〈斎藤義龍〉信長は義龍存命中、美濃を攻めきれなかった

長良川直後の大良河原で信長軍を撤退させ、永禄3年(1560)6月の美濃侵入も撃退。義龍は信広・信勝ら信長の兄弟への調略(書状で確認できる)で家督まで揺さぶった。義龍存命中に信長が美濃で得た成果は皆無に近く、攻略が進展するのは義龍死去の直後からである。『信長公記』および書状類、木下聡氏の研究による。

検証リサーチ

「〈斎藤義龍〉信長は義龍存命中、美濃を攻めきれなかった」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

大筋は史実。ただし戦国当時の史料にこの一文はなく、『信長公記』の合戦記録と書状から近年の研究者がまとめた「評価」。義龍死後も美濃平定には6年かかった点は要修正。

くわしい根拠

結論

「信長は義龍が生きているあいだ、美濃を攻めきれなかった」という話は、大筋では「史実」と言ってよい。合戦の記録がその通りになっているからだ。ただし注意がいる。この文そのものを書いた戦国時代の史料はない。残された合戦記録と書状をつなぎ合わせて、近年の研究者がまとめた「評価」である [5]。だから区分は「史実」のままでよいが、本文には「同時代の史料がこう書いているのではなく、研究者の評価である」と一言そえるのが正確だ。

この話が最初に出てくる史料

土台になるのは『信長公記』である。信長の右筆(ゆうひつ。文書をあつかう秘書)だった太田牛一が、江戸のはじめ慶長15年(1610)ごろに書いた一代記だ [1]。事件から50年以上たってまとまった本なので、「同時代の記録」というより「当事者による回想録」に近い。

その『信長公記』首巻(しゅかん)には、次の二つが書かれている。

  • 弘治2年(1556)4月、長良川で道三が討たれた直後、義龍軍が大良(おおら)口の信長の陣に攻めよせ、信長方は山口取手介・土方喜三郎が討死して撤退したこと [2]
  • ぎゃくに信長が西美濃で勝った森部(もりべ)・十四条(じゅうしじょう)の戦いは「永禄四年辛酉」、つまり1561年の出来事であること [3]

義龍が病死したのは永禄4年5月11日 [7]。森部の戦いはその2日後の5月13日で、相手はもう義龍ではなく、跡をついだ子の龍興(たつおき)の軍だった [8]。つまり『信長公記』の並びじたいが、「義龍が生きているうちの成果はほぼ無し、死んだ直後から勝ちはじめる」という形になっている。

「兄弟への調略」も裏づけがある。義龍が信長の兄・信広、弟・信勝と連絡を取っていたことは、「古今消息集」「徳川黎明会所蔵文書」に残る書状で確認できる [4]。軍記ではなく当事者が書いた文書なので、史料としての格は高い。

異説や否定説

第一に、「攻めきれなかった」理由を義龍の強さだけに求めるのは行きすぎ、という見方がある。義龍の存命中、信長は尾張の統一そのものに追われていた。岩倉織田家との戦い、弟・信勝の謀反、そして永禄3年(1560)の桶狭間である。美濃に本腰を入れられる状態ではなかった。

第二に、「義龍が死んだら一気に進んだ」も言いすぎである。たしかに永禄3年6月と8月の美濃越境は退けられている [6]。しかし義龍の死後も、信長は永禄6年(1563)の新加納(しんかのう)で龍興に敗れ、稲葉山城が落ちるのは義龍の死から6年後の永禄10年(1567)である [6]。「死んだ直後に美濃が転がりこんだ」わけではない。

第三に、義龍そのものの評価が正反対に割れてきた。『信長公記』は義龍を「不孝重罪恥辱と成也」と切り捨てている [2]。今の「有能な戦国大名」像は、書状や幕府・朝廷との交渉記録を読みなおした近年の研究がつくったものだ [5]。

なお細かい点だが、義龍の没年齢は史料によってちがう。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は35歳とするが [7]、生年を享禄2年(1529)とみる立場では33歳になる。

後世にどう語られたか

江戸時代の編纂物(へんさんぶつ。後から資料を集めて作った本)では、義龍は「父殺しの不孝者」として語られた。『信長公記』の「不孝重罪恥辱」という評 [2] が、そのまま人物像になったのである。

流れが変わったのは近年だ。木下聡氏は「道三に引導を渡した義龍は、早死さえしなければ、信長の美濃制圧は倍以上時間がかかっていた可能性が高く、むしろ美濃を落とせなかったかもしれない」と述べている [5]。図鑑の一文は、この評価を要約したものと読める。

地元での語られ方もおもしろい。安八町では森部の合戦は「前田利家の出世の戦」として伝えられ、信長が鎧をかけたという「鎧掛けの松」の伝承がある [8]。岐阜市の常在寺は斎藤家3代の菩提寺で、義龍の肖像画が今も伝わる [9]。

読者が次に抱く疑問

Q1. 義龍はなぜそんなに強かったのか。 単に戦上手だったからではない。義龍は幕府・朝廷との交渉で家格を上げ、書状を使って信長の兄弟を切りくずすなど、外交と謀略の両輪で戦っている [4][5]。信長は正面の戦場だけでなく、自分の家中を守ることにも力をさかれていた。

Q2. 「永禄3年6月の美濃侵入」の出どころは何か。 ここは注意がいる。この出兵は『信長公記』首巻には出てこない。事典や自治体史などの記述にもとづくもので [6]、もとになった一次史料が何かまでは今回たどれなかった。図鑑で断定して書くなら、根拠史料を確かめておきたい。

