〈黒田官兵衛〉秀吉「次に天下を取るのは官兵衛」

初出は幕末〜明治の『名将言行録』(1869年成立)と近世逸話集で、一次史料の裏付けは皆無。渡邊大門氏は「秀吉が官兵衛を恐れて冷遇した」枠組み自体を「荒唐無稽な創作」と断じる。豊前12万石も当時の処遇として冷遇とはいえない。

検証リサーチ

「〈黒田官兵衛〉秀吉「次に天下を取るのは官兵衛」」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 89 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

伝説。問答は同時代史料になく、『常山紀談』(1739年)以降の逸話集が古い。ただし恩賞を抑えられた話は宣教師側の記録にもあり、理由はキリシタン信仰とされる。

くわしい根拠

結論

「秀吉が『次に天下を取るのは官兵衛だ』と言った」という問答は、同時代の史料には出てきません。伝えているのは江戸中期以降の逸話集・軍談書と、幕末〜明治にまとめられた言行録です[1][3][4]。区分「伝説」は妥当です。ただし「秀吉が孝高(官兵衛)の器量を警戒して恩賞を渋った」という枠組みは、幕府が編ませた家譜にも、宣教師側の記録にも形を変えて出てきます[2][5]。枠組みごと否定するのは行きすぎで、図鑑の本文は手直しが要ります。

この話が最初に出てくる史料

図鑑は「初出は幕末〜明治の『名将言行録』(1869年成立)」としますが、もっと古い本があります。

  1. 『常山紀談』…岡山藩士・湯浅常山の逸話集で、元文4年(1739年)成立。事典は「江戸時代中期の軍談書」とし、「史料的価値は低い」と評します[3]。秀吉が孝高の才を恐れたとする話はここに載ります。
  2. 『寛政重修諸家譜』…江戸後期に幕府が編ませた大名・旗本の系譜集(堀田正敦編)。孝高の項に「はしめより軍略をとふといへとも孝高か大志をいみておほく困郡をあたへす」とあります2。太閤ははじめから軍略を尋ねたのに、孝高の「大志」を忌んで多くの領地を与えなかった、という意味です。
  3. 『名将言行録』…館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までかけて完成させた人物列伝[4]。ここで「秀吉、常に世に怖しきものは德川と、黑田なり…黑田の瘡天窓(かさあたま)は何にとも心を許し難きものなり」という有名な文句になります[1]。

いずれも出来事から150年以上あとの編纂物(あとの時代にまとめた本)です。秀吉や孝高の書状のような一次史料(その場で書かれた記録)に、この問答はありません。

異説や否定説

  • 答えが「家康」になっている版がある。 明治27年(1894年)の松井広吉『戦国時代』は、同じ問答をこう書きます。「我れ若し死せは、天下を取らんもの誰かと思ふぞ」と問へば、皆「蒲生氏〓か去らずば前田利家ならん」と答ふ、秀吉頭を掉て曰く「イナノ天下を取らん器量あるもの家康のみ」6。答えの人名が入れ替わるのは、これが特定の人物に固定されない「話の型」だという有力な証拠です。
  • 恩賞が少なかった理由を信仰に求める記録がある。 宣教師クラッセの著作(明治期に太政官が『日本西教史』として翻訳)は、「殿下二國を以て封ぜんと約せし事ありしに、或人コーデラは基督〓信徒なりと議せしに因り、僅に…國一部落の地を賜はりしことあり」と伝えます[5]。「コーデラ」は小寺官兵衛のことです。国名は訳本によって「肥前」「備前」と揺れますが、実際に与えられたのは豊前です[2][7]。つまり「恩賞が抑えられた」こと自体は宣教師側の記録にあり、その理由はキリシタン信仰とされています。
  • 『名将言行録』は学界の評価が低い。 「整合性の合わない記述なども散見され…歴史学界では信頼性に乏しい『俗書』扱いをされている」[4]。

