〈大谷吉継〉白頭巾で顔を覆っていた
ドラマでおなじみの白頭巾姿は、江戸中期頃までの逸話集には見えない。『関ケ原合戦誌記』『関原軍記大成』などの軍記が広めたイメージで、同時代史料に容貌を覆っていたという記録はない。
検証リサーチ
「〈大谷吉継〉白頭巾で顔を覆っていた」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
伝説。顔の覆いは同時代史料になく、初出は江戸中期の軍記『関原軍記大成』。しかもそこでの色は白ではなく浅葱で、白いのは蝶紋の鎧直垂のほう。
くわしい根拠
結論
区分「伝説」でよい。ただし理由を三つに分けると、もっと正確になる。
- 顔を覆っていたという話そのものが、関ヶ原と同じころの記録(同時代史料)に見あたらない。詳しく書くのは江戸中期の軍記(合戦を物語ふうにまとめた本)である [1][6]。
- その軍記が書く覆いの色は「白」ではない。「浅葱(あさぎ=うすい青緑)」である。白いのは顔の覆いではなく、蝶(ちょう)を描いた鎧直垂(よろいひたたれ=よろいの下に着る服)のほうである [5]。
- いっぽうで、病気そのものと「乗り物に乗って指揮した」ことは、同時代の記録で確かめられる [2][3][8]。
つまり「病気は事実 → 顔の覆いは後世の軍記 → 色の『白』はさらにあとの単純化」という三段になっている。
この話が最初に出てくる史料
同時代史料に覆面の記述はない。徳川家康の医者だった板坂卜斎(いたさかぼくさい)の『慶長年中卜斎記』は、「刑部煩にて盲目なれバ合戦場へ乗物にて出」と、目が見えないので乗り物で戦場に出たことだけを書き、顔の覆いには触れない。この一節は外岡慎一郎(元敦賀市立博物館長)の講演録が引用している(『福井県文書館研究紀要』14号、2017年3月、1〜17頁 [5]。全文PDF: https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615578.pdf )。
出で立ちを細かく書くのは、江戸中期の軍記『関原軍記大成』である。著者の宮川忍斎(みやがわにんさい)は1655〜1716年の人で、関ヶ原から100年ほどあとの編纂物(あとの時代にまとめた本)にあたる [6]。同じ講演録によれば、そこには「吉隆(吉継)は其日、肌には練衣の二つ小袖、上には白布に村(群)蝶を墨にて書きたる鎧直垂を着て、朱の佩楯に朱の頬楯して、甲冑をばよろはず、浅葱の絹の袋に顔さしいれて、頬楯の下にて緒を結い、四方取放したる乗物に乗って、近習の兵士に舁かせたり」とある [5]。顔に入れたのは「浅葱の絹の袋」で、白いのは鎧直垂のほうである。
図鑑があげるもう一つの『関ヶ原合戦誌記』も、国立公文書館内閣文庫が伝える27巻15冊の写本で、昌平坂学問所の旧蔵書である [7]。やはり江戸時代の編纂物で、同時代史料ではない。
異説や否定説
色についての異説。 いちばん古い詳しい記述が「浅葱」である以上、「白」は史料の裏づけを欠く。敦賀市立博物館が所蔵する「関ヶ原合戦図屏風」(安政元年=1854年、菊池容斎筆)でも、吉継は「頭巾姿」と説明されるだけで、白とは書かれていない [4]。
話そのものへの疑問。 歴史学者の渡邊大門も、白頭巾の話は「『関ヶ原合戦誌記』、『関ヶ原軍記大成』などの軍記物語に書かれたもので…ただ、それが事実か否かは疑問がないわけではない」と留保する [1]。
病名は未確定。 同時代史料が書くのは病名ではなく症状である。天正14年(1586)2月の大坂の千人斬り騒動を記す『顕如上人貝塚御座所日記』に、大谷紀之介(吉継)が「悪瘡(あくそう)に悩んでいた」とある [2]。文禄3年(1594)の直江兼続あて黒印状では、草津での湯治で体調が回復したことを伝え、目が悪くて花押(サイン)を書けず黒印で済ませた非礼をわびている [3]。『日本大百科全書』も「ハンセン病で目が見えず、駕籠に乗って戦闘を指揮したと伝える」と、伝聞のかたちで結んでいる [8]。
