〈柴田勝家〉稲生の戦いで信長と敵対した

『信長公記』首巻(十八)「勘十郎殿林柴田御敵之事」に明記。弘治2年(1556)8月24日、勝家は林兄弟と組んだ信勝方の大将の一人として約1,000人を率い(林美作守は約700人)、700人に満たない信長勢と稲生で戦って敗れた。戦後、母(土田御前)が使者を通じて詫びを入れ、信勝・勝家・津々木蔵人は墨衣で清洲に出て赦された。首謀者は林兄弟とされ、勝家は兵力の面での主力。信長第一の忠臣が「元・敵」だったことは動かぬ史実である。

検証リサーチ

「〈柴田勝家〉稲生の戦いで信長と敵対した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

史実。ほぼ同時代の『信長公記』首巻に、勝家が信勝方の大将として千人を率い稲生で信長と戦い、敗れて母の詫びで赦され墨衣で清洲に出たことまで一続きで書かれている。ただし首謀者は林兄弟。

くわしい根拠

結論 — 図鑑の「史実」区分は妥当

この逸話は「本当にあった話」です。根拠は、信長の側近だった太田牛一(おおたぎゅういち)が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』の首巻(しゅかん。信長の若いころを記した巻)に、出来事が一続きの記事として残っているからです[1][2]。後の時代の軍記物や小説ではなく、戦いからそう遠くない時期に書かれた記録に、勝家の名前がはっきり出てきます。

ただし細かく見ると、図鑑の本文には二つ直した方がよい点があります。一つは「土田御前の嘆願」という表現で、原文は「母が使いの者を立てて詫びた」という形です。もう一つは「勝家が主力」という書き方で、原文では兄弟の不和の首謀者は林(はやし)兄弟とされ、勝家は林兄弟と「申し合わせた三人」の一人です[3]。以下で順に説明します。

この話が最初に出てくる史料はなにか

初出は『信長公記』首巻の「勘十郎殿林柴田御敵之事(かんじゅうろうどの はやし しばた おんてきのこと)」という節です[1]。勘十郎とは信長の弟の信勝(のぶかつ。信行とも)のことで、節の題名そのものが「信勝・林・柴田が信長の敵になった話」という意味です。

この節には、次のことが順番に書かれています。

  • 信長の家老(かろう)である林佐渡守(はやしさどのかみ)とその弟の林美作守(みまさかのかみ)、そして柴田権六(ごんろく。勝家のこと)の三人が申し合わせて、信勝を立てようとしたこと[3]
  • 弘治2年(1556年)8月22日に信長が名塚(なづか)に砦(とりで)を築かせ、24日に戦いになったこと。柴田権六が約1,000人、林美作守が約700人を率いて出てきたこと[1]
  • 信長方は700人を超えなかったこと(原文は「信長の御人数七百には不可過」)[1]
  • 戦いで勝家が信長方の山田治部左衛門の首を取り、自分も傷を負って逃れたこと[3]
  • 戦後、信長の母(御袋様。土田御前のこと)が使いを立てて詫びを入れ、信勝・柴田権六・津々木蔵人(つづきくらんど)が墨衣(すみごろも。僧のような黒い衣)を着て母といっしょに清洲城へ出向き、お礼を述べたこと[2]

つまり、図鑑が書いている「敵対」「敗北」「赦免」「墨衣での出仕」は、すべてこの一つの節の中に根拠があります[1][2]。

稲生の戦いの兵力(『信長公記』の記述)(人)
信長方は「七百には不可過(700を超えない)」とあるので上限値。
出典: [1] 太田牛一『信長公記』首巻(十八)勘十郎殿林柴田御敵之事(Wikisource)

数字で見る稲生の戦い

『信長公記』が伝える兵力は、信長方が700以下、信勝方は勝家の約1,000人と林美作守の約700人で合わせて約1,700人です[1][5]。つまり信長は半分以下の兵で勝ったことになります。討ち取った首は「歴々(れきれき。名のある武士)四百五十余」と記されています[1][5]。

信長方が討ち取った首の数
450余
「歴々頸数四百五十余」。名のある武士の首だけでこの数。
出典: [1] 太田牛一『信長公記』首巻(十八)勘十郎殿林柴田御敵之事(Wikisource)

異説や否定説はあるか

この戦いそのものを「なかった」とする説は見当たりません。事典の記述も、勝家が「信行の反逆に味方したが降伏し」たとしています[7]。Wikipediaの記事も『信長公記』首巻を典拠に、勝家が1,000人を率いて戦い、敗れて土田御前の願いで赦免され、墨衣で清洲城に上ったと書いています[6]。

気をつけたいのは「誰が首謀者か」です。『信長公記』は「林兄弟か才覚にて御兄弟の御中不和となる也」、つまり「林兄弟の策略で兄弟の仲が悪くなった」と書き、勝家は三人のうちの一人として登場します[3]。勝家が「信勝方の大将として最大の兵を率いた」のは確かですが、「勝家が首謀して反乱を起こした」とまで読むのは言い過ぎです。図鑑の「信勝方の主力」という表現は、兵力の面では正しいものの、首謀者と誤解されないよう補足があるとよいでしょう。

24年後に残っていた「しこり」

この敵対が確かな出来事だったことは、後の記事からも裏づけられます。天正8年(1580年)、信長は家老の林佐渡守らを追放しました。『信長公記』巻十三はその理由を「先年、信長が困っていたときに野心を抱いたから」と記しています[4]。稲生の戦いから24年たっても、信長はこのときのことを忘れていなかったわけです。勝家はこの追放には含まれていません。信勝が翌年にもう一度謀反を企てたとき、勝家が信長に知らせたことが大きかったと事典は説明しています[7]。

