〈明智光秀〉替え玉を見破り、生涯側室を持たなかった
疱瘡で顔にあばたの残った煕子の身代わりに送られた妹を見破って煕子を娶った、という逸話は『明良洪範』等の江戸期逸話集由来。ただしフロイス『日本史』には夫妻の結びつきの強さを示唆する記述があり、「側室不在」は完全な創作とも断じがたい。
検証リサーチ
「〈明智光秀〉替え玉を見破り、生涯側室を持たなかった」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「伝説」で妥当。同時代史料に無く、図鑑が挙げる『明良洪範』の全文にも該当話は無い。逆に『美濃国諸旧記』は正妻以外の子を記す。
くわしい根拠
結論
「疱瘡(天然痘)のあとが顔に残った煕子の代わりに妹が送られ、光秀がそれを見破って煕子を娶った」という話は、同時代史料(その時代に書かれた記録)には一つも見当たらない。図鑑が根拠に挙げる江戸中期の逸話集『明良洪範』を全文で確認したが、この話は入っていなかった[2][3]。「生涯側室を持たなかった」も同じで裏づけがなく、むしろ江戸期の地誌(土地の歴史書)『美濃国諸旧記』は、光秀に正妻以外の女性が産んだ長男がいたと書く[6][9]。区分「伝説」は妥当だが、根拠として挙げている書名は直したほうがよい。
この話が最初に出てくる史料
光秀の同時代史料の代表は、信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記』である。全十五巻に光秀の行動は細かく出るが、妻に関する記述は一つもない。本能寺の変の直前、愛宕山での連歌会も「廿八日西坊に而連歌興行 発句 維任日向守 ときは今あめか下知る五月哉 光秀」と公的な場面だけが記される[1]。
妻について残る同時代の記録は、公家・吉田兼見の日記『兼見卿記』の断片だけだ。『兼見卿記』は元亀元年(1570)から文禄元年(1592)にわたる安土桃山時代の重要史料で[8]、天正4年(1576)10月14日に煕子が病気になり、光秀が平癒(病気が治ること)の祈祷を兼見に頼んだ記事がある[7]。妻を気づかった事実は分かるが、結婚の経緯も「側室なし」も書かれていない。
図鑑が挙げる『明良洪範』は、江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持・増誉(?-1707)が著した江戸中期の逸話・見聞集で、25巻と続編15巻、1912年に国書刊行会が公刊した[2][3]。その国書刊行会本(正続40巻を1冊にまとめた翻刻)の全文を国立国会図書館のOCRテキストで検索したところ、「妻木」は0件、光秀に関する項目も「明智光秀の最後」など最期の話だけで、疱瘡も替え玉も出てこなかった。初出史料は特定できていない、というのが現状である。
異説や否定説
- 『美濃国諸旧記』(黒川真道編『国史叢書』1915年翻刻)[9]は、光秀の嫡子・作之丞光重の母を「山岸勘解由左衛門尉光信の娘にして、千草といふ美婦たりし」とし、「密通して設けたる長男なり」と記す。そのうえで次の子から「母は妻木勘解由左衛門範煕の女、本室なり」と書き分けている。側室不在どころか、正妻以外の子をはっきり書く近世史料がある[6][9]。
- ほかに喜多村保光の娘、原仙仁の娘を側室とする俗伝もある[6]。
- 子の数も系図ごとに違う。世界大百科事典は「系図類では数子を数えるが,確認されるのは2男3女である」とする[4]。系図がこれだけ揺れる以上、「側室の子は一人もいない」と断言できる土台がない。
- 煕子の伝記そのものにも否定説がある。江戸中期の軍記『明智軍記』は天正10年(1582)の坂本城落城のときの煕子の言動を書き、48歳で死去としているが、この説は信用できないとされる[7]。煕子の没年は『西教寺過去帳』の天正4年11月7日とするのが通説で、令和2年(2020)には大津市の聖衆来迎寺が所蔵する仏涅槃図の裏の寄進銘に煕子の戒名が見つかり、天正9年(1581)以前の死去がいっそう確からしくなった[7]。本能寺の変(1582)より前に亡くなっていた妻について、江戸の軍記が変の年まで生きていたように書いていたわけで、近世の物語がどれだけ自由に作られたかが分かる。
