〈立花宗茂〉家康・清正の誘いを断った

改易後、家康や加藤清正からの厚遇の誘いを「秀吉への恩義」から断ったという話は『筑後将士軍談』(幕末成立)が典拠で、渡邊大門氏ら研究者から「史実とは思えず疑わしい」と明確に指摘されている。前田家などからの誘いの記録は家伝にある(詳細は諸説)。

検証リサーチ

「〈立花宗茂〉家康・清正の誘いを断った」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

伝説。別々の三場面の合体。「秀吉への恩義」は関ヶ原前に清正の忠告を退けた言葉で、改易後に清正へ返した断り文句は別の理由。家伝の宗茂は徳川への奉公を明言している。

くわしい根拠

結論

この逸話は「伝説」でよいと考えます。ただの作り話ではなく、別々の三つの場面がひとつに合体している、というのが今回の調査でいちばん大きな発見です。

  • 「秀吉への恩義」を口にした場面は、改易の前、慶長5年(1600年)に上方へ行くかどうかの場面でした。しかも止めたのは家康ではなく加藤清正です[2]。
  • 改易の後に清正が持ちかけたのは「薩摩出陣への同道と玉名郡の支配」で、宗茂の断り文句は恩義ではなく別の理由でした[3]。
  • 前田家(加賀)からの十万石の話は、家伝でも「断った」とは書かれていません[4]。
  • そもそも家伝の中の宗茂は、「秀吉への恩返しは関ヶ原で終わった」と言い切り、徳川に仕える気持ちをはっきり述べています[5]。

この話が最初に出てくる史料

いちばん古い形が読めるのは『立花遺香』です。「柳河藩初代藩主立花宗茂の言行を記した文書」で、活字本は大正5年(1916年)に国史研究会から出ました[1]。宗茂の身近にいた人たちの聞き書きをまとめた家伝であって、同時代の書状や日記ではありません。

図鑑が典拠とする『筑後将士軍談』は、久留米藩士・矢野一貞が編んだ筑後国の国史です。嘉永6年(1853年)の写本があり、著者が藩から地誌編修を命じられたのは文久元年、著作を藩主に献上したのは慶応3年という、幕末の編纂物(後の時代にまとめられた本)です[6]。

日本語版ウィキペディアの脚注をたどると、「秀吉公の恩義」で家康の東軍の誘いを拒んだ話には『筑後将士軍談』巻之第二十二が付いており[8]、改易後の「清正や前田利長からの誘いを謝絶」には『立花遺香』と『評註名将言行録』が付いています[9]。二つの話は、もともと別の本の別の記事なのです。

『立花遺香』活字本の刊行年
1916年
国史研究会刊。慶長5年(1600)の出来事から316年後
出典: [1] 立花遺香 - Wikisource(解題・底本)

異説や否定説

「太閤の報恩」は清正に向けた言葉

『立花遺香』では、清正が「今回は出陣しないほうがよい、あれは石田三成らの企てだ」と手紙で諫めます。それに対する宗茂の答えがこれです。

尤も理究とは存じ候へども、秀頼公の御意と之あるに、上洛仕らず候ては、太閤の報恩に背き候と存じ罷上り候[2]

「もっともな理屈だとは思うが、秀頼公の命令がある以上、上洛しなければ太閤(秀吉)の恩に背く」という意味です。相手は家康ではなく清正、時期は関ヶ原の前、内容は仕官の誘いですらありません。

改易後の清正の申し出と、断った理由

改易後、薩摩へ出陣する清正は宗茂に同道を求め、玉名郡の支配を差し出します。返事はこうでした。

殿様少しも御承引之なく、頃日まで別心なき島津方へ、某唯今の仕合に罷成り、何故合戦の結構仕るべくや、少しにても、関東への忠節振を仕り候へとの儀に御座候や、左様の儀、努々存寄も之なく候、玉名郡の儀、上より下され候はゞ、兎も角も仕るべくや、貴様より給り候はゞ、肥後国一国にても、望に御座なく候との御返答なり[3]

理由は「秀吉への恩義」ではありません。①敵意のない島津と戦って徳川に点数を稼ぐ気はない、②知行は公儀から下されるならともかく、あなた個人からもらう気はない、の二点です。しかもこのあと宗茂は慶長5年12月から慶長7年春まで清正のもとに留まっており、清正の庇護そのものは受けています[3]。

