[8]、(2)土岐頼芸が健在なので「土岐」は名乗れず、管領家ほど不相応でもない家として一色が適当だったとする木下説[5]、(3)母方が一色氏の血を引くから、という近世史料由来の説[3]が並びます。(3)は前提になる母・深芳野の話自体が近世の創作とみられており、根拠は弱いです。家臣を一色家臣団の名字(伊賀・氏家・成吉・延永)へ改めさせた時期も、義龍生前とする記述と、義龍没後の永禄4年=龍興の代とする指摘があり、定まっていません[5]。なお、改姓が義龍一代限りの思いつきでなかったことは、子の龍興も味方から「一色」と呼ばれ続けたことからわかります[6]。
後世にどう語られたか
江戸時代の『濃陽諸士伝記』は、改姓を弘治2年(1556)、つまり道三と戦う前の出来事として書きます。理由も「義龍は斎藤の血ではないと知ったから」「土岐殿の奥方が一色氏の娘だから」「多田満仲の末という口伝がある」「厚見郡一色に土岐殿の屋形があったから」と、いくつも並べています[3]。同じ本は義龍を「一色美濃守義龍」とも書きますが、実際の官職は左京大夫で、ここも合っていません。父殺しの動機づけとして落胤説(実の父は土岐頼芸だという説)とセットで語られるうちに、時期も理由も膨らんだと考えられます。
読者が次に抱く疑問
- 「なぜ土岐を名乗らなかったの?」 追放された土岐頼芸がまだ生きており、「土岐」を名乗れば土岐一族の反発を招き、名目上は頼芸の帰国を受け入れざるを得なくなるから、というのが木下説です[5]。
- 「一色は本当に土岐より格上なの?」 一色氏は足利一門で、斎藤氏はもちろん土岐氏より格上とされます[4]。ただし両家とも将軍の相伴衆(しょうばんしゅう=将軍に随行する家格)で、差はそれほど大きくないのでは、という疑問も出されています[8]。
- 「改姓後、みんな一色と呼んだの?」 いいえ。味方は「一色」、敵の織田氏は「斎藤」と呼び分けました[6]。六角承禎も「斎治」です[9]。
図鑑の記述への提案
- 「初出研究は木下聡「斎藤義龍の一色改姓について」2007」と「永禄2年8月」を並べるのは避けたほうがよいです。書誌は実在します(『戦国史研究』54号33〜34頁)[7]が、その2007年の論考は改姓を「永禄4年の左京大夫任官時」と推定したものとして紹介されています[8]。永禄2年8月説は木下『斎藤氏四代』(2020)など後年の記述に基づくので、「時期には永禄2年説と永禄4年説がある」と書き分けるのが正確です。
- 「幕府関係史料で確実」は具体的な史料名を挙げていないので、史料名を示すか、「幕府側の記録から確認できる」程度に留めるのが安全です。読者が原文にあたれないまま「確実」とだけ言われると、検証のしようがなくなります。永禄3年の時点でも敵方は「斎藤治部大輔」と呼んでいた[9]ことを添えると、改姓の浸透に濃淡があったことも伝わります。
- 「父殺しの汚名を薄め」は近世の編纂物の説明と現代の推測が混ざります。「〜という効果もあったと考えられている」と推測であることを明示してください。
- 区分は「史実」のままでよいですが、「ただし改姓の時期と意図には諸説がある」と一文を添えることを提案します。あわせて、江戸時代の『濃陽諸士伝記』などが改姓を道三との戦い以前に置き、母方一色氏説など複数の理由を並べていること[3]に触れると、「どこからが後世の脚色か」が読者に伝わります。
出典
- 信長公記 首巻(廿九)土岐頼芸公之事(ウィキソース)(首(廿九)土岐頼芸公之事)同時代に近い『信長公記』は、道三が三男の喜平次に「一色右兵衛大輔」を名乗らせたと記す。
「三男春平次を一色右兵衛大輔になし乍居官を進められケ様に候間第共勝に乗て奢蔑如に持扱候」
