〈柴田勝家〉信勝の再謀反を密告した
弘治3年(1557)、信勝が再び謀反を企てると勝家は信長に密告し、信勝は清須城で誅殺された(『信長公記』首巻)。勝家の帰参は単なる降伏ではなく、主体的な鞍替えだった——その後の忠誠の原点である。
検証リサーチ
「〈柴田勝家〉信勝の再謀反を密告した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
密告の記事は『信長公記』首巻だけが伝え、同時代の一次史料の裏づけはなく「諸説あり」。動機は忠義でなく「無念」と書かれ、年も弘治3年でなく永禄元年(1558)が有力。
くわしい根拠
結論
「柴田勝家が信勝(信行)の再度の謀反を信長に密告した」という話は、同時代の書状などの一次史料では確かめられません。もとになっているのは『信長公記』の「首巻」(しゅかん=本編15巻より前に置かれた部分)という編纂物(あとからまとめた本)一点だけです[1]。『信長公記』は信長の家臣だった太田牛一の著で、ふつうの軍記物より信頼度は高いとされますが、首巻は自筆本に含まれない別立ての部分です[7]。しかも図鑑が書く「弘治3年(1557)」という年は、『信長公記』本文とも、いまの研究の主流ともずれています[2][6]。区分は「史実」と言い切らず「諸説あり」が適切です。
この話が最初に出てくる史料
『信長公記』首巻は、信勝(勘十郎)が龍泉寺を城に構え、岩倉の織田伊勢守(信安)と示し合わせ、信長の直轄領である篠木三郷を横取りしようとした、と書きます。そのうえで、信勝が若衆の津々木蔵人(つづきくらんど)をひいきして家中の侍を皆その下に付けたため、蔵人がおごり、勝家を「蔑如(べつじょ=見下すこと)に持ち扱った」とします。そして「柴田無念に存じ、上総介殿へ又御謀叛思し食し立つの由申し上げ候」——つまり勝家は「無念(くやしさ)」から信長に告げたと記します[1]。
ここが大事な点です。図鑑は「主体的な鞍替え」「忠誠の原点」と書きますが、初出史料が挙げる動機は忠義ではなく、新参の寵臣に軽んじられた悔しさです[1]。
続けて同書は、信長が「作病(さくびょう=仮病)」を構え、母(土田御前)と勝家がすすめたので信勝が清須へ見舞いに出て、「清洲北矢蔵天主次之間」で討たれたと書きます。日付は「弘治四年戊午霜月二日」、実行者は「河尻・青貝」。さらに「此の忠節仕り候に付いて、後に越前大国を柴田に仰せ付けられ候」と、のちの越前拝領の理由にまで結びつけています[2]。なお前年の稲生の戦いのあとには、信勝・勝家・津々木蔵人が墨染めの衣で土田御前に伴われ清須で詫びを入れた、とも書かれています[3]。
異説や否定説
(1) 年がちがう。 図鑑は弘治3年(1557)としますが、『信長公記』は弘治4年霜月2日と書きます[2]。弘治4年は2月に永禄と改元されたので、実際は永禄元年(1558)11月2日です。弘治3年説は『寛政重修諸家譜』『享禄以来年代記』『織田家雑録』など江戸時代の編纂物に出るもの。谷口克広は、信勝本人が「武蔵守信成」名義で弘治3年11月25日付の判物を出している点を根拠に永禄元年説を採り、下村信博・柴裕之・池上裕子も同説で、今日ではこれが最有力です[6]。
(2) 動機も実行者もちがう伝えがある。 加賀藩でまとめられた『三壺聞書』は、勝家が信勝を「信長を亡ぼす器ではない」と見限って密談の中身を信長に告げた、と動機を別に書きます[4]。刺したのも河尻らではなく「松平新太郎・池田勝三郎」だとします[5]。『信長公記』側も、写本によって「河尻青貝」を二人と読むか一人と読むかが分かれ、「青貝」は他に事跡が伝わりません[6]。
(3) 密告そのものを否定する史料は見つかりませんでした。 ただし裏づける同時代の一次史料も見つかりません。首巻は信長の側近になる前の時期を伝聞でまとめた部分で、本編とは別物とされます[7]。
後世にどう語られたか
江戸時代を通じて「密告→帰参→忠臣」という筋が定着し、今の事典もそれを引き継いでいます。『日本大百科全書』は「信行の反逆に味方したが降伏し、再度の陰謀を信長に密告した」と簡潔に書きます[8]。
一方で、同じ行いを「裏切り」と見る声も記録されています。『三壺聞書』は、加賀にいた尾張出身の武士たちが「根本柴田権六、信行を亡し、信長へ附参らせんとはかり、残るものを謀叛人と反忠を致す所存のほどこそにくけれ」と悪口を言った、と伝えます[5]。「反忠(はんちゅう)」は寝返りのこと。「忠誠の原点」という評価は後世の一方の見方で、当時から真逆の見方もあったわけです。舞台の末森城は名古屋市千種区の城山八幡宮の境内が跡地で、市の案内も「信行が信長に謀殺されて以後は廃城となった」と記します[9]。
読者が次に抱く疑問
Q1. 結局いつ死んだの? 永禄元年(1558)11月2日が最有力です。決め手は、弘治3年11月25日付で信勝自身が文書を出していること。弘治3年11月2日に死んでいたら出せません[6]。
Q2. 勝家は本当に「信長第一の忠臣」になった? 越前一国を任されたのは事実です[2][8]。ただし『信長公記』はそれを密告の褒美として書いており、忠誠心の証明というより取引に近い書きぶりです[2]。
