〈伊達政宗〉疱瘡で右目を失明した
幼少期(5歳頃)に疱瘡(天然痘)を患い右目を失明したことは『貞山公治家記録』等に基づく通説で、失明の事実と原因はほぼ確実。「修験僧・万海上人の生まれ変わりで、上人が隻眼だったため」という出生譚は生前から流布した貴種伝承である。
検証リサーチ
「〈伊達政宗〉疱瘡で右目を失明した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
右目失明は遺骨からも裏づけられた史実。ただし「疱瘡が原因」の根拠は本人晩年の語りと『性山公治家記録』で、同時代の一次史料ではない。万海上人譚は生前からの伝説。
くわしい根拠
結論
「政宗の右目が見えなかった」ことは、遺骨という物証まである史実です[2][5]。原因が幼いころの疱瘡(天然痘=ほうそう)だという点も、政宗本人が晩年に語った言葉と、仙台藩の公式記録が一致していて、ほぼ確実といえます[1][3]。区分「史実」は妥当です。
ただし根拠の書名には注意が必要です。この一節を載せる記録として引かれるのは、政宗自身の記録『貞山公治家記録』ではなく、父・輝宗の記録『性山公治家記録』です[1]。しかも『伊達治家記録』は政宗の死後に仙台藩が編んだ「編纂史料」(あとから資料を集めて作った記録)で、同時代の書状や日記ではありません[8]。いっぽう「万海(満海)上人の生まれ変わり」は伝説です。ただし政宗の生前から語られていたことは研究で確かめられています[9]。
この話が最初に出てくる史料
いちばん本人に近いのは、政宗が晩年に側近へ語った言葉です。霊屋(おたまや)を管理する瑞鳳殿は、政宗が家臣に「生まれつきではない。成長して疱瘡を煩い、目に悪瘡が入ってこのようになってしまったのだ」と語ったと紹介しています[3]。政宗の言行を側近が書き留めた聞き書きは、『伊達政宗言行録(木村宇右衛門覚書)』として翻刻・刊行されています[7]。
次が仙台藩の公式記録です。『性山公治家記録』には「疱瘡ヲ患ヒシ時余毒御目ニアツマリテソレヨリ右ノ方盲イタマイシナリ」(疱瘡にかかったとき、残った毒が目に集まり、それから右目が見えなくなった)とあります[1]。ただし『伊達治家記録』は編纂史料であり、その信憑性(どこまで信じられるか)自体が研究論文の主題になっています[8]。
つまり「疱瘡で右目を失明した」と書いた同時代の一次史料(政宗自身の書状など)は、今回の調査では確認できませんでした。根拠は「本人の晩年の語り」と「後世の編纂記録」の二段構えだ、と理解するのが正確です。
異説や否定説
失明そのものを否定する説は見あたりません。むしろ物証が増えました。1974年の墓室発掘では、頭骨の眼窩(がんか=目のくぼみ)に損傷が見つからず、この時点では隻眼であることを骨から証明できませんでした[1][3]。ところが2019年に国立科学博物館が調べ直すと、眼窩の高さに左右で2.5mmの差があり、右側だけ成長が止まっていたとわかりました[2]。
病気にかかった年齢には幅があります。瑞鳳殿は「5歳くらい」[3]、仙台市博物館は元亀3年(1572)に6歳で虎哉宗乙を師に迎えた「この頃」と書きます[4]。「5歳」と断定できる同時代の記録はありません。
「家臣の片倉小十郎が飛び出した眼球をえぐった」という有名な話は、藩や家中で後に書かれた記録類に見える伝えで、同時代史料の裏づけは今回確認できませんでした。瑞鳳殿は失明の原因を「軟部疾病」(やわらかい組織の病気)と説明しており、外傷(けが)が原因という見方は骨の所見からは支持されていません[1]。
後世にどう語られたか