後世にどう語られたか

江戸の逸話集で生まれた「秀吉が恐れた官兵衛」像は、明治の通俗史書で「天下を狙う如水」として広まりました[6]。いっぽう同時代の秀吉の書状は孝高を高く買っています。小田原攻めのあと、秀吉は留守を守った長政に「今度の首尾、勘解由(孝高)淵底候」と書き送りました[8]。現在の研究も「『軍師』として虚実交々に語られてきた人物像を再構築する」段階にあります[9]。

読者が次に抱く疑問

  • Q. 『常山紀談』に載っていれば史実か。 いいえ。事典が「史料的価値は低い」と書くとおり、教訓のための読み物です[3]。載っている=史実、ではありません。
  • Q. 豊前12万石は本当に冷遇なのか。 与えられたのは豊前6郡(京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐)で[2]、石高は事典でも「豊前中津一二万石」[7]、同じページの別の項では「12万5000石(一説には15万石)」と幅があります[7]。当時の処遇として小さくはありません。ただし「二国を約束された」という記録[5]と比べれば少ない、という言い方になります。
  • Q. 秀吉と官兵衛は不仲だったのか。 恐れて冷遇したという話は後世の編纂物、信仰ゆえの減封は宣教師側の記録、賞賛は同時代の書状。史料の系統ごとに像が違うというのが正確な答えです[2][5][8]。

図鑑の記述への提案

  1. 「初出は幕末〜明治の『名将言行録』(1869年成立)」→ **「江戸中期の『常山紀談』(1739年成立)にすでにあり、江戸後期の幕府編纂『寛政重修諸家譜』にも同趣旨の記述がある。『名将言行録』(1854〜1869年)はそれを有名な文句に整えたもの」**に改めることを提案します[2][3][4]。
  2. 「一次史料の裏付けは皆無」→ 「この問答そのものは同時代史料に無い」と限定し、「恩賞を抑えられたこと自体は宣教師側の記録にあり、理由はキリシタン信仰とされる」と付記したいです[5]。
  3. 「豊前12万石」→ **「豊前6郡(石高は史料により12万〜15万石)」**と幅を示すほうが正確です[2][7]。
  4. 渡邊大門氏の「荒唐無稽な創作」という評価は、今回、原文(書名・頁)を確認できませんでした。出典を明記することをおすすめします。
  5. 区分は「伝説」のままで妥当です。