- 図鑑がいうフロイス『日本史』の記述は確認できなかった。事典が挙げるイエズス会士の記録は「長子はヨーロッパの王侯に比するほど優美な貴公子だった」という子どもの話で、夫婦仲の話ではない[4]。
後世にどう語られたか
光秀像は江戸の「太閤記物」でつくられた。決定づけたのは寛政11年(1799)初演の浄瑠璃『絵本太功記』で、実名を避けて「武智光秀」として登場する[4]。演劇研究でも『絵本太功記』の光秀を中心に「謀叛人」像が分析されている[5]。妻の話も同じ流れにある。越前の称念寺に伝わる「黒髪を売って連歌会の費用にした」話を松尾芭蕉が元禄2年(1689)に句に詠んでおり[7]、こうした断片が近代以降に「愛妻家・光秀」という一つの人物像へまとめられ、そこへ「替え玉を見破る」場面が加わったとみるのが自然である。
読者が次に抱く疑問
Q. 煕子は実在したのか。 実在は認めてよい。『細川家記』にガラシャの母として妻木範煕の女とあり[7]、同時代の『兼見卿記』にも光秀が妻の病を気づかった記録がある[7][8]。ただし「煕子」という名が見えるのは近世の家譜であって、同時代の記録ではない。
Q. 側室がいたと決まったのか。 いいえ。「いた」とする話も近世の伝承止まりである。正しくは「いた・いない、どちらも同時代史料では確かめられない」。
Q. 顔のあばたの話はどこから来たのか。 現在の解説も「結婚直前に疱瘡にかかり、左頬に跡が残った煕子を光秀は気にせずに迎えた」という逸話として紹介するにとどまり、初出史料は示されていない[7]。図鑑にある「妹が身代わりに送られた」という一段はさらに新しい脚色の可能性が高く、少なくとも江戸期の代表的な逸話集には見当たらなかった[2][3]。
図鑑の記述への提案
- 区分「伝説」は維持でよい。
- 「『明良洪範』等の江戸期逸話集由来」は削除または修正を提案する。国書刊行会本『明良洪範』の全文に該当話はない[2][3]。「初出史料は未詳。近世から近代の読み物のなかで形づくられた」が正確。
- 「フロイス『日本史』には夫妻の結びつきの強さを示唆する記述があり」は根拠を確認できなかった。削除するか、巻・章まで出典を明示すべき。
- 代わりに「同時代史料は『兼見卿記』天正4年の平癒祈祷の記事のみ。反対に『美濃国諸旧記』は正妻以外の子を記す」と添えると、読者が自分で判断できる。
出典
- 信長公記(ウィキソース・全文翻刻)(巻十五(二十九)愛宕山参籠・連歌興行の記事)同時代史料『信長公記』は光秀の行動を細かく記すが、妻や婚姻に関する記述はない(「妻木」の語は全文で0件)。
「廿八日西坊に而連歌興行 発句 維任日向守 ときは今あめか下知る五月哉 光秀 水上まさる庭のまつ山 西坊」
- 明良洪範(めいりょうこうはん)—改訂新版 世界大百科事典(コトバンク)(改訂新版 世界大百科事典「明良洪範」解説)『明良洪範』は江戸中期成立の逸話・見聞集で、聖輪寺住持の増誉(?-1707)の著、25巻・続編15巻、1912年に国書刊行会から公刊された。
「江戸中期成立の逸話・見聞集。16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏,諸大名その他の武士の言行,事跡等720余項目を集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?-1707,俗姓真田)の著。25巻,続編15巻。成立年不詳。1912年に国書刊行会より公刊されている(1冊)。」
- 「明良洪範」全(眞山増譽述、早川純三郎編輯、國書刊行會1912.1)—NDLサーチ(書誌情報)私が全文OCRを検索した『明良洪範』は、眞山増譽述・早川純三郎編輯で國書刊行會が1912年1月に刊行した正続合冊本である。
