〈黒田官兵衛〉竹中半兵衛と並ぶ「二兵衛(両兵衛)」

同時代史料に両者を「軍師」として併称した例はない。そもそも戦国期に「軍師」という職制は存在しなかった(中野等氏)。併称は江戸期の軍記・逸話集で智謀譚が増幅され、講談や明治以降の伝記で定着した近世後期以降の呼称。二人の同陣期間も播磨攻めの約1年半程度と短い。

検証リサーチ

「〈黒田官兵衛〉竹中半兵衛と並ぶ「二兵衛(両兵衛)」」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 92 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

伝説に近い。『信長公記』に二人の並記はあるが「軍師」も「二兵衛」もなく、併称は近現代の歴史読み物で広まった呼び名。

くわしい根拠

結論

「二兵衛(両兵衛)」という呼び名そのものは、戦国時代の同時代史料(その時代に書かれた記録)には見つかりません。図鑑の区分「伝説」は妥当です[6][9]。

ただし一点、図鑑の書き方は精密にしたほうがよいところがあります。同時代史料『信長公記』には、二人が秀吉の配下として並んで記される箇所が実際にあるからです[1]。並記そのものは史実で、「軍師として併称されていない」のが正確な言い方になります。

そして『信長公記』で竹中半兵衛につく肩書は「与力(よりき=上位の武将に付けられた補佐役)」であって、「軍師」ではありません[2]。全文を調べると「軍師」の語は0回、「両兵衛」も0回でした(本稿で数えた)

『信長公記』全文にあらわれる語の回数(本稿で数えた)(回)
ウィキソース版『信長公記』全文をテキスト化して語を数えた結果。「二兵衛」は1回出るが相撲取り「綾井二兵衛尉」の名であり、二人の併称ではない。
出典: [1] 信長公記 巻十(十二)但馬播磨羽柴被申付事(ウィキソース)

。

この話が最初に出てくる史料

同時代史料『信長公記』巻十に、天正5年霜月(11月)廿七日の上月城攻めの記事があります。そこに「小寺官兵衛」(=黒田孝高)と「竹中半兵衛」が並んで書かれています[1]。ただし二人まとめての呼び名も、「軍師」の語もありません。

同じ『信長公記』は、半兵衛の死をこう記します。「羽柴筑前与力に被仰付候竹中半兵衛播州御陣にて病死候」[2]。つまり同時代の公式な位置づけは「秀吉に付けられた与力」です。

一方「軍師」という言葉自体は、『精選版 日本国語大辞典』が挙げる古い用例が浄瑠璃『信州川中島合戦』(1721年)や滑稽本『浮世風呂』(1809〜13年)で、いずれも江戸時代の芝居・読み物です[5]。戦国期の職名として使われた語ではないことが、辞書の用例からもうかがえます。

異説や否定説

事典類は、二人の「軍師」像を史実ではなく俗説として扱っています。『日本大百科全書』は半兵衛について「俗説では領土欲なく、軍師に徹した人物と評される」と書きます[3]。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は、はっきり「後世講談などで軍師として名だかい」とします[4]。

有名な「半兵衛が官兵衛の子(松寿丸)をかくまった」話も、『山川 日本史小辞典』は「これをひそかにかくまった逸話がある」と、逸話として紹介します[4]。二人の智謀を語る話の多くが、事典の水準ですでに「俗説」「逸話」と仕分けされている、ということです[3][4]。

なお、二人が同じ陣で働いた事実そのものを否定する説は見当たりません。『信長公記』の並記[1]や、半兵衛が信長に直接報告して銀子を与えられた記事[2]があるとおり、同時期に秀吉のもとにいたのは確かです。争点は「軍師という職として並び称されたか」と「二兵衛という呼び名がいつ生まれたか」の二つに絞られます。

図鑑が引く中野等氏には、学術的な評伝『黒田孝高』(人物叢書、吉川弘文館、2022年9月)があります[7]。図鑑本文で氏の名前を出すなら、この書名を添えると読者が確かめられます。

後世にどう語られたか

近代の大衆小説では、二人を組にする見方がはっきり出ます。吉川英治『黒田如水』は「軍師竹中半兵衛と智襄黒田官兵衛」と書き、半兵衛を「官兵衛孝高とともに、秀吉の双璧といわれ」と評します[8]。ただし注意したいのは、この小説の全文に「両兵衛」「二兵衛」の語は一度も出てこないことです(本稿で全文検索)。

では「二兵衛」という語はいつ広まったのか。国立国会図書館サーチで「二兵衛」を検索すると、二人の併称として使う資料は、確認できる範囲で1988年の雑誌記事「二兵衛の友情と高松城(下)」や、2013年の『歴史REAL』(洋泉社)の特集「戦国最強の軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛 : 秀吉を天下人にした「二兵衛」の智略と激烈なる生涯を追う!」など、昭和後期以降の通俗歴史雑誌・ムックに集中します[6]。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」前後の刊行物が目立つのも特徴です。なお同じ検索の明治・大正期のヒットは「遠山弥二兵衛」のような別人の人名で、二人の併称ではありません[6]。

つまり現時点の証拠は、「江戸時代の呼称」より「近現代の歴史読み物で定着した呼称」を指しています。

読者が次に抱く疑問

Q1. 松寿丸をかくまった話は史実ですか。 事典は「逸話」と書きます[4]。『信長公記』にこの一件の記述は見当たりません(本稿で全文を検索)。同時代史料の裏づけは確認できず、断定はできません。