Q3. 「信勝」と「信行」はどちらが正しい? 同時代文書に残る実名は「信勝」「達成」「信成」で、「信行」は江戸時代の系図に出る名です[6]。図鑑が「信勝」を使うのは新しい研究に沿っています。
図鑑の記述への提案
- 年次を直す。「弘治3年(1557)」→「永禄元年(1558)11月2日」。『信長公記』の原文は「弘治四年戊午霜月二日」で、弘治4年=永禄元年です[2][6]。弘治3年説は江戸期の系譜類によると注記すると親切です。
- 区分を「史実」→「諸説あり」に。 密告の記事は『信長公記』首巻という編纂物1点にしか出ず、同時代の一次史料の裏づけがないためです[1][7]。
- 動機の書き方を改める。「主体的な鞍替え」より、原文どおり「津々木蔵人に軽んじられた無念から」と書き、「忠誠の原点」という評価は後世のものだと分けるほうが正確です[1][4][5]。
- 一文足すなら。「実行者は『信長公記』が河尻・青貝、『三壺聞書』は池田勝三郎らとし、細部は一致しない」[2][5]。
出典
- 信長公記 首巻(勘十郎殿御生害の記事)(首巻 廿五(丹羽兵蔵御忠節之事の直前))密告の記事の初出は『信長公記』首巻で、勝家の動機は津々木蔵人に軽んじられた「無念」だと書かれている。
「勘十郎殿御若衆に津々木蔵人とて在之御家中の覚の侍共は皆津々木に被付候に乗て奢(オゴリ)柴田権六を蔑如に持扱候柴田無念に存上総介殿へ又御謀叛思食立之由被申上候」
- 信長公記 首巻(信勝謀殺の日付・実行者・越前拝領)(首巻 廿五(勘十郎殿御生害の記事))『信長公記』は信勝の死を「弘治四年戊午霜月二日」とし、実行者を河尻・青貝、密告の功で勝家が後に越前を与えられたと記す。
「是より信長作病を御搆にて一切而へ無御出御兄弟之儀候間勘十郎殿御見舞可然と御袋様並柴田権六異見申に付て清洲へ御見舞に御出清洲北矢蔵天主次之間にて 弘治四年戊午霜月二日 河尻青貝に被仰付後生害なされ候此忠節仕候に付て後に越前大国を柴田に被仰付候」
- 信長公記 首巻十八 勘十郎殿林柴田御敵之事(首巻(十八)勘十郎殿林柴田御敵之事)稲生の戦いの後、信勝・勝家・津々木蔵人は墨染めの衣で土田御前に伴われ清須で信長に詫びを入れて赦免された。
「勘十郎殿柴田権六津々木蔵墨衣にて御袋様御同道にて於清洲御礼在之」
- 三壺聞書 巻之一(巻之一 信長公御舎弟武蔵守殿生害の事)『三壺聞書』は勝家の密告の動機を「信長を亡ぼす器ではない」と信勝を見限ったためとし、『信長公記』と異なる説明をする。
「其の後信行猶逆心止まず、信長を夜討にせんとの企也。爰に柴田勝家はつく〴〵信行の躰を見るに、信長を亡し給ふべき器に非ずと思ひ、密談の趣を信長へ返り忠をぞ致しける。」
- 三壺聞書 巻之一(実行者の異説と勝家への悪口)(巻之一 信長公御舎弟武蔵守殿生害の事)『三壺聞書』は信勝を刺したのを松平新太郎・池田勝三郎とし、尾張出身の武士が勝家の密告を「反忠」と悪口したことも伝える。
「頓て清洲へ御越し、御台所へ入り給ふを、松平新太郎・池田勝三郎廊下に在合せ、取つておさへ指殺しまゐらする。此の勝三郎法躰し勝入と申ける。武蔵守殿もの共方々へ立退き、所々に隠れ居たりける。後尾州衆加州にて物語致しけるは、根本柴田権六信行を亡し、信長へ附参らせんとはかり、残るものを謀叛人と反忠を致す所存のほどこそにくけれと悪口を致しけれ共」
- 織田信行 - Wikipedia(脚注(注釈1))信勝謀殺を弘治3年とするのは江戸期の編纂物で、判物の日付を根拠に永禄元年(1558)11月2日説が今日最有力とされる。
「『寛政重修諸家譜』や『享禄以来年代記』、『織田家雑録』などでは、信行暗殺を弘治3年(1557年)の出来事とするが、一方で『信長公記』は永禄元年の出来事であるとする。この点、『定光寺年代記』には信行(信勝)が永禄元年(1558年)3月に龍泉寺で築城を開始したとの記載もあり、谷口克広によれば、「武蔵守信成」(すなわち信行)が弘治3年11月25日付けで判物を発給していることから、殺害の日付は永禄元年(1558年)11月2日が正しいと考えられるという。」
- 信長公記 - Wikipedia(概要)『信長公記』の首巻は自筆本に含まれず本編とは別物とされ、全体としても二次史料と位置づけられる。
「自筆本である池田本には15巻にまとめた旨が記載されており、首巻は本編と別物と見られている。」
- 柴田勝家とは - コトバンク(日本大百科全書)(日本大百科全書(ニッポニカ)「柴田勝家」)事典類は「信行の反逆に味方したが降伏し、再度の陰謀を信長に密告した」という筋を通説として載せている。
「初め信長の弟信行に仕えた。信行の反逆に味方したが降伏し、再度の陰謀を信長に密告した。」
- 城山八幡宮・末森城址|千種区公式ウェブサイト(千種区史跡散策路 城山八幡宮・末森城址)信勝(信行)の居城だった末森城は、信勝が信長に謀殺された後に廃城となった。
「城は、信秀の死後は弟信行の居城となったが、信行が信長に謀殺されて以後は廃城となった。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。