「独眼竜」は中国・唐末の李克用の異名を借りた呼び名で、のちに政宗の通称として定着しました[5]。政宗自身は「親からもらった体を欠いたのは親不孝だ」と考え、肖像画には右目も描くように語ったと伝わります[4]。事典も「死後造る肖像には両眼をそなえよと遺言したという」と記します[5]。政宗の像や絵の多くが両目なのはこのためです。
万海(満海)上人の話は、隻眼の行者が母の夢に現れて生まれ変わったという貴種伝承(えらい人の生まれを神秘的に語る話)です。慶長19年(1614)ごろには知られていました[9]。小林清治はこれを「誕生伝説考」として検討し、「政宗の『独眼竜』と虎哉宗乙」という論考も残しています[6]。
読者が次に抱く疑問
Q1. 眼帯はしていたの? — 今回参照した博物館・霊屋・事典の解説の範囲では、政宗が目を覆っていたという説明は見あたりませんでした。刀の鍔(つば)の眼帯は近代の映像作品で広まったイメージだ、と説明されることが多い点だけ押さえておくとよいでしょう。
Q2. なぜ肖像画は両目なのか? — 政宗自身の希望(右目も描け)に沿ったためと伝えられます[4][5]。
Q3. 万海上人は実在したの? — 実在を一次史料で確かめる材料は、今回は見つかりませんでした。伝説として扱うのが安全です[9]。
図鑑の記述への提案
- 区分「史実」はそのままで妥当です。ただし「万海上人の生まれ変わり」の一文が伝説であることを、本文中でもう一段はっきり書くとよいと思います[9]。
- 「『貞山公治家記録』等に基づく」→「『伊達治家記録』のうち父・輝宗の『性山公治家記録』に基づく」と直すことを提案します[1]。
- 「幼少期(5歳頃)」→「幼少期(5〜6歳頃)」と幅を持たせるのが安全です[3][4]。
- 「失明の事実と原因はほぼ確実」の根拠に、2019年の頭骨調査(眼窩高の左右差2.5mm)を加えると、記述がぐっと強くなります[2]。
- 表記は「万海上人」と「満海上人」の両方が使われるので、注記があると親切です[9]。
- 可能なら「同時代の一次史料ではなく、本人の晩年の語りと後世の編纂記録による」という一言を添えると、読者の誤解を防げます[7][8]。
図表
出典
- フォトギャラリー(伊達政宗復元容貌像 解説)|公益財団法人 瑞鳳殿(フォトギャラリー 解説「伊達政宗復元容貌像(1975〜)」)1974年の発掘では頭骨の眼窩に損傷がなく隻眼を骨から証明できなかったこと、失明は軟部疾病によるもので『性山公治家記録』に疱瘡の余毒で右目が見えなくなったと記されることを、政宗の霊屋を管理する瑞鳳殿が解説している。
「なお、発掘まもなくの調査では頭蓋骨眼窩部には損傷は見られず、政宗が隻眼であったことを証明することはできなかったため、この容貌像では両眼が備わった姿で復元されている。これは軟部疾病が原因での失明によるもので、『性山公治家記録』には、「疱瘡ヲ患ヒシ時余毒御目ニアツマリテソレヨリ右ノ方盲イタマイシナリ」と記されている。」
- フォトギャラリー(伊達政宗頭骨模型 解説)|公益財団法人 瑞鳳殿(フォトギャラリー 解説「伊達政宗頭骨模型」(頭骨の調査))2019年の国立科学博物館の調査で眼窩高に左右2.5mmの差が見つかり、政宗が隻眼であったことが頭骨からも裏づけられた。
「2019年の国立科学博物館による調査の結果、眼窩高に左右で2.5mmの差がある事が判明した。左眼窩が通常の成長過程を経た一方、右眼窩は失明によって成長が止まったために、生じた差と考えられる。この結果により、伊達政宗が隻眼であった事が頭骨からも証明された。」
- 感染症に打ち勝った伊達政宗公|瑞鳳殿 学芸員ブログ(本文(2020年5月24日付))政宗自身が晩年に家臣へ「生まれつきではなく疱瘡で目に悪瘡が入った」と語ったと伝えられ、感染は5歳くらいの頃とされる。
