〈内藤昌豊〉父・虎豊は諫言で誅殺され、遺児は流浪した

「信虎=暴君が忠臣を殺し、信玄=名君が遺児を拾った」という美談の初出は『甲陽軍鑑』系の記述で、一次史料の裏付けは皆無。永正5年(1508)に信虎に敗れて伊勢宗瑞を頼った「工藤殿」を虎豊とみる説(平山優氏)に立てば、工藤氏は「敗れた反乱勢力」となり、話の構図は一変する。信虎を悪玉化する軍鑑の編集方針の文脈で読むべき逸話。

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