〈黒田官兵衛〉「その時、お前の左手は何をしていたのか」

家康に右手を取られて感謝されたと誇る長政に、如水が「空いた手でなぜ刺さなかったのか」と問うた話。初出は江戸期の聞書『古郷物語』で、それ以前の史料に見えない。福本日南・金子堅太郎の伝記が採録し、『播磨灘物語』と大河ドラマで決定的に有名になった。渡邊大門氏は「後世の願望であって史実とみなし難い」とする。

検証リサーチ

「〈黒田官兵衛〉「その時、お前の左手は何をしていたのか」」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

伝説。確認できる最古の記載は福本日南『黒田如水』(1911年)で、同時代史料になし。図鑑のいう『古郷物語』初出は裏づけが取れない。

くわしい根拠

結論

区分「伝説」でよい。ただし図鑑が書く「初出は江戸期の聞書『古郷物語』」という部分は、今回の調査では裏づけが取れなかった。確実にたどれるいちばん古い記載は、明治44年(1911年)に福本日南が書いた伝記『黒田如水』である[3]。関ヶ原のあと家康が長政の手を取って礼を言った、という話の骨だけは長政自身の遺言に近い形で伝わるが[2]、「左手は何をしていたのか」という如水の問いは同時代の史料(当時の書状や日記)には見えない[1]。

この話が最初に出てくる史料

福本日南『黒田如水』(東亜堂書房、1911年)は、全五十八章のうち第四十八章を「大勢一変」とし、219ページ(コマ125)からこの場面を置く[3]。章の中の小見出しはずばり「左手を何とかしたる」。国立国会図書館がデジタル化した本文(OCR)には、こうある。

如水冷然として問うて曰く、其頂かれたる手は、果して左右の孰れなりし歟と。長政則ち右手なりしと答ふれば、如水重ねて其際左手を如何にか措きしやと問ふ。長政默然たり。(福本日南『黒田如水』219頁)

5年後の金子堅太郎『黒田如水伝』(博文館、1916年)にも、ほぼ同じ話が第十篇第五章「如水と豐前筑後及び薩摩の戰爭」(515頁〜)に入る[4]。「吾が手を把りて、三度押し戴かれたり」「左の手は、何事を爲したりしかと」と、いま知られる形にかなり近い。金子は福岡藩士の子で、藩に伝わる話を集めやすい立場にあった[1]。福本日南も福岡(旧福岡藩)の出である。二人とも旧福岡藩ゆかりの人物で、明治末から大正にかけて相次いで如水の伝記を書いた。つまりこの逸話は、まず「郷土の英雄伝」の器の中で世に出たとみるのが自然である。なお同じ文章は、日南の別の本『英雄論』(1919年)にも再録されている。

いっぽう『古郷物語』は実在する黒田家の聞書で、国史研究会が1916年に上・中・下の三巻として活字にしている[5]。しかしその全文(OCR)をいくら探しても、家康が長政の手を三度取った話も、左手をとがめる問答も出てこない。『古郷物語』が根拠に引かれるのは、如水が栗山利安・母里友信の誓紙をふところに入れた話など、別の逸話である[1]。よって「初出は『古郷物語』」とは、今のところ言えない。

異説や否定説

否定説のほうが強い。中世史家の本郷和人氏は「如水の性格から言って考えにくい、この時の長政は唯一の黒田家の跡取りで、ここまで非情なことをする人ではない」と述べる[1]。一方で、長政の「遺言覚」には「家康公某が手を御取り、今度の御利運、偏に長政が忠義故なり」とあり、ここが逸話のもとと考えられている。つまり「家康が長政の手をとったのは事実である可能性もあるが、如水の詰問を史実とすることはできない」というのが現在の見方である[2]。

なお図鑑は渡邊大門氏の言として「後世の願望であって史実とみなし難い」を引くが、今回この文言そのものは確認できなかった。渡邊氏は『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社、2013年)を著しており[9]、官兵衛の「軍師」像を後世に作られたものとみる立場ではある。出典の付け方は確かめ直したほうがよい。

後世にどう語られたか

事実の骨格はこうだ。如水は関ヶ原のとき九州にいて大友義統を破り、豊前小倉を攻めていた[6]。長政は本戦で小早川秀秋を東軍に寝返らせるなど大きく貢献し、筑前一国を与えられた[7][8]。父子が別々の場所で戦い、あとで中津で再会する——この構図が、話をつくるうえで都合がよかった。

福本日南(1911年)→金子堅太郎(1916年)と伝記に載り、司馬遼太郎『播磨灘物語』やNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』で決定的に有名になった[2]。図鑑の「福本日南・金子堅太郎の伝記が採録し…」という筋書き自体は正しい[1]。

読者が次に抱く疑問

「では家康が手を取った話も嘘なのか」 — そこは別扱いでよい。長政の「遺言覚」に本人の言として残るので、まったくの作り話とは言い切れない[2]。作られたのは「如水の問い返し」の部分である。

「江戸時代の本には本当に一つも無いのか」 — 「無い」とまでは断言できない。今回は国立国会図書館のデジタル化本文を横断検索し、「左手を何とかしたる」「頂かれたる手は」といった特徴的な言い回しが1911年(福本日南)と1919年(同じ著者の『英雄論』)の2冊にしか出ないことを確認した。ただしOCRは万能ではなく、未電子化の写本もある。「江戸期に無い」ではなく「江戸期の記載を確認できない」が正確である。

「なぜこんな話が作られたのか」 — 如水には「天下を狙っていた」という見方が古くからつきまとう。渡邊大門氏のように、官兵衛の「軍師」像そのものが後世に作られたと論じる研究もある[9]。父は野心家、息子はお人よし——という対比が分かりやすいぶん、話として強い。逆に言えば、分かりやすすぎるところが、史実として疑われる理由でもある。

