〈立花宗茂〉秀吉が「東西無双」と称賛した
「東の本多忠勝、西の立花宗茂」を秀吉の言葉として記す同時代史料はない。立花家史料館の整理では「西国無双」の初出は明治2年(1869)『名将言行録』と推測され、先行する『明良洪範』(18世紀前半)の記事も内容が異なる。武勇への高い評価自体は豊臣期から実在した(柳川13万石への抜擢が傍証)。
検証リサーチ
「〈立花宗茂〉秀吉が「東西無双」と称賛した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
伝説。「東西無双」は同時代史料になく、江戸中期『明良洪範』と明治2年『名将言行録』が典拠。同時代の秀吉書状の褒め言葉は「九州之一物」。
くわしい根拠
結論
図鑑の区分「伝説」でよい。「東の本多忠勝、西の立花宗茂」を豊臣秀吉の言葉として書いた同時代史料(戦国当時の書状や日記)は見つからない。この話が確かめられるのは、江戸中期の逸話集『明良洪範』と、明治2年(1869)に初版が出た『名将言行録』という、いずれも後世の編纂物(あとの時代にまとめられた本)である[1][3][6][7]。ただし秀吉が宗茂の武勇を高く買っていたこと自体は、同時代の秀吉の書状で確認できる。そこでの言葉は「西国無双」ではなく「九州之一物」(九州いちの人物)だった[4][5]。
この話が最初に出てくる史料
立花家伝来の資料を守る立花家史料館は、「西国無双」の初出を『名将言行録』と推測している。「いまのところ、立花宗茂が "西国無双" とはじめて称されたのは…『名将言行録』[明治2年(1869)初版刊行]だと推測されます」[1]。
その原文はこうである。「彼レこそ東国ニ隠レ無キ本多平八ト云者なり、宗茂ハ西国無双ノ誉レ有レハ…東西ニ於テ無双ノ者ナレハ、我前ニ於テ対面ヲ許ス」[2]。場面は天正18年(1590)2月1日、諸大名が秀吉のもとに伺候した席とされる。
『名将言行録』は幕末の館林藩士・岡谷繁実が「1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた」列伝で[7]、秀吉より約280年あとの本である。史料は、同時代の書状や日記がいちばん強く、近世の軍記や逸話集、近代の編纂物とさかのぼるほど弱くなる。この逸話は、いちばん弱い層でしか確認できない。
異説や否定説
同じ場面は『明良洪範』(真田増誉編)にもあるが、筋が違う。「秀吉公島津を征伐有て帰陣の後 立花宗茂を殊の外賞美せられ 若年なれども武勇は西国にて一人也と度々申出さる…両人東西にて無双の勇士天下の能固め也と賞せらる」[3]。日付は書かれず、家康が上京した折の話になっており、褒め言葉も「西国にて一人」である。史料館は『明良洪範』の成立が『名将言行録』より150年ほど古いとみて、こちらが元だろうとする[3]。
成立年には幅がある。事典は『明良洪範』を「江戸中期成立の逸話・見聞集」「成立年不詳」とし、著者の増誉は1707年没と記す[6]。図鑑の「18世紀前半」は断定しないほうが安全である。
なお『名将言行録』にも「又黒田宮木安国寺ヘ賜ハリシ書ニハ、立花ハ九州第一ノ者トソ仰下サル」という別のくだりがあり[1]、これは後述する同時代の秀吉書状と内容が重なる。つまり同じ本の中でも、史料に対応する話と、対応しない話が混ざっている。
否定寄りの指摘もある。史料館は、天正18年2月1日は「豊臣秀吉による後北条氏攻めの先鋒が出陣した日らしい」ので「諸大名が一堂に会する場面はなかったのではないでしょうか」と疑問を示す[1]。
いっぽう同時代史料で確かなのは、天正14年(1586)9月10日付の豊臣秀吉判物(立花文書・重要文化財)[5]である。秀吉は黒田如水・安国寺恵瓊らに宛てた書状で宗茂を「九州之一物(九州一秀でた武将)」と激賞した[4]。史料館も展示解説で「豊臣秀吉に「九州の一物」と激賞され、柳川を城地とする筑後の大名となった」と書く[5]。
後世にどう語られたか
研究では、中野等『立花宗茂』(吉川弘文館、2001年)が「従来、軍記による武勇伝が流布してきたが、一次史料を駆使し生涯を描いた初の伝記」と紹介される[9]。裏を返せば、それ以前の宗茂像は軍記・逸話集が土台だった。
『名将言行録』自体、「歴史学界では信頼性に乏しい「俗書」扱い」との評価がある[7]。それでも現在の一般的な紹介では「2月1日、秀吉は諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し」と書かれる[8]。史料館は近年「西国無双」で語られる場面が増えたとし、「史料に則した「九州之一物」をアピールしていきたい」と述べている[1]。
読者が次に抱く疑問
Q1. 「九州之一物」の書状は本物? 立花家に伝わった立花文書の一通で、天正14年(1586)9月10日付の豊臣秀吉判物は重要文化財に指定され、特別展でも展示された[5]。宛先は黒田如水・安国寺恵瓊ら[4]。
Q2. 本多忠勝側の史料には出てくる? 今回確認できた範囲(立花家史料館の記事、事典、書誌)では、徳川方の同時代史料に「東西無双」の逸話は見あたらなかった。『名将言行録』は忠勝も立項するが、明治の編纂物である[7]。
Q3. 『名将言行録』は何を見て書いた? 史料館は、引用書目に安東省菴『立花戦功録』(柳川藩の儒者による記録)が挙がる点に触れ、「九州の一物」のくだりもそこから入った可能性を示す[1]。逆に「東西無双」の場面がどの本から来たのかは、今回の調査では特定できなかった。
図鑑の記述への提案
- 区分「伝説」はそのままでよい。