Q3. 義龍が長生きしていたら美濃は落ちなかったのか。 これは「もしも」の話で、史料からは答えが出ない。木下氏の発言も「可能性が高い」「かもしれない」という言い方であり [5]、断定ではない。

図鑑の記述への提案

区分は「史実」のままでよい。そのうえで4点を提案する。

  1. 「攻略が進展するのは義龍死去の直後から」を修正。勝ちはじめるのは事実だが、永禄6年の新加納では敗れ、稲葉山城の陥落は6年後の永禄10年である [6]。「義龍の死の直後から局地戦で勝ちはじめるが、美濃平定にはさらに6年かかった」とすると正確になる。
  2. 成果が上がらなかった理由に、信長側の事情も並記。尾張統一と桶狭間で手いっぱいだった点をそえたい。
  3. 典拠の性格を明示。『信長公記』は慶長15年ごろ成立の回想録であること [1]、この一文自体は史料の記述ではなく木下聡氏らの評価であること [5] を書き分ける。
  4. 「永禄3年(1560)6月の美濃侵入」に注記。『信長公記』には見えない出来事である [6][3]。

書状で裏づけられる「兄弟への調略」[4] と、義龍死去2日後の森部合戦 [8] は、そのまま残してよい。

出典

  1. 信長公記(太田牛一) - Wikisource(冒頭の解題)
    『信長公記』は事件から数十年後の慶長15年(1610)ごろに太田牛一が書いた一代記であり、厳密な同時代記録ではない。
    「『信長公記』(しんちょうこうき)は、江戸初期の慶長15年(1610年)頃に戦国大名・織田信長の祐筆・太田牛一が著した織田信長の一代記である。」
  2. 信長公記 首巻(卅一)信長太良より御帰陣之事 - Wikisource(首巻(卅一)信長太良より御帰陣之事)
    長良川の直後、義龍軍が大良口の信長の陣へ兵を出し、信長は撤退した。同書は義龍を「不孝重罪恥辱」と評している。
    「今の新九郎義龍は不孝重罪恥辱と成也軍終頸実検して信長御陣所大良口へ人数を出し候則大良より三十町計懸出および河原にて取合足軽合戦候て」
  3. 信長公記 首巻(卅七)十四条合戦之事 - Wikisource(首巻(卅七)十四条合戦之事)
    信長が西美濃へ乱入して墨俣に城を構え十四条で戦ったのは永禄4年(1561)であり、義龍の死後の出来事である。
    「一永禄四年辛酉五月上旬木曽川飛弾川大河打越西美濃へ御乱入在々所々放火にて其後洲股御要害丈夫に被仰付随居陣候之処五月廿三日井口より惣人数を出し十四条と云村に御敵人数を備候」
  4. 斎藤義龍 - Wikipedia(政策 > 外交)
    義龍が信長の兄・信広および弟・信勝と連絡を取っていたことは、現存する書状によって確認できる。
    「義龍は信長の兄弟である信広・信勝と連絡を取っていたことが書状によって確認できる(「古今消息集」「徳川黎明会所蔵文書」)。これは信長の兄弟を支援して信長の家督を動揺させることを目的としていたとみられる。」
  5. 斎藤義龍 - Wikipedia(木下聡氏の評価)(評価)
    「義龍が早死しなければ信長の美濃制圧はもっと難航した」という見方は、史料の記述ではなく木下聡氏ら研究者の評価である。
    「道三に引導を渡した義龍は、早死さえしなければ、信長の美濃制圧は倍以上時間がかかっていた可能性が高く、むしろ美濃を落とせなかったかもしれない。」
  6. 稲葉山城の戦い - Wikipedia(背景)
    永禄3年の2度の美濃越境は退けられたが、義龍の死後も信長は永禄6年の新加納で敗れており、美濃攻略はすぐには進まなかった。
    「6月、8月に信長は美濃へ越境して斎藤氏を牽制するも家臣の長井利房らに退けられ敗退した。翌永禄4年(1561年)5月、美濃に進入すると森部村(安八町)にて長井利房、日比野清実らを討ち取り勝利する(森部の戦い)。更に十四条の戦いでも勝利し、勢いづいた信長は稲葉山城へ攻め込むが攻略はできず、撤退した。永禄6年(1563年)には、中濃東部へ攻め込むも、新加納の戦いで斎藤龍興と戦い敗れる。」
  7. 斎藤義竜(さいとう よしたつ)とは - コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「斎藤義竜」)
    事典レベルでも「道三を討ったのち織田信長の侵攻をよく防いだが永禄4年5月11日に病没した」と記され、没年齢は35歳とする。
    「家督争いから弟(道三の実子)を殺し,弘治(こうじ)2年道三を長良川(ながらがわ)河畔で敗死させる。その後,織田信長の侵攻をよくふせいだが,永禄(えいろく)4年5月11日病没。35歳。」
  8. 森部薬師堂・出世の松(森部合戦の古戦場) | 安八町(森部合戦の解説)
    森部の戦いは永禄4年(1561)、義龍の死の直後に起こり、信長が戦った相手はすでに子の斎藤龍興の軍だった。
    「永禄四年(1561)織田信長が、西美濃を征服しようと、本郷村(羽島市)より長良川を渡って森部村に進出し、斉藤龍興軍と戦いました。」
  9. ナビ番号:315 常在寺|岐阜市公式ホームページ(常在寺の解説)
    弘治2年(1556)の長良川の戦いで道三が義龍に敗れ、常在寺は斎藤家3代の菩提寺となり義龍の肖像画が伝わる。
    「しかし、弘治2年(1556)長良川での戦いで、子・義龍に敗れてこの世を去った後は、斎藤家の菩提寺として、親子3代が祀られ、わしや義龍の肖像画なども残されておる。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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