前田家の話は「断った」と書かれていない

殿様加賀へ御越しなされ候はゞ、十万石進ぜらるべしとの事なり、兎角の御返詞をば仰せられず、憎い奴共が、腰は抜けながら、万づの事を申すと仰せられける故[4]

「あれこれの返事はなさらず」皮肉を言った、という書き方です。仲介した僧の名前も分からず「両説分明ならず」と家伝自身が断っています[4]。

家伝の宗茂は「恩返しは終わった」と言う

大坂の陣の前、秀忠に旧豊臣系大名の動向を問われた宗茂の答えです。

関ヶ原御一戦の刻までに、秀頼公の為めには、既に身命を捨て、家を潰し申し候、是れ太閤への報恩に御座候、其後生計の為めに、御当家より少地下され候間、何様御奉公仕るべき所存に御座候[5]

「秀頼公のために身命を捨て家を潰した、それが太閤への恩返しだ。その後は暮らしのために徳川家から領地を頂いたのだから、しっかり奉公する」。家伝の宗茂は、改易後も秀吉への恩義で徳川を拒み続ける人物としては描かれていません[5]。

事典類もこの逸話を採りません。『日本大百科全書』は「関ヶ原の戦いで西軍に属して、改易されたが、1603年(慶長8)徳川秀忠(ひでただ)に召し出されて、陸奥棚倉(むつたなぐら)(福島県棚倉町)に1万石を与えられた」と書くだけです[7]。

読者が次に抱く疑問

Q1. 大名に戻った年は? 『日本大百科全書』は1603年(慶長8)[7]、ウィキペディアは慶長9年(1604年)に5,000石、慶長11年に1万石とします[9]。説が割れているので、図鑑で年を書くならどの説かを添えるのが安全です。

Q2. 前田家の当主は誰? 『立花遺香』は「加賀大納言殿」としか書きません[4]。ウィキペディアは前田利長とします[9]が、家伝の本文だけでは人物を特定できません。

Q3. 『筑後将士軍談』は信用できない本なのか? そうとは限りません。ただし幕末の編纂物である以上、そこに載る逸話がそのまま慶長期の事実になるわけではなく、同時代の書状より一段下の史料として読む必要があります[6]。

図鑑の記述への提案

  1. 区分「伝説」は維持でよいと考えます。
  2. 「家康や加藤清正からの厚遇の誘いを『秀吉への恩義』から断った」は、二つに分けて書き直すことを提案します。「秀吉への恩義」は関ヶ原の前に清正の忠告を退けた場面の言葉であり[2]、改易後に清正へ返した断り文句は「公儀からならともかく貴殿からは受けない」という趣旨でした[3]。
  3. 「家康からの誘い」は削るか、注記を付けたいところです。家伝の宗茂は徳川に奉公する所存をはっきり述べています[5]。
  4. 典拠は『筑後将士軍談』一本ではなく、『立花遺香』(家伝)と併記するのが正確です[8][9]。
  5. 渡邊大門氏の指摘を載せるなら、書名・掲載媒体・頁を明記してください。今回はその文章そのものを確認できませんでした。