「白」の別のみなもと。 吉継自身の号は「白頭(はくとう)」である。外岡慎一郎『大谷吉継』(戎光祥出版、2016年)は「紀之介白頭の署名」「『白頭』署名復活の意味」という節を立てている [9]。頭巾が「白」と語られる背景にこの号が重なった可能性はあるが、史料でつながりが示されたわけではない。断定はできない。
後世にどう語られたか
江戸中期の軍記が出で立ちを描く(『関原軍記大成』)→ 幕末の絵師がそれをもとに絵にする(1854年の屏風。外岡は容斎が軍記を根拠に描いた可能性を指摘する [5][4])→ 近代以降の小説・ドラマ・漫画で「白頭巾」として定着、という流れである。渡邊大門は「吉継と言えば、ドラマなどで白頭巾を被った姿で描かれることが多い」と書く [1]。信頼できる肖像画は残っていない。
読者が次に抱く疑問
Q1. 「浅葱」ってどんな色? うすい青緑である。ただし、そう書く『関原軍記大成』も、浅葱の頭巾を描く屏風も江戸時代の作品なので、これも実際の色の証拠にはならない。「白ではなく浅葱が正しい」ではなく、「いちばん古い記述でも白ではない」という意味である。
Q2. 病名はハンセン病で確定? 確定していない。同時代史料は「悪瘡」「目が悪い」までしか書かない [2][3]。事典も「伝える」と留保する [8]。
Q3. 輿や駕籠に乗っていたのは本当? こちらは覆面より根拠が古い。卜斎記が「乗物にて出」と書き [5]、事典類も駕籠・輿に乗って指揮したとする [8]。ただし輿か駕籠かは本によって違う。
図鑑の記述への提案
区分「伝説」は妥当。本文は次の4点を直すと精度が上がる。
- 「白」を明示的に否定する。『関原軍記大成』の顔の覆いは「浅葱の絹の袋」で、白いのは鎧直垂のほうである [5]。ここが今の本文でいちばん抜けている。
- 「江戸中期頃までの逸話集には見えない」は誤解を招く。『関原軍記大成』自体が江戸中期の作(宮川忍斎、1655〜1716)[6]。「同時代史料になく、江戸中期の軍記が初出」と書き分けたい。
- 病気そのものは同時代史料で確認できる、と一文足す [2][3]。「同時代史料に容貌を覆っていたという記録はない」という現行の書き方は正しいが、病気まで疑わしいと読まれかねない。
- 書名の表記。 図鑑は『関ケ原合戦誌記』。国立公文書館の目録は『関ヶ原合戦誌記』である [7]。
修正案(例):「ドラマでおなじみの白頭巾姿は、関ヶ原と同時代の記録には見えない。顔の覆いを詳しく書くのは江戸中期の軍記『関原軍記大成』(宮川忍斎、1655〜1716)などで、しかもそこでの色は白ではなく浅葱(うすい青緑)。白いのは蝶を描いた鎧直垂のほうである。ただし病気そのものは、天正14年(1586)の『顕如上人貝塚御座所日記』や文禄3年(1594)の直江兼続あて書状で確かめられ、乗り物に乗って指揮したことも近い時代の記録にある。」
出典
- 渡邊大門「大谷吉継は眼病を治すため、本当に千人斬りを行ったのか?真相を探る。」Yahoo!ニュース エキスパート(2024年12月13日)(本文前半)白頭巾の姿は『関ヶ原合戦誌記』『関ヶ原軍記大成』などの軍記物語に書かれたもので、事実かどうかは疑問が残ると歴史学者が述べている。
「吉継と言えば、ドラマなどで白頭巾を被った姿で描かれることが多い。その理由は、今でいうハンセン病だったからだといわれている。病名の特定はさておき、吉継が眼病を患っていたのは事実である。吉継は顔を隠すため、白頭巾を被っていたという。 それは『関ヶ原合戦誌記』、『関ヶ原軍記大成』などの軍記物語に書かれたもので、『関ヶ原合戦図屏風』でも白頭巾姿で描かれている。ただ、それが事実か否かは疑問がないわけではない。」
- 渡邊大門「大谷吉継は眼病を治すため、本当に千人斬りを行ったのか?真相を探る。」Yahoo!ニュース エキスパート(2024年12月13日)(本文中ほど(千人斬り騒動の段))同時代の日記『顕如上人貝塚御座所日記』の天正14年(1586)2月の記事に、大谷紀之介(吉継)が「悪瘡」に悩んでいたと記されている。
「天正14年(1586)2月、千人斬りの騒動が起こった(『顕如上人貝塚御座所日記』)。記事によると、大谷紀之介(吉継)は、悪瘡に悩んでいたという。そこで、千人を殺害して、その血を舐めると病が治るので、人に命じて行わせていた。むろん、それは迷信の類である。」
