〈本多忠勝〉関ヶ原の実像 — 猛将ではなく「軍監+外交官」
水野伍貴氏(2020)によれば、忠勝は井伊直政と連署で吉川広家ら諸大名に書状を送り、加藤貞泰ら豊臣系大名の東軍化交渉で活躍 — 調略活動は現存文書で確認できる。本戦では豊臣系諸将を監督する軍監的立場。「わずかな手勢で90級」は『藩翰譜』等の後世記録、愛馬・三国黒が島津勢の銃撃に斃れた逸話も後世記録による。
検証リサーチ
「〈本多忠勝〉関ヶ原の実像 — 猛将ではなく「軍監+外交官」」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
前半(調略・軍監)は同時代文書で裏づけられる史実。後半の「90級」「三国黒」は江戸期の編纂物による後世記録で、区分は「一部史実・一部伝承」が妥当。
くわしい根拠
結論
図鑑の前半(調略と軍監)は「史実」でよい。忠勝が井伊直政と連署して吉川広家らに起請文(神仏に誓う形式の文書)を出したことは、合戦前日にあたる慶長5年9月14日付の文書として確認できる[2]。事典も、家康が豊臣恩顧の大名からなる東海道の主力部隊に「軍監として股肱の井伊直政、本多忠勝両将を添え」たと記す[1]。関ケ原町の解説も忠勝を「軍監として参戦」と説明する[3]。
一方、後半の「わずかな手勢で90級」「愛馬・三国黒が島津勢の銃撃で斃れた」は、同時代の書状や日記ではなく、江戸時代以降の編纂物(後からまとめ直した本)に載る話である[5][7]。よって全体の区分は「史実」一本ではなく「一部史実・一部伝承」が妥当である。
この話が最初に出てくる史料
同時代(一次)史料。慶長5年9月14日、本多忠勝・井伊直政が吉川広家・福原広俊に宛てた連署起請文。輝元を粗略にしない、輝元の分国は相違なく安堵する、といった約束が書かれている[2]。同じ日付で福島正則・黒田長政も連署起請文を出し、忠勝・直政の起請文に偽りがないことを重ねて保証している[2]。忠勝は「毛利をどう西軍から引き剥がすか」という外交の当事者だったことが、文書そのものから読み取れる。
研究。図鑑が挙げる典拠は、水野伍貴「関ヶ原の役と本多忠勝」(『研究論集歴史と文化』第6号、2020年)である[4]。
後世の編纂物。「90級」や「三国黒」の話は、『藩翰譜』(新井白石著、元禄15年=1702年成立、13巻、諸大名337家)[5]や『寛政重修諸家譜』(徳川幕府編、文化9年=1812年成立、1530巻)[6]など、合戦から100〜200年後の書物の系統に属する。
ただし正直に書くと、今回のオンライン調査では『藩翰譜』の原文で「90級」に当たる箇所を確認できなかった。通説をまとめた記述でも「わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げた」の一文に個別の出典注が付いていない[7]。この数字の出どころは未確認と考えるのが安全である。
異説や否定説
1. 軍記物そのものを疑う立場。白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』は「あくまでも一次史料により、これまで繰り返し再生産されてきたお馴染みの物語を真っ向から否定」すると述べ、章題に「江戸時代の軍記物が作り出した虚偽に満ちた関ヶ原合戦像」「軍記物が描く関ヶ原合戦はフィクションである」を掲げる[9]。この立場に立てば、軍記に由来する忠勝の奮戦譚は史実の証拠にならない。
2. その「新説」を批判する立場。同じ関ヶ原研究でも、水野伍貴『関ヶ原合戦を復元する』(星海社新書)は近年の新説を「つぶさに批判検証し、信憑性の高い史料を基に決戦当日の布陣や経過を復元していく試み」だとする[8]。つまり、本戦の経過そのものが研究者間で決着していない。
3. 「軍監」という語の扱い。事典や自治体の解説は軍監と書くが[1][3]、これは編成上の役割をあらわす説明語であって、同時代の辞令に見える正式な職名として確認したわけではない。断定は避けたい。
後世にどう語られたか
江戸中期以降、忠勝の武功は大名家の由緒書や幕府編の系図集に整理されて残った[5][6]。こうした本は「家の名誉」を書き残す性格を持つため、首級の数のような数字は大きく伝わりやすい。三国黒の話も、家臣・梶勝忠が自分の馬を差し出して徒歩の忠勝を救ったという家臣側の家伝とセットで語られてきた[7]。近代には参謀本部『日本戦史 関原役』が布陣図とともに合戦像を固定したが、白峰はその布陣図を「近代のオリジナル」と位置づけ直している[9]。
読者が次に抱く疑問
Q1. 忠勝は本戦では戦っていないのか。 戦っていないとは言えない。関ケ原町の解説も「松平・井伊隊が対戦していた島津隊に向かって進撃し、西軍武将の切り崩しにも努めています」と書く[3]。争点は「戦ったか」ではなく「首級90という数字がどこまで確かか」である。
Q2. 起請文は本物か。 9月14日付の忠勝・直政連署起請文は毛利・吉川関係の研究で広く使われる。ただし吉川家に伝わる文書には、後年の主張と結びついた疑わしいものもあると指摘されており、同日付の福島・黒田連署起請文など複数を突き合わせて読む必要がある[2]。