後世にどう語られたか

「信長第一の忠臣が、じつは元・敵だった」という語り方は、近代以降の評伝や歴史読み物でよく使われる切り口です。ただし、その中身は『信長公記』の記事をほぼそのままなぞったもので、大きな脚色は見当たりません。現地では名古屋市西区名塚町の庚申塚(こうしんづか)が古戦場跡として伝えられ、市の観光サイトも「この戦の勝利で尾張統一に大きく踏み出した」と位置づけています[8]。

読者が次に抱く疑問

なぜ勝家は許されたのか。 原文を読むかぎり、母の詫びが決め手でした。信長は弟・勝家・津々木蔵人の三人をまとめて赦しており、勝家だけが特別扱いされた形跡はありません[2]。林佐渡守については「本来なら召し出すべきでないが、前に信長を討てる場面で助けたことを思い出して赦した」という別の理由が添えられています[2]。

勝家はその後どうして重臣になれたのか。 事典によれば、翌年の信勝の再謀反を信長に密告したことが転機です[7]。図鑑の別の逸話(信勝の再謀反を密告した)と一続きの流れとして読むとわかりやすいでしょう。

「土田御前」という名は原文にあるのか。 ありません。原文は「御袋様(おふくろさま)」で、信長の母という意味です[2]。土田御前という呼び名は後の系図や研究で使われるもので、人物としては同じです。図鑑で「土田御前」と書くのは問題ありませんが、「原文では母としか書かれていない」と知っておくと誤解がありません。

図鑑の記述への提案

  • 区分は「史実」のままでよい
  • 「土田御前の嘆願で赦免された」→「母(土田御前)が使者を通じて詫び、赦免された」
  • 「信勝方の主力として」→「林兄弟と組んだ信勝方の大将の一人として(勝家約1,000・林約700)」。首謀者は林兄弟である旨を一言添える
  • 出典を「『信長公記』首巻(十八)勘十郎殿林柴田御敵之事」と節名まで示す

出典

  1. 太田牛一『信長公記』首巻(十八)勘十郎殿林柴田御敵之事(Wikisource)(首巻(十八)勘十郎殿林柴田御敵之事)
    弘治2年8月24日、柴田権六(勝家)は約1,000人、林美作は約700人を率いて出陣し、信長方は700を超えない兵力で稲生で戦った。
    「柴田権六人数千計林美作勢衆七百計引卒して罷出候」
  2. 太田牛一『信長公記』首巻(十八)勘十郎殿林柴田御敵之事(Wikisource)— 赦免の記事(首巻(十八)末尾)
    戦後、信長の母(御袋様)が使者を立てて詫び、赦免された信勝・柴田権六・津々木蔵人は墨衣で母とともに清洲に出て御礼をした。
    「御袋様の御使として色々様々御侘言にて御故免なされ勘十郎殿柴田権六津々木蔵墨衣にて御袋様御同道にて於清洲御礼在之」
  3. 太田牛一『信長公記』首巻(十八)— 不和の首謀者と勝家の戦闘(首巻(十八))
    同書は兄弟不和の原因を林兄弟の才覚(画策)とし、勝家は林兄弟と申し合わせた三人の一人。稲生では勝家が山田治部左衛門の首を取り、自身も負傷した。
    「林兄弟か才覚にて御兄弟の御中不和となる也」
  4. 太田牛一『信長公記』巻十三(十一)佐久間林佐渡丹羽右近伊賀〻〻守事(Wikisource)(巻十三(十一))
    天正8年(1580)、信長は林佐渡守らを追放し、その理由を「先年信長が困窮した折に野心を含んだため」と記す。稲生の敵対は24年後も覚えられていた。
    「京都に而御家老 林佐渡守 安藤伊賀父子 丹羽右近 遠国へ被追失子細は先年 信長公御迷惑の折節含野心申之故也」
  5. 稲生の戦い - Wikipedia(冒頭)
    戦いは弘治2年8月24日(1556年9月27日)、尾張国春日井郡稲生郷(現・名古屋市西区)で起きた織田信長と弟信行(信勝)の家督争いである。
    「稲生の戦い(いのうのたたかい)は、弘治2年8月24日(1556年9月27日)に、尾張国春日井郡稲生郷(現在の名古屋市西区)で起きた戦いである。」
  6. 柴田勝家 - Wikipedia(「生涯」節)
    勝家は信勝擁立を林秀貞と画策し、1,000人を率いて信長と戦って敗れ、土田御前の願いで赦免され、墨衣で清洲城に上ったと『信長公記』首巻を典拠に記す。
    「弘治2年(1556年)8月に勝家は1,000人を率いて戦うが、信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。この時、信長・信勝兄弟の生母土田御前の強い願いで赦免され、信勝・勝家・津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田御前とともに信長に礼を述べている(『信長公記』首巻)。」
  7. 柴田勝家 — 日本大百科全書(ニッポニカ)/コトバンク(日本大百科全書「柴田勝家」冒頭)
    事典記述でも、勝家は初め信行に仕え、信行の反逆に味方して降伏し、のち再度の陰謀を信長に密告したとされる。
    「初め信長の弟信行に仕えた。信行の反逆に味方したが降伏し、再度の陰謀を信長に密告した。」
  8. 庚申塚(稲生原古戦場跡)— なごや英傑 聖地巡礼(名古屋市観光)(ページ本文)
    古戦場は名古屋市西区名塚町の庚申塚として伝えられ、この勝利が信長の尾張統一への大きな一歩と位置づけられている。
    「弟信行軍と戦ったと伝わる稲生原の合戦跡 信長はこの戦の勝利で尾張統一に大きく踏み出した。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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