〈明智光秀〉黒幕がいた(朝廷・義昭・秀吉・家康・イエズス会)

いずれも決定的史料を欠き、呉座勇一『陰謀の日本中世史』(2018)が体系的に批判。「突発的な単独犯行で黒幕はいない」が学界の大勢である。義昭黒幕説の根拠とされた土橋重治宛光秀書状(2017年原本確認)も、変後の利用を示すのみで事前共謀の証拠にはならない。

検証リサーチ

「〈明智光秀〉黒幕がいた(朝廷・義昭・秀吉・家康・イエズス会)」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 88 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

「伝説」で妥当。黒幕は同時代史料『信長公記』『惟任退治記』に一切出ず、初出は1967年以降の著作。ただし「単独犯行が学界の大勢」も言い過ぎ。

くわしい根拠

結論

図鑑の区分「伝説」は妥当です。「黒幕がいた」という話は、事件当時の史料には一つも出てきません。変の直後に書かれた記録は、どれも光秀と明智家の重臣たちの犯行として書いており、朝廷・足利義昭(あしかが・よしあき)・秀吉・家康・イエズス会のいずれも黒幕としては登場しません [1][2]。黒幕説はすべて、昭和42年(1967年)以降に作家や研究者が組み立てた「推理」です [8]。

ただし図鑑の本文には、直したほうがよい点が2つあります。「学界の大勢」の書き方と、土橋重治(つちはし・しげはる)宛書状の扱いです。最後に提案します。

この話が最初に出てくる史料

まず、変そのものを伝える最も古い記録を見ます。

(1)『信長公記』(しんちょうこうき) — 信長の側近くにいた太田牛一(おおた・ぎゅういち)の記録です。謀反の場面はこう書かれています。「維任日向守光秀 企逆心 明智左馬助 明智次右衛門 藤田伝五 斎藤内蔵佐 是等とし而談合を相究 信長を討果し天下主と可成調儀を究」[1]。相談相手は明智家の重臣4人だけ。動機は「天下の主となる」ため。外部の人物は一人も出てきません。

(2)『惟任退治記』(これとうたいじき) — 羽柴秀吉に仕えた大村由己(おおむら・ゆうこ)が、変と同じ天正10年(1582年)の10月に書き上げた記録で、変後に書かれた同時代史料として原文と現代語訳が公刊されています [2][6]。ここでも「惟任奉公儀、揃二万余騎之人数、不下備中、而密工謀反、併非当坐之存念、年来逆意、所識察也」[2]。「年来(としごろ)の逆意」、つまり光秀が前々から抱いていた謀反心で動いた、という説明です。誰かに命じられたという話は出てきません。

つまり黒幕説には「初出史料」がなく、あるのは初出の「本」だけです。作家の八切止夫(やぎり・とめお)が昭和42年(1967年)に『信長殺し、光秀ではない』で「実行犯は光秀ではない」と書いたのが口火で [8]、そこから朝廷説・義昭説・イエズス会説などが次々に生まれました [8]。

異説や否定説

そもそも動機自体に定説がありません。『改訂新版 世界大百科事典』(岩沢愿彦執筆)は「光秀謀反の原因には怨恨説,陰謀露顕説,保身説,政権奪取説,武士の面目説などが主張されている。しかしいずれも唯一の原因とみなすべき論拠を欠き,またこれらをすべて否定し去る確証もない」と書きます [3]。共同通信の用語解説も、怨恨説・野望説と並べて黒幕説を「諸説」の一つとして紹介するにとどめています [4]。

否定側の代表が、鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(2006年)です。黒幕説には共通して(a)黒幕が光秀とどう接触したかの説明がない、(b)決行時期の見通しと機密漏洩の防止策の説明がない、(c)重臣たちをどう説得したかの説明がない、(d)黒幕が変の前後に光秀を助けていないことの説明がない、(e)裏付け史料が全くない、という5つの穴があると指摘しました [8]。呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書、KADOKAWA、2018年3月)は、この流れをさらに広い視野でまとめた本です [5]。

義昭説を最初に明確に否定したのは宮本義己で、変後に光秀が細川父子へ送った覚書に義昭の名が全く出ないこと、義昭を保護していた毛利氏が変を予期していなかったことなどを挙げています [8]。

後世にどう語られたか

光秀は江戸時代の「太閤記物」で悲劇の主人公として脚色され、確かな記録が乏しいまま伝承で語られてきた人物です [7]。史料が少ないぶん想像の余地が大きく、そこへ小説家や在野研究者が参入して説が増え続けました [8]。整理を試みた一覧では、真相をめぐる説は59にも分類されています [8]

整理された「本能寺の変の真相」諸説の数
59説
出典: [8] 本能寺の変 - Wikipedia(諸説概論・黒幕存在説)

。

読者が次に抱く疑問

Q1. 土橋重治宛の書状は「証拠」ではないのですか。 天正10年6月12日、つまり変の10日後に光秀が紀州の雑賀衆(さいかしゅう)・土橋重治へ送った書状に「上意」「御入洛の事、即ち御請申し上げ候」とあります [9]。ここを藤田達生は「あらかじめ義昭側から働きかけがあった」と読み、他の研究者は「変のあとで義昭を担ごうとしただけ」と読みます [9]。読み方が割れているのが実情で、一方に決着してはいません。

Q2. 学界は「突発的な単独犯行」で決着したのですか。 していません。突発説は野望説から派生した一つの説で [8]、事典も「いずれも唯一の原因とみなすべき論拠を欠く」としています [3]。