- 「西国無双」の初出が『名将言行録』という点は正しいが、「東西にて無双」という言い回し自体は『明良洪範』に先行してある、と一言足すと正確になる[3]。
- 『明良洪範』の年代は「18世紀前半」と断定せず、「江戸中期(成立年不詳、著者の増誉は1707年没)」とするのが安全[6]。
- 傍証は図鑑のあげる「柳川13万石への抜擢」に加え、天正14年(1586)9月10日付の秀吉判物にある「九州之一物」を明記すると、同時代史料の裏づけがはっきりする[4][5]。
- 「秀吉が『東西無双』と称賛した」という見出しは、「明治の『名将言行録』が、秀吉の言葉として書いた」と言いかえるほうが、史料の段階が読者に伝わる[1][7]。
出典
- 立花家史料館スタッフBLOG「初代柳川藩主・立花宗茂はいつから“西国無双”となったのか」(Internet Archive 保存版)(本文冒頭)立花家史料館は、宗茂が「西国無双」と初めて称されたのは明治2年(1869)初版刊行の『名将言行録』だと推測し、天正18年2月1日という設定にも疑問を示す。
「いまのところ、立花宗茂が “西国無双” とはじめて称されたのは、修史家の岡谷繁実が192人に及ぶ武将たちのエピソードを記した『名将言行録』[明治2年(1869)初版刊行]だと推測されます。」
- 立花家史料館スタッフBLOG(『名将言行録』巻之27「立花宗茂」の引用)(Internet Archive 保存版)(引用『名将言行録』巻之27「立花宗茂」1869 玉山堂)『名将言行録』巻之27には、秀吉が宗茂を「西国無双ノ誉レ」、忠勝と合わせて「東西ニ於テ無双ノ者」と評したという記事がある。
「秀吉[立花]宗茂ヲ召シ、彼レこそ東国ニ隠レ無キ本多平八ト云者なり、宗茂ハ西国無双ノ誉レ有レハ、向後心ヲ通シテ、宗茂ハ西国ニ守護シテ、いよいよ忠を尽クシ、平八ハ家康ヲたすケテ東国ノ守護スベシ、東西ニ於テ無双ノ者ナレハ、我前ニ於テ対面ヲ許スト云ハレケレハ」
- 立花家史料館スタッフBLOG(『明良洪範』続篇巻之五の引用)(Internet Archive 保存版)(引用『明良洪範』続篇巻之五(国書刊行会、1912))『明良洪範』では秀吉が宗茂を「武勇は西国にて一人」と評し、忠勝と併せて「東西にて無双の勇士」と褒めたとされ、『名将言行録』とは場面も語も異なる。
「秀吉公島津を征伐有て帰陣の後 立花宗茂を殊の外賞美せられ 若年なれども武勇は西国にて一人也と度々申出さる 神君[徳川家康] 御上京有し時 本多忠勝を召連られしやと有しに 御供の由申させ給へば 則召出され立花と引合せられ 両人東西にて無双の勇士天下の能固め也と賞せらる」
- 立花家史料館スタッフBLOG「〚館長が語る2/6〛女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代」(Internet Archive 保存版)(立花城時代の項)秀吉は高鳥居城攻略の武功に対し、黒田如水・安国寺恵瓊らに宛てた書状で宗茂を「九州之一物」と激賞した。
「この武功に感じ入った秀吉は、黒田如水、安国寺恵瓊等に宛てた書状で宗茂を「九州之一物(九州一秀でた武将)」と激賞しています。」
- 立花家史料館 特別展「立花宗茂」みどころ(Internet Archive 保存版)(第2部 西国無双―武と花― 第1章 武の姿)史料館の展示解説は宗茂を「九州の一物」と激賞された大名と説明し、天正14年(1586)9月10日付の豊臣秀吉判物(立花文書)を重要文化財として展示した。
「豊臣秀吉に「九州の一物」と激賞され、柳川を城地とする筑後の大名となった宗茂の武人としての姿を、遺された武具を中心とした展示で再現します。」
- コトバンク「明良洪範」(改訂新版 世界大百科事典)(改訂新版 世界大百科事典)『明良洪範』は江戸中期成立の逸話・見聞集で成立年は不詳、著者の増誉は1707年に没したとされる。
「江戸中期成立の逸話・見聞集。16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏,諸大名その他の武士の言行,事跡等720余項目を集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?-1707,俗姓真田)の著。25巻,続編15巻。成立年不詳。」
- Wikipedia「名将言行録」(冒頭)『名将言行録』は岡谷繁実が1854年から1869年にかけて完成させた列伝で、史実との乖離が指摘され「俗書」扱いされることがある。
「幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた。」
- Wikipedia「立花宗茂」(生涯/天正18年(1590年)の項)現在の一般的な紹介では、天正18年2月1日に秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評したと書かれている。
「2月1日、秀吉は諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、その武将としての器量を高く褒め称えた」
- NDLサーチ 中野等『立花宗茂』(人物叢書 新装版、吉川弘文館、2001年)書誌(資料詳細 要約等)宗茂については長く軍記による武勇伝が流布しており、一次史料にもとづく伝記は2001年の中野等の著作が最初とされる。
「従来、軍記による武勇伝が流布してきたが、一次史料を駆使し生涯を描いた初の伝記。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。