- 信長公記 首巻(三十)山城道三討死之事(ウィキソース)(首(三十)山城道三討死之事)『信長公記』は道三討伐後の義龍の改名を「范可」とだけ記し、一色への改姓には触れない。
「是より後新九郎はんかと名乗古事在昔唐にはんかと云者親の頭を切夫煮父の顔を切て為(ナル)㆑孝と也」
- 濃陽諸士伝記(ウィキソース)(斎藤家来歴(義龍死去の条の前))江戸時代の編纂物『濃陽諸士伝記』は、一色改姓の理由として母方一色氏説・口伝・地名説を並べて説明する。
「義龍、斎藤の種にあらざる事を存ぜられしかば斎藤を一色と改め、源氏の姓と号し、已に道三を討たんと思立ちし時より、斎藤を名乗れば、父子の義あり。藤原氏を改め、源氏と称すれば、土岐殿の御子にて、君臣の別なり。其一色とは、土岐殿の簾中は、一色氏の娘なればなり。又多田満仲の御末、一色と名乗らるゝ口伝あり。又厚見郡一色といふ所に、土岐殿の屋形あり。世の人、一色殿と称すともいへり。」
- 斎藤義龍 - Wikipedia(生涯)(生涯)永禄2年8月に幕府から一色氏家督を認められたとされ、一色氏は足利一門で土岐氏より格上とされる。
「同年8月、一色氏家督の地位を幕府から認められ、これより一色義龍と称した。一色氏は足利一門に属しており、斎藤氏は勿論のこと、美濃守護家である土岐氏よりも格上の家柄であった。」
- 斎藤義龍 - Wikipedia(人物・逸話)(人物・逸話(「范可」の節))木下聡は、頼芸存命ゆえ土岐を名乗れず、格上かつ不相応すぎない家として一色が適当だったと説明する。
「木下聡は未だに土岐頼芸が健在だったため、土岐を名乗れば土岐一族の反発を招きかねず、加えて名目上頼芸の帰国を受け入れなければならなくなるため、土岐氏より格上かつ管領家・御一家ほど上位でもなく、隣国の六角氏のように確実に反発を招く訳でもない家として適当だったとしている」
- 斎藤龍興 - Wikipedia(概要)味方の記録では義龍以降「一色」と認識され、敵対する織田氏は「斎藤」と呼び続けた。
「美濃斎藤氏は龍興の父・義龍の代から一色氏を名乗っており、『朝倉始末記』をはじめとする越前朝倉氏に関する記録に見えるように、龍興自身やその味方は「一色」だと認識していた。しかし龍興と敵対した織田氏では一色氏と認めない立場から「斎藤」と呼び続け」
- 斎藤義龍の一色改姓について|国立国会図書館サーチ(記事書誌)(書誌詳細)木下聡「斎藤義龍の一色改姓について」は『戦国史研究』54号(2007年)33〜34頁掲載の実在する論考である。
「著者 木下聡 出版者 - 出版年 2007 資料形態 紙 掲載誌名 戦国史研究54号 掲載ページ p.33-34」
- 斎藤義龍の一色改姓について/木下聡/戦国史研究(54号)(日本史日誌)(本文後半)2007年の木下論考は、一色を名乗った時期を永禄4年の左京大夫任官時と推測していたと紹介されている。
「それから、一色氏を名乗ったのは、永禄四年(1561)の左京大夫任官のときと推測しており、そうなるとこの年のうちに亡くなっているので、「一色義龍」であった時期は非常に短いことになります。」
- 『戦国遺文 佐々木六角氏編』八〇一・本文と現代語訳(六角承禎条書)(条書本文(第3条))永禄3年の六角承禎条書は義龍を「彼斎治(斎藤治部大輔)」と呼び、一色の名乗りを用いていない。
「一、彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主にて西村与申、長井弥二郎所へ罷出」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。