「仙台藩祖 伊達政宗公も天然痘に感染しました。晩年、家臣の一人に自らこんなふうに語っています。「(私の目が見えないのは)生まれつきではない。成長して疱瘡を煩い、目に悪瘡が入ってこのようになってしまったのだ。」まだ幼名「梵天丸(ぼんてんまる)」を名乗っていた5歳くらいの頃に感染しました。」
- 主な収蔵品 11 伊達政宗に関する資料(1)|仙台市博物館(1 政宗誕生 戦国武将への道のり/梵天丸から政宗へ)仙台市博物館は、元亀3年(1572)に6歳の梵天丸が虎哉宗乙を師に迎えた「この頃」に疱瘡で右眼を失明したとし、政宗が肖像画に右眼を描くよう語ったと伝わるとする。
「しかし、この頃梵天丸は、疱瘡(天然痘)のために右眼を失明してしまいました。のちに政宗は、親から授かった身体の一部を欠いたことを親不孝と考え、肖像画の制作にあたっては、右眼を描くように、と語ったといいます。」
- 独眼竜とは|コトバンク(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・世界大百科事典)(世界大百科事典(旧版)内の独眼竜の言及【伊達政宗】より)事典類は、政宗が幼少のころ右眼を失明して「独眼竜」と呼ばれたこと、死後の肖像には両眼をそなえよと遺言したと伝えること、1974年の調査で身長159.4cmと判明したことを記す。
「幼少のころ右眼を失明し,長じては〈独眼竜〉と畏敬されたが,死後造る肖像には両眼をそなえよと遺言したという。1974年瑞鳳殿(戦災で焼失)の再建工事に際して行われた調査によれば身長159.4cm,同時代の日本人の平均を示し,面長で鼻すじの通った貴族的な容貌をうかがわせ,手足は骨太であった。」
- 小林清治『伊達政宗の研究(新装版)』目次|吉川弘文館(目次 Ⅰ=戦国大名(A5・490ページ、2017年6月14日))政宗研究の第一人者・小林清治の研究書には、誕生にまつわる伝説を検討した「誕生伝説考」と、隻眼の呼称を扱った「政宗の『独眼竜』と虎哉宗乙」が収められている。
「Ⅰ=戦国大名(誕生伝説考〈伝説/伝説の検討/その歴史的意義〉/政宗の「独眼竜」と虎哉宗乙〈独眼竜/虎哉宗乙/蓋世の志気〉」
- 伊達政宗言行録:木村宇右衛門覚書(小井川百合子編、新人物往来社、1997)|国立国会図書館サーチ(書誌情報(請求記号 GK43-G7、329p))政宗の言葉を側近が書き留めた『木村宇右衛門覚書』は、『伊達政宗言行録』として翻刻・刊行されている。
「タイトル伊達政宗言行録 : 木村宇右衛門覚書タイトルよみダテ マサムネ ゲンコウロク : キムラ ウエモン オボエガキ」
- 渡邊洋一「『伊達治家記録』の史料性について:編纂史料の信憑性を考える」|国立国会図書館サーチ(『経営法学論集』5巻1号 p.105-131)『伊達治家記録』は編纂史料であり、その信憑性そのものが学術的な検討対象になっている。
「『伊達治家記録』の史料性について : 編纂史料の信憑性を考える資料種別記事著者渡邊, 洋一出版者東北文化学園大学経営法学部」
- 伊達政宗|Wikipedia(政宗の転生伝説)(「政宗の転生伝説」節(典拠:小林清治「伊達政宗誕生伝説考」『仙台郷土研究』18巻4号、1958年))政宗が隻眼の行者・満海上人の生まれ変わりだという伝説は、政宗の生前、遅くとも慶長19年(1614年)には知られていた。
「伊達政宗が隻眼の行者・満海上人の生まれ変わりであるという伝説は、政宗の存命中の慶長末年のころ、遅くとも慶長19年(1614年)には知られていた。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。