図鑑の記述への提案

  1. 「『突発的な単独犯行で黒幕はいない』が学界の大勢である」は、**「黒幕説はいずれも裏付け史料を欠き、学界では支持されていない。ただし動機についての定説もまだない」**に改めるのが正確です [3][8]。
  2. 土橋重治宛書状について、**「変後の利用を示すのみ」と断定せず、「日付は天正10年6月12日(変の10日後)で、事前の連携を読み取る藤田達生と、変後の擁立とみる立場に読みが分かれる」**と書き分けるのがよいと考えます [9]。
  3. 「2017年原本確認」は、所蔵機関(美濃加茂市民ミュージアム)を添えると読者が確かめやすくなります [9]。
  4. 同時代史料の名を1つ挙げると説得力が増します。『信長公記』と『惟任退治記』のどちらにも黒幕は出てこない、という一文を足すことを勧めます [1][2]。

図表

『惟任退治記』の成立
天正10年(1582年)10月
出典: [2] 惟任退治記(大村由己、天正十年十月)— ウィキソース所収テキスト

出典

  1. 信長公記(太田牛一)— ウィキソース所収テキスト(巻十五(三十一)明智日向守逆心之事)
    信長に近侍した太田牛一の『信長公記』は、謀反を光秀と明智家の重臣4人の談合として記し、外部の黒幕には一切触れない。
    「維任日向守光秀 企逆心 明智左馬助 明智次右衛門 藤田伝五 斎藤内蔵佐 是等とし而談合を相究 信長を討果し天下主と可成調儀を究」
  2. 惟任退治記(大村由己、天正十年十月)— ウィキソース所収テキスト(本文前半(愛宕山連歌の直前)/奥書「天正十年十月日 大村由巳認之」)
    変と同じ天正10年10月に大村由己が書いた『惟任退治記』は、謀反を光秀自身の「年来の逆意」と説明し、黒幕を挙げていない。
    「惟任奉㆓公儀㆒、揃㆓二万余騎之人数㆒、不㆑下㆓備中㆒、而密工㆓謀反㆒、併非㆓当坐之存念㆒、年来逆意、所㆓識察㆒也」
  3. 本能寺の変 — 改訂新版 世界大百科事典(岩沢愿彦執筆、コトバンク)(改訂新版 世界大百科事典「本能寺の変」(執筆:岩沢愿彦))
    事典は光秀謀反の原因に複数の説があるとしたうえで、いずれも唯一の原因とみなす論拠を欠くとする。
    「光秀謀反の原因には怨恨説,陰謀露顕説,保身説,政権奪取説,武士の面目説などが主張されている。しかしいずれも唯一の原因とみなすべき論拠を欠き,またこれらをすべて否定し去る確証もない。」
  4. 本能寺の変 — 共同通信ニュース用語解説(コトバンク)(共同通信ニュース用語解説「本能寺の変」(更新日:2014年6月23日))
    黒幕説は怨恨説・野望説と並ぶ「諸説」の一つとして紹介されており、定説としては扱われていない。
    「光秀は実行犯で、何者かに操られた黒幕説―などがある。長宗我部元親が領有する四国をめぐり、光秀が信長の方針転換に納得せず、四国攻めを止めようと反旗を翻したとする四国説もある。」
  5. 「陰謀の日本中世史」の検索結果(国立国会図書館サーチ)(検索結果一覧 1件目の書誌)
    呉座勇一『陰謀の日本中世史』は角川新書K-196として2018年3月にKADOKAWAから刊行され、新書大賞2019第3位を受賞した。
    「陰謀の日本中世史 (角川新書 ; K-196)紙記録メディアデジタル図書障害者向け資料あり呉座勇一 [著]KADOKAWA2018.3」
  6. 「惟任退治記」の検索結果(国立国会図書館サーチ)(検索結果『ここまでわかった!明智光秀の謎』(KADOKAWA、2014.9)要約等)
    『惟任退治記』は本能寺の変後に書かれた同時代史料と位置づけられ、原文と現代語訳が公刊されている。
    「寺の変後に書かれた同時代史料「惟任退治記」全文の原文・現代語訳を掲載。」
  7. 知られざる「明智光秀」を訪ねて(福知山市オフィシャルホームページ)(「01 福知山城」節)
    光秀ゆかりの自治体の解説も、光秀については確かな記録が乏しく、伝承で語られる部分が多い人物だとする。
    「歴史に大きく名を残しながらも、その功績の多くが伝承だけで伝えられているなど謎の多い光秀。」
  8. 本能寺の変 - Wikipedia(諸説概論・黒幕存在説)(「諸説概論」節)
    黒幕説の口火を切ったのは1967年の作家・八切止夫の著書であり、以後2006年の鈴木眞哉・藤本正行らによって史料的根拠の欠如が批判された。
    「作家八切止夫は、昭和42年(1967年)に著書『信長殺し、光秀ではない』を発表して主犯別在説(いわゆる、陰謀論の一種)の口火を切った。」
  9. 本能寺の変 - Wikipedia(足利義昭黒幕説・土橋重治宛書状)(「VII. 黒幕存在説」節・足利義昭黒幕説)
    足利義昭黒幕説の根拠とされる光秀書状は天正10年6月12日付で紀州の雑賀衆・土橋重治に宛てたものであり、その解釈は研究者の間で割れている。
    「加えて本能寺の変の直後の6月12日、光秀が紀州の雑賀衆・土橋重治へ送った書状において、「上意馳走申しつけられて示し給い、快然に候」と光秀より身分の高い者からの命令を指す「上意」という言葉を使った上で」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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