〈河尻秀隆〉武田信勝を介錯した

後世の軍記・講談由来。『信長公記』『甲乱記』では信勝は天正10年3月11日に田野で父勝頼らとともに自害し、追撃の主体は滝川一益の部隊。『落穂集』等は追撃に秀隆の軍勢も加わったと記すが、秀隆本人が介錯・処断したことを示す一次史料はない。「甲斐国主となった秀隆」と「武田家最後の当主」を結びつけた後世の付会とみるべき。

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