図鑑の記述への提案

  1. 区分は「伝説」のままでよい。
  2. 「初出は江戸期の聞書『古郷物語』」→「確認できる最も古い記載は、福本日南『黒田如水』(1911年)」に直す。『古郷物語』の活字本を探しても該当箇所は見つからない[5]。
  3. 「渡邊大門氏は…」の引用は、出典を確かめるか、代わりに本郷和人氏の否定的見解[1]と「如水の詰問を史実とすることはできない」[2]を挙げるほうが安全。
  4. 「家康が手を取った」部分だけは長政の「遺言覚」にさかのぼる、と一言添えると、どこまでが伝説かがはっきりする[2]。

図表

確認できた最古の記載
1911年
出典: [3] 国立国会図書館デジタルコレクション 書誌・目次データ:福本日南『黒田如水』(東亜堂書房、1911年)
次に古い記載
1916年
出典: [4] 国立国会図書館デジタルコレクション 書誌・目次データ:金子堅太郎『黒田如水伝』(博文館、1916年)

出典

  1. 黒田孝高 - Wikipedia(人物 節)
    この逸話は同時代史料になく、明治の福本日南『黒田如水』・大正の金子堅太郎『黒田如水傳』に載る話で、本郷和人は否定的な見解を述べている。
    「この逸話は同時代史料に存在する話ではなく、明治時代に福本日南が著した『黒田如水』や大正時代に金子堅太郎が著した『黒田如水傳』等で記述されている話である。中世史家の本郷和人は「如水の性格から言って考えにくい、この時の長政は唯一の黒田家の跡取りで、ここまで非情なことをする人ではない」と否定的な意見を述べている。」
  2. 黒田長政 - Wikipedia(人物・逸話 節)
    長政の「遺言覚」に家康が手を取ったとの記述があり逸話の淵源とみられるが、如水の詰問は史実とできないとされる。
    「長政の「遺言覚」には、「家康公某が手を御取り、今度の御利運、偏に長政が忠義故なり」と述べたとあり、この辺りが逸話の淵源と思われる。家康が長政の手をとったのは事実である可能性もあるが、如水の詰問を史実とすることはできない。」
  3. 国立国会図書館デジタルコレクション 書誌・目次データ:福本日南『黒田如水』(東亜堂書房、1911年)(index(目次)第四十八章)
    福本日南『黒田如水』(東亜堂書房、明治44年=1911年)には第四十八章「大勢一変」が219頁(コマ125)から置かれ、そこに該当記事がある。
    「"四十七 如水の筑日経略/214 (0123.jp2)","四十八 大勢一変/219 (0125.jp2)","四十九 如水の希望/223 (0127.jp2)"」
  4. 国立国会図書館デジタルコレクション 書誌・目次データ:金子堅太郎『黒田如水伝』(博文館、1916年)(index(目次)第十篇第五章)
    金子堅太郎『黒田如水伝』(博文館、大正5年=1916年)第十篇第五章「如水と豐前筑後及び薩摩の戰爭」(515頁〜)に同じ逸話が収められている。
    「"第五章 如水と豐前筑後及び薩摩の戰爭 / 515 (0309.jp2)","第十一篇 棲隱時代 黒田如水 / 534 (0321.jp2)"」
  5. 国立国会図書館デジタルコレクション 書誌・目次データ:『古郷物語』(国史研究会、1916年)(index(目次)古郷物語〔黒田家〕)
    『古郷物語(黒田家)』は上・中・下三巻からなり、1916年に国史研究会が活字本を刊行しているが、その本文に当該逸話は見当たらない。
    「"古郷物語〔黒田家〕 / (0011.jp2)","卷之上 / 1 (0011.jp2)","卷之中 / 86 (0054.jp2)","卷之下 / 154 (0088.jp2)"」
  6. 黒田孝高(くろだよしたか)とは? - コトバンク(日本大百科全書)(日本大百科全書(ニッポニカ))
    如水(孝高)は関ヶ原の戦いのとき九州にあって大友義統を下し、豊前小倉の毛利勝信を攻めていた。
    「関ヶ原の戦いに際しては九州にあって大友義統(よしむね)を下し、豊前小倉(こくら)の毛利勝信(もうりかつのぶ)を攻め、島津氏を討つため筑後(ちくご)から肥後水俣(みなまた)に進んだ。」
  7. 黒田長政(くろだながまさ)とは? - コトバンク(日本大百科全書)(日本大百科全書(ニッポニカ))
    長政は関ヶ原で小早川秀秋を東軍に寝返らせるなど勝利に大きく貢献し、その功で筑前一国を与えられた。
    「秀吉没後は徳川家康に従い、関ヶ原の戦いに際しては小早川秀秋(こばやかわひであき)を東軍に寝返らせるなど東軍の勝利に大きく貢献、その功によって筑前(ちくぜん)一国(福岡県)を与えられた。」
  8. 黒田官兵衛──生涯と実像から人物相関、逸話、家臣団まで最新研究で一挙解説(歴史学者・渡邊大門ほか執筆)(第二部「秀吉の死と関ヶ原合戦」)
    関ヶ原本戦での長政の働き(吉川広家・小早川秀秋の調略)は、研究者による解説でも事実として扱われている。
    「一方の長政は関ヶ原で大活躍し、西軍の吉川広家や小早川秀秋を味方に引き入れるなどの貢献をしたのである。」
  9. 黒田官兵衛──生涯と実像から人物相関、逸話、家臣団まで最新研究で一挙解説(参考文献)(【参考文献】)
    渡邊大門氏には官兵衛の軍師像を後世に作られたものとみる著書『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社、2013年)がある。
    「渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社 2013年)」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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