Q3. 手柄の割に加増が小さいのはなぜか。 忠勝は慶長6年に伊勢桑名10万石へ移された[7]。恩賞の評価は別途の検討課題である。
図鑑の記述への提案
- 区分を「史実」から「一部史実・一部伝承」へ。調略・軍監の部分は史実、「90級」「三国黒」は後世記録と本文で切り分ける。
- 「わずかな手勢で90級」は、『藩翰譜』の何の条にどう書かれているか(原文の表記)を確認して注記する。確認できないうちは「江戸期の編纂物に見える数字」とだけ書くのが安全。
- 典拠は「水野伍貴氏(2020)」ではなく、「関ヶ原の役と本多忠勝」『研究論集歴史と文化』第6号(2020年)と明記する[4]。
- 連署書状は日付(慶長5年9月14日)と宛先(吉川広家・福原広俊)を添えると、読者が自分で検証できる[2]。
- 「軍監」は後世の整理による呼び方である旨を一言添える[1]。
出典
- 関ヶ原の戦い(コトバンク/日本大百科全書ニッポニカ、執筆:岡本良一)(日本大百科全書(ニッポニカ)「関ヶ原の戦い」暗夜豪雨をついて関ヶ原へ)家康は豊臣恩顧大名からなる東海道の主力部隊に、軍監として井伊直政・本多忠勝を添えたと事典が記す。
「軍監として股肱(ここう)の井伊直政(なおまさ)、本多忠勝(ただかつ)両将を添え東海道を西上させた。」
- 吉川広家 - Wikipedia(関ヶ原の戦い節)慶長5年9月14日付で本多忠勝・井伊直政が吉川広家・福原広俊に宛てた連署起請文が存在し、同日付の福島正則・黒田長政連署起請文がその内容を保証している。
「同日付の本多忠勝と井伊直政が広家・福原広俊に宛てた連署起請文では、輝元に対して、家康は疎かにする気持ちがないこと。広家・広俊も家康に忠節を尽くしているので、同様に疎かにする気持ちのないこと。輝元が家康に忠節を誓うのであれば、家康の判物を送ること。また、輝元の分国は相違なく安堵すること。という内容が記されている。また、同日付の福島正則・黒田長政の連署起請文では、先述の忠勝・直政の起請文に偽りがないことを重ねて証明している。」
- 本多忠勝 陣跡|スポット情報|関ケ原観光ガイド(岐阜県関ケ原町)(戦機熟するや島津の陣へ)地元自治体の観光公式解説も、忠勝を関ケ原の戦いにおける軍監と位置づけ、島津隊への進撃と西軍武将の切り崩しを挙げる。
「関ケ原の戦いでは、軍監として参戦しており、松平・井伊隊が対戦していた島津隊に向かって進撃し、西軍武将の切り崩しにも努めています。」
- 論文一覧 - 水野伍貴のブログ(論文一覧(著者本人による一覧))図鑑が典拠とする水野伍貴の研究は「関ヶ原の役と本多忠勝」(『研究論集歴史と文化』第6号、2020年)である。
「・関ヶ原の役と本多忠勝 『研究論集歴史と文化』第6号、2020年・関ヶ原の役における吉川広家の動向と不戦の密約 『研究論集歴史と文化』第5号、2019年」
- 藩翰譜(コトバンク/デジタル大辞泉)(デジタル大辞泉「藩翰譜」)『藩翰譜』は新井白石が元禄15年(1702)に成立させた江戸中期の編纂物で、関ヶ原当時の同時代史料ではない。
「江戸中期の歴史書。13巻。新井白石著。元禄15年(1702)成立。慶長5年(1600)から80年間の、諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけたもの。」
- 寛政重修諸家譜(コトバンク/精選版 日本国語大辞典)(精選版 日本国語大辞典「寛政重修諸家譜」)『寛政重修諸家譜』は文化9年(1812)成立の幕府編の系図集で、これも合戦から200年余り後の編纂物である。
「江戸後期の大名・旗本・御家人らの系図集。一五三〇巻。徳川幕府編。文化九年(一八一二)成立。」
- 本多忠勝 - Wikipedia(関ヶ原から最期まで)「わずかな手勢で90級」「三国黒が島津勢の銃撃で死亡」という通説的記述は流布しているが、これらの一文には個別の出典注が付いていない。
「本戦でも奮戦し、わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げた。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移」
- 『関ヶ原合戦を復元する』(水野伍貴、星海社新書)|講談社(内容紹介)関ヶ原合戦は近年の「新説」とその批判検証が続いており、本戦の経過は研究者間で決着していない。
「本書は、従来の関ヶ原合戦のイメージを一変させる「新説」をつぶさに批判検証し、信憑性の高い史料を基に決戦当日の布陣や経過を復元していく試みである。」
- 新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い(白峰旬 著)|宮帯出版社(商品説明・目次)江戸時代の軍記物が作った関ヶ原像をフィクションとして退け、一次史料のみで再構成すべきだとする否定説がある。
「本書は、あくまでも一次史料により、これまで繰り返し再生産されてきたお馴染みの物語を真っ向から否定し、本当の関ヶ原合戦の事実を考察するものである。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。