「資料種別図書タイトル「明良洪範」 全著者・編者眞山増譽 述、早川純三郎 編輯出版事項國書刊行會出版年月日等1912.1」
- 明智光秀—改訂新版 世界大百科事典(コトバンク)(改訂新版 世界大百科事典「明智光秀」本文および「伝承と作品化」)光秀の妻は妻木範凞の女とされるが、子は系図類で数が一致せず確認できるのは2男3女で、イエズス会士の記録が伝えるのは長子の容姿であり、光秀像は江戸の太閤記物、特に1799年初演の《絵本太功記》が決定づけた。
「妻は妻木範凞(のりひろ)の女。系図類では数子を数えるが,確認されるのは2男3女である。イエズス会士の記録によれば長子はヨーロッパの王侯に比するほど優美な貴公子だったという。」
- 原田真澄「太閤記物人形浄瑠璃作品に表われた謀叛人—『絵本太功記』の光秀を中心に—」演劇学論集(日本演劇学会紀要)55(2012)67-84頁(書誌・抄録ページ(55巻 p.67-84、DOI 10.18935/jjstr.55.0_67))『絵本太功記』の光秀は太閤記物の中心作として研究対象になっており、江戸期の人形浄瑠璃が光秀像を形づくったことが学術的に検討されている。
「太閤記物人形浄瑠璃作品に表われた謀叛人 ―『絵本太功記』の光秀を中心に― 原田 真澄」
- 明智光秀—ウィキペディア日本語版「妻室」節(「妻室」節)光秀には喜多村保光の娘・原仙仁の娘を側室とする俗伝や、正室を迎える前に山岸光信の娘(千草)に庶子を産ませたとする説があり、「側室を儲けなかった愛妻家」像は後年一般に伝わったものとされる。
「正室は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。本室の前に、山岸光信(進士光信)の娘(千草)に未婚で庶子を産ませたとする説もある。後年には「側室を儲けなかった愛妻家」と一般に伝わる。」
- 妻木煕子—ウィキペディア日本語版(「生涯」節)同時代史料『兼見卿記』には天正4年10月14日に煕子が病気になり光秀が吉田兼見に平癒祈祷を依頼した記事があり、疱瘡の跡や黒髪を売った話は逸話・伝承として紹介されている。
「天正4年(1576年)10月14日、煕子が病気になり、光秀は平癒の祈祷を吉田兼見に依頼している(『兼見卿記』)。10月24日には平癒したので、非在軒という者が銀一枚を持参して礼に行っている。」
- 兼見卿記—改訂新版 世界大百科事典(コトバンク)(改訂新版 世界大百科事典「兼見卿記」解説)『兼見卿記』は吉田兼見(1535-1610)の日記で、元亀元年(1570)から文禄元年(1592)分などが残る安土桃山時代の同時代史料である。
「吉田兼見(1535-1610)の日記。兼見は兼右の子で,初名兼和,1586年(天正14)兼見と改名。従二位神祇大副。吉田神道の宗家として公武の神事祈禱をつかさどり,織田信長・豊臣秀吉らとも交渉があったため,その日記には神事関係以外にも政治情勢,社会,文芸など多方面の記事が含まれ安土桃山時代の重要史料である。」
- 美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記(国史叢書、黒川真道編、国史研究会、大正4年)—NDLサーチ(書誌情報(国立国会図書館永続的識別子 info:ndljp/pid/948838))光秀の庶子伝承を載せる『美濃国諸旧記』は、黒川真道編『国史叢書』の一冊として大正4年(1915)に国史研究会から刊行され、国立国会図書館デジタルコレクション(pid 948838)で公開されている。
「黒川真道 編出版者国史研究会出版年大正4資料形態マイクロ・デジタルページ数・大きさ等462p ; 19cmNDC215.3」
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