図表

『筑後将士軍談』写本の年
1853年
嘉永6年。慶長5年(1600)から253年後の幕末編纂物
出典: [6] 筑後将士軍談(日本歴史地名大系)|コトバンク

出典

  1. 立花遺香 - Wikisource(解題・底本)(冒頭の解題)
    『立花遺香』は柳河藩初代藩主・立花宗茂の言行を記した家伝で、活字本は1916年(大正5年)に国史研究会から刊行された。
    「『立花遺香』(たちばないこう)は、柳河藩初代藩主立花宗茂の言行を記した文書である。 底本: 『立花遺香,銀台遺事,銀台拾遺』,国史研究会,1916. 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/953324」
  2. 立花遺香 - Wikisource(加藤清正宗茂の上洛を諫む)(【加藤清正宗茂の上洛を諫む】の条(NDLJP:74 付近))
    「太閤の報恩に背く」という言葉は、関ヶ原の前に加藤清正から上洛をやめるよう諫められた場面での宗茂の返答であり、徳川家康の仕官の誘いを断った言葉ではない。
    「尤も理究とは存じ候へども、秀頼公の御意と之あるに、上洛仕らず候ては、太閤の報恩に背き候と存じ罷上り候」
  3. 立花遺香 - Wikisource(清正薩摩へ宗茂を誘ふ)(【清正薩摩へ宗茂を誘ふ】の条(NDLJP:89 付近))
    改易後に清正が薩摩出陣への同道と玉名郡の支配を持ちかけた際、宗茂が断った理由は「秀吉への恩義」ではなく、島津と戦う気がないことと、知行を清正個人から受ける気がないことであった。
    「殿様少しも御承引之なく、頃日まで別心なき島津方へ、某唯今の仕合に罷成り、何故合戦の結構仕るべくや、少しにても、関東への忠節振を仕り候へとの儀に御座候や、左様の儀、努々存寄も之なく候、玉名郡の儀、上より下され候はゞ、兎も角も仕るべくや、貴様より給り候はゞ、肥後国一国にても、望に御座なく候との御返答なり」
  4. 立花遺香 - Wikisource(前田氏宗茂を招がんとす)(【前田氏宗茂を招がんとす】の条(NDLJP:91 付近))
    加賀からの十万石の申し出について、家伝は宗茂が明確な返事をしなかったと記し、仲介者も特定できず「両説分明ならず」としている。
    「殿様加賀へ御越しなされ候はゞ、十万石進ぜらるべしとの事なり、兎角の御返詞をば仰せられず、憎い奴共が、腰は抜けながら、万づの事を申すと仰せられける故、右段申上げ候坊主、殊の外に迷惑仕り候、大徳寺か妙心寺の出家衆かまで、申し来り候とも申し候、両説分明ならず候へども、此事申されたるは、慥なる事にて」
  5. 立花遺香 - Wikisource(秀忠福島加藤の態度を宗茂に問ふ)(【秀忠福島加藤の態度を宗茂に問ふ】の条(NDLJP:62 付近))
    家伝の中の宗茂は、秀吉への恩返しは関ヶ原で家を潰したことで果たしたと述べ、その後は徳川家から領地を得て奉公する所存だと語っている。
    「関ヶ原御一戦の刻までに、秀頼公の為めには、既に身命を捨て、家を潰し申し候、是れ太閤への報恩に御座候、其後生計の為めに、御当家より少地下され候間、何様御奉公仕るべき所存に御座候」
  6. 筑後将士軍談(日本歴史地名大系)|コトバンク(日本歴史地名大系「筑後将士軍談」の解説)
    『筑後将士軍談』は久留米藩士・矢野一貞が編んだ筑後国の国史で、嘉永6年(1853年)の写本があり、地誌編修の任命は文久元年、藩主への献上は慶応3年という幕末の編纂物である。
    「三冊 矢野一貞著成立 嘉永六年写本 篠山神社文庫解説 筑後国の国史。著者矢野一貞(幸太夫・竹楼・柏葉)は久留米藩士で、禄高二〇〇石・馬廻組に属し藩校明善堂出役。万延元年組頭格国学引立を経て、文久元年地誌編修を命じられ、元治元年開物方に勤務し物産の開発にあたった。慶応元年には国学熟達により先手物頭格に進み、同三年本書ほかの著作一箱を藩主に献上し褒賞された。」
  7. 立花宗茂(日本大百科全書ほか)|コトバンク(日本大百科全書(ニッポニカ)「立花宗茂」)
    『日本大百科全書』の立花宗茂の項は、改易後に徳川秀忠に召し出されて棚倉1万石を与えられたと記すだけで、家康や清正の誘いを断ったという逸話には触れない。
    「関ヶ原の戦いで西軍に属して、改易されたが、1603年(慶長8)徳川秀忠(ひでただ)に召し出されて、陸奥棚倉(むつたなぐら)(福島県棚倉町)に1万石を与えられた。1610年3万石に加増。大坂冬・夏の陣に参戦。」
  8. 立花宗茂 - Wikipedia(関ヶ原の戦い 節)(関ヶ原の戦い 節(当該文の注252は『筑後将士軍談』卷之第二十二 立花宗茂小早川秀包上方出馬並帰陣之事 P.590-593))
    「秀吉公の恩義」を理由に家康の誘いを拒んだとされるのは改易後ではなく関ヶ原の戦いの直前の東軍勧誘の場面で、その記述の注は『筑後将士軍談』巻之第二十二である。
    「慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。」
  9. 立花宗茂 - Wikipedia(江戸時代 節)(江戸時代 節(当該文の注288/289は『立花遺香』P.165、『評註名将言行録』P.254))
    改易後に仕官を誘われて断った相手として挙げられるのは加藤清正と前田利長で、その記述の注は『立花遺香』と『評註名将言行録』である。
    「その器量を惜しんで清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを謝絶した。そこで清正は家臣にすることを諦め、食客として遇したという。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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