Q2. 当時、二人は何と呼ばれていたのですか。 『信長公記』の書き方では、半兵衛は秀吉に付けられた「与力」[2]、官兵衛は「小寺官兵衛」という名で登場するだけです[1]。役職としての「軍師」は出てきません。

Q3. 二人が同じ陣にいた期間はどれくらいですか。 『信長公記』の並記は天正5年霜月廿七日[1]、半兵衛の病没は天正7年6月13日[4]。ここから数えると約1年7か月です。

図鑑の記述への提案

  1. 区分「伝説」はそのままでよいと考えます[6][9]。
  2. 「同時代史料に両者を『軍師』として併称した例はない」は、「『信長公記』には二人が秀吉配下として並んで記される箇所はあるが、『軍師』の語はなく、半兵衛の肩書は『与力』」と具体化すると誤解が減ります[1][2]。
  3. 「講談や明治以降の伝記で定着した近世後期以降の呼称」は、江戸期の初出を本稿では確認できませんでした。「近現代の通俗歴史書・雑誌で広まった呼称(江戸期の初出は未確認)」と、断定を弱めることを提案します[6][8]。
  4. 「約1年半程度」は「約1年7か月」と書けます[1][4]。
  5. 中野等氏の見解には書名(『黒田孝高』人物叢書、吉川弘文館、2022年)を添えることを提案します[7]。

出典

  1. 信長公記 巻十(十二)但馬播磨羽柴被申付事(ウィキソース)(巻十(十二)但馬播磨羽柴被申付事)
    同時代史料『信長公記』には、天正5年霜月廿七日の上月城攻めの記事で「小寺官兵衛」と「竹中半兵衛」が秀吉配下として並んで記されるが、「軍師」や二人まとめての呼称はない。
    「霜月廿七日 熊見川打越御敵城上月(コウツキ)へ 羽柴筑前守秀吉 相働近辺放火候て福岡野之城取詰 小寺官兵衛 竹中半兵衛 乍処(シカツシトコロ) 宇喜多和泉守後巻として人数を出し候」
  2. 信長公記 竹中半兵衛病死の記事(ウィキソース)(六月廿二日条(天正七年))
    『信長公記』は竹中半兵衛を「羽柴筑前与力に被仰付候」と記し、同時代の位置づけは「軍師」ではなく秀吉に付けられた与力であった。
    「六月廿二日 羽柴筑前与力に被仰付候竹中半兵衛播州御陣にて病死候其名代として御馬廻に候へつる舎弟竹中久御播州へ被遣候」
  3. 竹中半兵衛(日本大百科全書/ニッポニカ、コトバンク)(日本大百科全書(ニッポニカ)「竹中半兵衛」谷口研語 執筆)
    竹中半兵衛を「軍師に徹した人物」とみるのは俗説であると事典が明記している。
    「俗説では領土欲なく、軍師に徹した人物と評される。初め斎藤龍興(たつおき)に仕える。」
  4. 竹中重治(デジタル版 日本人名大辞典+Plus/山川 日本史小辞典、コトバンク)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「竹中重治」(同ページの山川 日本史小辞典に「これをひそかにかくまった逸話がある」))
    竹中重治(半兵衛)の軍師としての名声は後世の講談などによるもので、松寿丸をかくまった話は「逸話」とされ、没年月日は天正7年6月13日である。
    「天正(てんしょう)7年6月13日播磨(兵庫県)三木の陣中で病没。36歳。後世講談などで軍師として名だかい。」
  5. 軍師(精選版 日本国語大辞典、コトバンク)(精選版 日本国語大辞典「ぐん‐し【軍師】」①)
    「軍師」という語について国語辞典が挙げる古い用例は1721年の浄瑠璃や1809〜13年の滑稽本など江戸時代の芝居・読み物である。
    「[初出の実例]「いか成軍師か敵に組し、かかる奇計をなしけるぞ」(出典:浄瑠璃・信州川中島合戦(1721)三)」
  6. 国立国会図書館サーチ 「二兵衛」検索結果(検索結果一覧(キーワード「二兵衛」、書誌検索))
    二人の併称として「二兵衛」を掲げる刊行物は、1988年の雑誌記事や2013年の歴史ムックなど昭和後期以降の通俗歴史出版物に見られ、明治・大正期のヒットは「遠山弥二兵衛」など別人の人名である。
    「二兵衛の友情と高松城(下)-秀吉の知恵袋・黒田官兵衛の生涯-紙雑誌雑誌巻号片山 亨岡山経済研究所1988-09」
  7. 国立国会図書館サーチ 中野等『黒田孝高』(人物叢書)書誌(検索結果一覧(キーワード「中野等 黒田孝高」))
    図鑑が引く中野等氏には学術的評伝『黒田孝高』(人物叢書、吉川弘文館、2022年9月刊)がある。
    「黒田孝高 (人物叢書 新装版)紙図書中野等 著吉川弘文館2022.9」
  8. 吉川英治『黒田如水』(青空文庫)(竹中重治の死を悼む場面(「三」の直前))
    近代の大衆小説は二人を「軍師」「秀吉の双璧」と組にして描くが、「両兵衛」「二兵衛」という語は用いていない。
    「官兵衛孝高とともに、秀吉の双璧(そうへき)といわれ、智略(ちりゃく)の嚢(ふくろ)と恃まれていた彼でもあった。」
  9. 黒田孝高(ウィキペディア日本語版)(人物・逸話の節)
    「両兵衛」「二兵衛」は後世の併称であると通説的に説明されている。
    「孝高(官兵衛)は、同じく秀吉の「軍師」とされる竹中重治(半兵衛)と並んで「両兵衛(二兵衛)」と呼ばれることがある。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

関連