〈教如〉東西分裂は家康の分断策だった

「本願寺の力を削ぐための家康の謀略」は江戸期以来の俗伝で、分断を明確に意図したと記す史料はない。現在の学界・真宗大谷派の主流は内部対立帰結説——大坂拘様(1580)以来教団は事実上分裂しており、退隠後の教如は御影・消息の下付など宗主同然の活動を続け、三河三ヶ寺の教如支持誓約(1597)もあった。寺地寄進は「既成事実の追認」に近く、『宇野新蔵覚書』の正信発言自体が「すでに2本」との認識を前提にしている。顕如ページの判定と整合。なお「分裂で本願寺は弱体化した」という通説にも、平和的独立がむしろ両本願寺の宗政を安定させたとする再評価がある。

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