出典

  1. 次世代デジタルライブラリー 全文検索(『名将言行録』4 岡谷繁実著、岩波書店、1944年ほか)(検索語「黒田の瘡天窓」/ 資料ID 1043027『名将言行録』4(岡谷繁実著、岩波書店1944)152コマ。OCRのため「溫和なるmps人なり」のような読み取り誤りを含む)
    『名将言行録』は、秀吉が「世に恐ろしいものは徳川と黒田だ」と常々語ったとする文句を載せる。
    「秀吉、常に世に怖しきものは德川と、黑田なり、然れども、德川は溫和なるmps人なり、黑田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなり、と言はれしとぞ。」
  2. 次世代デジタルライブラリー 全文検索(『寛政重修諸家譜』1520巻 堀田正敦編)(検索語「大閤はしめより軍略」/ 資料ID 2577392『寛政重修諸家譜』1520巻[100]、黒田孝高の項。引用の直前は「大閤」、「困郡」はOCRの読み取り誤りで「国郡」。同じ箇所に豊前6郡(京都・筑城・仲津・上毛・下毛・宇佐)の宛行も記される)
    江戸後期に幕府が編ませた家譜『寛政重修諸家譜』の黒田孝高の項に、秀吉が孝高の大志を忌んで多くの国郡を与えなかったとある。
    「はしめより軍略をとふといへとも孝高か大志をいみておほく困郡をあたへす」
  3. 常山紀談とは — コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ほか)(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「常山紀談」)
    『常山紀談』は湯浅常山が元文4年(1739年)に成立させた江戸中期の軍談書で、史料的価値は低いと評価されている。
    「江戸時代中期の軍談書。湯浅常山著。25巻。元文4(1739)年成立。戦国時代から江戸時代初期にわたる約50年間の名将諸士の言行,逸行,逸事に関する雑談を約470条に集めたもの。文章が平明で,痛快な読み物として流布し,刊本も多い。江戸時代には6冊本,21冊本,30冊本があり,明治になってからも数種刊行された。多くは『常山紀談拾遺』(4巻),付録『雨夜灯』(1巻)がつく。史料的価値は低い。」
  4. 名将言行録 - Wikipedia(冒頭および概要部分)
    『名将言行録』は岡谷繁実が1854年から1869年にかけて完成させたもので、歴史学界では信頼性に乏しい「俗書」扱いをされている。
    「そのため整合性の合わない記述なども散見され、史実と乖離しているという指摘も受けており、歴史学界では信頼性に乏しい「俗書」扱いをされている。」
  5. 次世代デジタルライブラリー 全文検索(『日本西教史』上巻 ジアン・クラッセ著、太政官翻訳係訳、太陽堂書店、1925年)(検索語「殿下二國を以て封ぜんと約せし」/ 資料ID 971162『日本西教史』上巻(1925)318コマ。〓は判読できない字。与えた国名は訳本により「肥前」「備前」と揺れる)
    宣教師側の記録は、秀吉が官兵衛に二国を与えると約束しながら、キリシタンであることを理由に一部の地しか与えなかったと伝える。
    「コーデラは曾てシモに在て殿下の將たりしとき、殿下二國を以て封ぜんと約せし事ありしに、或人コーデラは基督〓信徒なりと議せしに因り、僅に肥前の國一部落の地を賜はりしことあり、殿下の言蓋し之を指て云ふなり。」
  6. 次世代デジタルライブラリー 全文検索(松井広吉『戦国時代』博文館、1894年)(検索語「秀吉又戯れに近臣に」/ 資料ID 772417『戦国時代』(博文館1894)239コマ。〓は判読できない字、「イナノ」は「イナ、」の読み取り誤り)
    「自分の死後に天下を取るのは誰か」という同型の問答で、秀吉の答えが徳川家康になっている版がある。
    「「我れ若し死せは、天下を取らんもの誰かと思ふぞ」と問へば、皆「蒲生氏〓か去らずば前田利家ならん」と答ふ、秀吉頭を掉て曰く「イナノ天下を取らん器量あるもの家康のみ」」
  7. 黒田孝高とは — コトバンク(精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書ほか)(精選版 日本国語大辞典「黒田孝高」。石高の幅は同ページ「世界大百科事典(旧版)内の言及【中津藩】より」)
    黒田孝高は九州平定後に豊前6郡を与えられ中津に入り、その領知は一般に12万石と記されるが、12万5000石・15万石とする説もある。
    「豊臣秀吉に仕え、山崎の合戦、九州征伐などに功をたて豊前中津一二万石を領する。」
  8. 企画展示 No.566 天下取りと黒田孝高・長政 — 福岡市博物館(「二 孝高、秀吉を天下人に導く」節(史料14))
    小田原攻めののち秀吉は長政あての書状で孝高の働きを高く評価しており、同時代史料での扱いは冷遇一色ではない。
    「秀吉は留守(るす)を守った長政に書状を送り、「今度(このたび)の首尾(しゅび)、勘解由(かげゆ)(孝高)淵底候(えんていそうろう)」と、孝高の働きにより戦に決着がついたことを知らせています」
  9. 中野等『黒田孝高』(人物叢書 新装版、吉川弘文館、2022年)— 国立国会図書館サーチ書誌(資料詳細 要約等(提供元: 出版情報登録センター))
    現在の学術研究は、黒田孝高の「軍師」像が虚実入りまじって語られてきたものとして、人物像の再構築を進めている。
    「信長・秀吉・家康に仕え、通称の官兵衛・如水の号で知られる武将。「軍師」として虚実交々に語られてきた人物像を再構築する。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

関連