〈立花宗茂〉島津義弘と同船・護衛した
関ヶ原敗戦後の帰国時、実父の仇である島津義弘と遭遇したが恨みを捨てて同行したという美談。『名将言行録』等の逸話集に見えるもので、一次史料での裏づけは弱い。宗茂顕彰の文脈で成長した物語とみるべきである。
検証リサーチ
「〈立花宗茂〉島津義弘と同船・護衛した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「伝説」で妥当。江戸期の柳川方の聞書では二人は大坂で会って別々の船で分かれており、同船・護衛は史料になく近代の脚色。
くわしい根拠
結論
区分の「伝説」は妥当です。ただし理由の書き方は直したほうがよいです。関ヶ原の直後に立花宗茂と島津義弘(惟新)が会ったという話は、江戸時代に柳川藩(立花家)へ伝わった聞書(ききがき=家臣の見聞メモ)にさかのぼります。しかしその一番古い形では、二人は大坂で会って別々の船で分かれています[1][2]。「同船した」「護衛した」と書く史料は、今回の調査では見つかりませんでした。「実父の仇を捨てて護衛した」という美談の形は、明治の逸話集『名将言行録』で整えられた筋書きです[3]。同時代の書状や日記による裏づけはありません。
この話が最初に出てくる史料
もっとも古い層は、江戸期の柳川方の聞書です。陸軍参謀本部が編んだ『日本戦史 関原役』(元真社)の補伝 第百六「立花宗茂ノ再戦説及帰国」は、欄外に『北川遺書記』と注記して次の話を引きます。宗茂は島津兵庫頭(義弘)に会うため大坂に一日とどまり、人質になっていた島津陸奥守(忠恒)の内儀(妻)をひそかに助け出して川口で渡した。義弘は「一緒に薩摩へ下られよ」と強く勧めたが、宗茂は「島津殿を頼って薩摩まで逃げ下ったと言われては」と断り、柳川で切腹する覚悟だと言い切った。そして義弘は「左近殿(宗茂)は先に出船なされよ、兵庫頭は明日出船する」と述べ、二人は「御乗別候」=乗り別れて分かれました[1][2]。
柳川藩に伝わる宗茂の言行録『立花遺香』(高本紫溟〈1738-1813〉編、大正5年に活字化)には、道中で島津と行き会う話そのものがありません[5]。同書は「柳川へ御帰陣は十月五日なり」と帰国の日を記したうえで[4]、同じ条で、島津側が僧を使者に立て「種ケ島一島、御知行に進ぜらるべく候間…薩摩へ御越しなさるべき由申し来る」と誘い、宗茂が「今度出勢仕るべき所に、之なく候」などと述べて断ったと記します。頭注(見出し)も「関ヶ原の役島津氏宗茂を誘ふ」です[6]。つまり帰国「後」の勧誘の話であって、道中の同行談ではありません。編者の高本紫溟は1738年から1813年の人で、これも関ヶ原から200年近くあとの編纂です[5]。
「父の仇だから討ちましょう」という家臣の進言を宗茂が退けた、という筋が現れるのは『名将言行録』(岡谷繁実編。刊本は明治29年)です。「宗茂、柳川に帰る時、島津義弘も寡兵にて帰国せり。然るに島津は宗茂の為めに、父の讐なりければ」と始まり、宗茂は「討取ること勇士のする所にあらず」として許さず、使者を立てて「九州までの道すがら諸事心を合はすべきなり」と申し入れ、義弘は「帰国の後籠城せらるべくんば、加勢すべき」と答えた、と続きます[3]。編者の岡谷繁実は幕末の館林藩士で、維新後に修史館御用掛として本書を編集した人です[7]。関ヶ原から250年以上あとの編纂物です。
異説や否定説
否定説というより、史料ごとに筋が違うのが実情です。同じ補伝は別に『立斎旧聞記』も引き、宗茂が「同十八日に大坂を出船し玉ひけり」と記すだけで、島津との対面に触れません(原文に月名はありません)。補伝の題が「再戦説及帰国」であること自体、江戸期から複数の説があった証拠です。
前提にも弱さがあります。宗茂の実父・高橋紹運が岩屋城で死んだのは天正14年(1586)ですが、事典は「島津義久に岩屋城を攻められ、天正14年7月27日自害した」とします[8]。義弘個人を「仇」と名指しする根拠は強くありません。助け出された女性も、柳川方の聞書では義弘の妻ではなく子の島津忠恒の内儀です[1]。細部が語り手によって動くのは、伝承である証拠のひとつです。
後世にどう語られたか
流れは「江戸期の藩の聞書(会って、別れた)」→「明治の逸話集(仇討ちを退ける美談に整形)」→「現代の読み物(同じ船に乗った・護衛した)」と整理できます。途中には大衆化の段もあります。『名将言行録』のこの条は、昭和18年(1943)に作家の菊池寛が評註を付けた『評註名将言行録』中巻251頁にもそのまま載り、戦時下の武将顕彰の読み物として広く読まれました。日本語版ウィキペディアが「護衛を申し出でて」と書くときの脚注も、この評註本と『日本戦史 関原役』補伝の2点です。つまり「護衛」は脚注の中身ではなく、要約の段階で加わった言葉だと考えられます。学術的な評伝である中野等『立花宗茂』(吉川弘文館・人物叢書)は、この事情を「従来、軍記による武勇伝が流布してきたが、一次史料を駆使し生涯を描いた初の伝記」と説明しています[9]。宗茂の逸話は、そもそも軍記・逸話集の層に厚く積もっているのです。
読者が次に抱く疑問
Q. 二人はほんとうに会ったの? 会ったとする記録は江戸期の柳川方の聞書にありますが、同時代の書状では確認できません。会ったとしても場所は大坂の川口であって、海の上ではありません[1]。
Q. 仇同士がなぜ助け合えたの? 「仇」の構図自体が後付けの色が濃いからです。岩屋城攻めの主体は島津義久の軍であり[8]、関ヶ原では二人とも西軍で、帰国後は徳川方に攻められる同じ立場でした。