- 「義の武将 大谷吉継 実像迫る 生誕460年 敦賀市立博で記念展」福井新聞(若狭湾観光連盟サイト掲載、2025年7月22日)(記事後半(企画展「拝啓、四百六十の君へ」の展示紹介))文禄3年(1594)の直江兼続あて黒印状は、草津での湯治と、目が悪く花押を書けなかったことを伝える同時代の一次史料である。
「豊臣政権の有力大名だった上杉景勝の重臣直江兼続に吉継が送った文禄3(1594)年の黒印状は、草津での湯治で体調が回復したことを知らせる内容。目の状態が悪くて、花押(サイン)を書くべきところ黒印で済ませてしまった非礼をわびる文面で、吉継の心遣いが見て取れるという。」
- 敦賀市立博物館 収蔵品データベース[ID:273]関ヶ原合戦図屏風(資料情報/解説)敦賀市立博物館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」(安政元年=1854年、菊池容斎筆)で吉継は「頭巾姿」と説明され、白とは記されていない。
「慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦が描かれている。主に右隻は西軍、左隻は主に東軍の陣を配しているが、敦賀城主・大谷吉継は右隻中央に頭巾姿で表されている。金箔地に極彩色を施し、金砂子を蒔くなど、重厚で華麗な作品に仕上げられている。」
- 福井県文書館研究紀要(刊行物一覧)(第14号の目次行(本文PDFは https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615578.pdf 、「1.描かれた吉継」「2.記しのこされた吉継」))外岡慎一郎の講演録「乱世に義を貫く-名将大谷吉継の実像-」は『福井県文書館研究紀要』第14号(2017年3月)1〜17頁に収録されており、同館サイトで全文PDFが公開されている。
「◆第14号(2017年3月)講演録乱世に義を貫く -名将大谷吉継の実像-外岡慎一郎1~17論文越前に出された秀吉の禁制藤井讓治19~32」
- 関原軍記大成 1(国史叢書)|みなサーチ|国立国会図書館(書誌情報)『関原軍記大成』の著者は宮川忍斎(1655-1716)で、江戸中期の編纂物である(大正5年に国史研究会が翻刻)。
「著者標目宮川, 忍斎, 1655-1716黒川, 真道, 1866-1925出版事項東京 : 国史研究会出版年月日等大正5」
- [簿冊]「関ヶ原合戦誌記」(168-0150)国立公文書館デジタルアーカイブ(目録詳細/基本情報)『関ヶ原合戦誌記』は国立公文書館内閣文庫が伝える27巻15冊の写本で、昌平坂学問所の旧蔵書である(江戸時代の編纂物)。
「簿冊標題関ヶ原合戦誌記請求番号168-0150記述レベルfile旧蔵者昌平坂学問所書誌事項写本:::数量15冊巻数27巻利用制限の区分公開言語日本語」
- 大谷吉継(日本大百科全書ほか)|コトバンク(日本大百科全書(ニッポニカ))標準的な事典も、病名と「駕籠に乗って戦闘を指揮した」ことを「伝える」と伝聞で記し、顔を覆っていたことには触れていない。
「終始よく戦ったが、寝返りをした小早川秀秋(こばやかわひであき)の大兵に側背から攻撃を受け、奮戦のすえ陣没した。ハンセン病で目が見えず、駕籠(かご)に乗って戦闘を指揮したと伝える。」
- シリーズ・実像に迫る002 大谷吉継(外岡慎一郎著、戎光祥出版、2016年10月)(【目次】第二章・第三章)吉継は「白頭」という号を書状の署名に用いており、最新の研究書はその署名を独立した節で扱っている。
「第二章秀吉の傍らで山伏姿の大谷慶松/紀之介白頭の署名/「大谷刑部」となる/厳島神社で詠んだ和歌/秀吉配下の武将たちにみせた心遣い/小田原出陣と忍城攻め/奥羽仕置と吉継の「邪政」/朝鮮侵攻と吉継/明との講和交渉第三章病との共生、そして関ヶ原草津湯治と吉継の病」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。