Q. 島津が宗茂を誘った話は本当? 誘った話は柳川方の記録に複数あり、宗茂が断った点は一致します[4][6]。ただし内容は「薩摩へ来てほしい」であって「護衛しよう」ではありません。
図鑑の記述への提案
- タイトルと本文の「同船・護衛」は、確認できた史料のどれにも出てきません。「大坂で会って別々に帰国した話が、のちに同船・護衛の美談へ育った」と書き換えることを提案します[1][2][3]。
- 「実父の仇である島津義弘」は「実父を死に追いやった島津氏」とするのが安全です[8]。
- 初出について、「『名将言行録』等の逸話集に見える」だけでなく、「江戸期の柳川藩側の聞書(『北川遺書記』『立花遺香』)にさかのぼるが、その段階では同船も護衛もない」と補うと、伝わり方の筋道が読者に見えます[1][4][6]。
- 「宗茂顕彰の文脈で成長した物語」という評価はそのままで妥当です[9]。
出典
- 参謀本部編『日本戦史 関原役』(元真社)補伝 第百六「立花宗茂ノ再戦説及帰国」コマ107 — 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」OCRテキストAPI(補伝 第百六 立花宗茂ノ再戦説及帰国(197頁)/コマ107 OCRブロック)補伝が引く柳川方の聞書では、義弘は宗茂に先に出船するよう告げ、自分は翌日出船すると述べており、二人が同じ船で帰ったとは記されていない。
「候と被仰候へば兵庫頭殿被仰候は扨は無是非候左近殿は先出船候へ兵庫頭は隙」
- 参謀本部編『日本戦史 関原役』(元真社)補伝 第百六 続き コマ108 — 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」OCRテキストAPI(補伝 第百六 末尾/コマ108 OCRブロック(欄外注記「北川遺書記」))宗茂は薩摩へ同行するよう勧める義弘の誘いを断り、柳川で切腹する覚悟だと述べ、二人は乗り別れて(別々の船で)分かれたと記される。
「候間於柳河切腹可仕と被仰切に付て不及是非と被仰御乘別候」
- 岡谷繁実著『名将言行録』巻之21-30(牧野書房、1896年)立花宗茂の条 コマ115 — 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」OCRテキストAPI(立花宗茂の条/コマ115 OCRブロック)『名将言行録』は、宗茂の帰国時に島津義弘も少ない兵で帰国したこと、島津が宗茂にとって父の仇であったことを記し、家臣の討ち取り進言を退ける話につなげる。
「宗茂、柳川に歸る時、島津義弘も寡兵にて歸國せり。然るに島津は宗茂の爲めに、父の」
- 『立花遺香』(高本紫溟編、国史研究会、1916年)「関ヶ原の役島津氏宗茂を誘ふ」の条 コマ80 — 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」OCRテキストAPI(「関ヶ原の役島津氏宗茂を誘ふ」の条/コマ80 OCRブロック)柳川藩に伝わる宗茂の言行録『立花遺香』は、柳川への帰陣を十月五日と記し、道中で島津と同行したとは書かない。
「柳川へ御歸陣は十月五日なり、」
- 立花遺香(日本偉人言行資料) — 国立国会図書館サーチ 書誌詳細(書誌情報 著者標目/出版事項)『立花遺香』の編者高本紫溟(高本順)は1738年から1813年の人で、同書は江戸後期に編まれ、1916年に国史研究会から活字本が出た。
「著者標目高本, 順, 1738-1813 タカモト, シタゴウ, 1738-1813」
- 立花遺香 — Wikisource(底本:『立花遺香,銀台遺事,銀台拾遺』国史研究会、1916年)(目次(底本本編の頭注から生成))『立花遺香』の頭注から起こした目次には「関ヶ原の役島津氏宗茂を誘ふ」の条があり、帰国後の勧誘として立てられている。
「西軍の敗報を得て宗茂軍を班す 宗茂豊後に著く 立花系図 戸次氏記録 十時半次 家子居宅の美を難ず 立斎の号 関ヶ原の役島津氏宗茂を誘ふ 加藤清正宗茂の為に家康に弁ぜんとす 宗茂の返書 江上の戦」
- 岡谷繁実(おかのや-しげざね) — コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus ほか)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「岡谷繁実」)『名将言行録』の編者岡谷繁実は幕末の館林藩士で、維新後に修史館御用掛などをつとめて同書を編集した人物である。
「維新後は修史館御用掛などをつとめ,「名将言行録」を編集した。」
- 高橋紹運(たかはし-じょううん) — コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus ほか)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「高橋紹運」)宗茂の実父高橋紹運は岩屋城を島津義久に攻められて天正14年7月27日に自害しており、義弘個人を仇と名指しする根拠は弱い。
「島津義久に岩屋城を攻められ,天正(てんしょう)14年7月27日自害した。39歳。」
- 中野等『立花宗茂』(人物叢書227、吉川弘文館) — 出版社の書籍紹介(人物叢書227「立花宗茂」内容紹介)立花宗茂については従来、軍記による武勇伝が流布してきたと学術的評伝の紹介で説明されており、逸話類は軍記・逸話集の層に属する。
「従来、軍記による武勇伝が流布してきたが、一次史料を駆使し生涯を描いた初の伝記。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。