〈伊達政宗〉「五常訓」は政宗の遺訓

「仁に過ぐれば弱くなる…」に伊達家の記録文書上の根拠はなく、幕末編纂の『源貞氏耳袋』に他人の遺訓として類文が載る。仙台市図書館・宮城県図書館のレファレンスでも「政宗自身の作と確認できない」とされ、後世に政宗へ仮託されたものと考えるのが定説である。

検証リサーチ

「〈伊達政宗〉「五常訓」は政宗の遺訓」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

伝説。政宗の作と示す同時代史料はなく、政宗の遺訓として活字になった初出は没後258年の明治27年『好古叢誌』。江戸期は光圀らの遺訓とされていた。

くわしい根拠

結論

「仁に過ぐれば弱くなる…」で始まる「五常訓(ごじょうくん)」は、政宗が書いたと確かめられる史料がない。図鑑の区分「伝説」は妥当である[1][2]。伊達家に伝わる記録や古文書のなかに根拠が見つからず、政宗の遺訓として活字になった最も古い例は、没後およそ260年たった明治27年(1894年)の雑誌『好古叢誌(こうこそうし)』第三編八の巻の「漫録(まんろく=雑記欄)」だとされる[1][7]。政宗は永禄10年(1567年)に生まれ、寛永13年(1636年)に亡くなった人物である[9]。この長い空白が、この話のいちばんの弱点である。

政宗の没年から活字初出までの年数
258年
寛永13年(1636)没→明治27年(1894)『好古叢誌』第三編八の巻
出典: [1] 伊達政宗 - Wikipedia(日本語版)「伊達政宗五常訓」節

この話が最初に出てくる史料

政宗と同じ時代の史料(政宗自身の書状や、伊達家が編んだ『貞山公治家記録』など)には出てこない。宮城県図書館は調べ物相談(レファレンス)の回答で、仙台市民図書館編『要説宮城の郷土誌』(1983年)の「「五常訓」は伊達政宗の作かどうか」の項を典拠資料に挙げている[2]。同項は「五常訓と称せられるものについては、伊達氏に関する記録文書のどれにも、根拠となるものが見当りません」と結論づけ、俗説であって歴史的事実としては否定されるとする(仙台市が公開していたPDFの写しが https://web.archive.org/web/20141026035333/http://lib-www.smt.city.sendai.jp/localdata/miyagino_kyodoshi.pdf に残る)。

同項が引く作並清亮(さくなみきよすけ)は、明治期に伊達家の史料編纂に約30年たずさわった当事者で、随筆『鳳泉随筆』に「予三十年来伊達家史料編纂に従事してその記録古文書類大かた見尽したれど未だその遺訓は見当らざりし」と書いた。そのうえで、活字になった最初は**明治27年の『好古叢誌』第三編八の巻の漫録「仙台黄門政宗卿遺訓」**だと特定している[1]。『好古叢誌』は明治25年(1892年)に東京の好古社が始めた「好古考証趣味の雑誌」で[8]、第三編の各巻は明治27年に刊行されている[7]。つまり初出は伊達家の記録ではなく、古物好きが集まる同人誌に近い雑誌である。しかも作並が編者に出所をたずねると「詳ならず」(わからない)という返事だった。

異説や否定説

(1)もとは水戸光圀の言葉とされていた。 江戸後期の随筆『理斎随筆』(志賀忍)は、前半とほぼ同じ文を「水府義公(=水戸光圀)御染筆」の一軸として載せる。後半の「此世に客に来たと思へば…」は『好古漫録』に「閑通和尚座右銘」として出る。作並はこの二つを継ぎ合わせて政宗の遺訓に仕立てたのだろうと論じた。

(2)幕末の仙台にも政宗説はなかった。 郷土史家の三原良吉は、幕末に編まれた仙台の随筆『源貞氏耳袋』の一ノ二二・四ノ二四に、同じ文が「水戸黄門光圀卿御遺訓」「紀伊中納言治資卿御作」として載ることを示し、幕末までは政宗の遺訓なるものは存在しなかったと述べた。この指摘は『仙台市史』第1巻(1954年)に収められている[3]。宮城県図書館には実際に「『源貞氏耳袋 第1巻』の水戸光圀卿御遺訓は本当に光圀の遺訓か」という相談も寄せられている[6]。

(3)図書館の調査も否定的。 神戸市立中央図書館は「家訓・名言集・伝記などに見当たらず」とし、政宗の作という根拠はないとする[4]。安城市図書情報館は、学術的な編纂物である『武家家訓・遺訓集成』にも政宗の遺訓は載っておらず、結局は現代の時代小説から本文を紹介したと記録している[5]。

(4)反対に「政宗作」を裏づける史料は見つかっていない。 明治39年(1906年)の『仙台士鑑』は「貞山公五常訓」として掲げるが、同書自身が「公が作に非ずと為すもの有り」と、当時すでに異説があったことを書いている(国立国会図書館デジタルコレクションの全文テキストで確認)。

後世にどう語られたか

明治以降、政宗の遺訓として広まった[1]。昭和9年(1934年)の渡部義顕『伊達政宗』は「第六十一章 伊達政宗の五常訓」という章を立て、「仁に過れば弱くなる。義に過れば固くなる。禮に過れば諂となる。智に過ればうそをつく。信に過れば損をする」と本文を掲げる[3]。同じ文は林子平の最期の言葉としても流布した(『仙台案内』明治23年刊)。さらに徳川家康の「人の一生は重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし」と並べて「日本三大遺訓」と呼ぶ商品も出回った。作者名だけが時代ごとに入れ替わっていったわけである。

読者が次に抱く疑問

Q1 では誰の言葉なのか。 わからない。江戸後期には光圀、幕末には光圀や紀伊中納言、明治には政宗や林子平と、持ち主が次々に変わった。特定の作者は今も不明である。

Q2 政宗の自筆は残っていないのか。 自筆・写しとも確認されていない。伊達家の史料を30年見続けた作並清亮が見つけられなかったことが、その傍証になる[2]。

Q3 内容が政宗らしくないから偽物なのか。 そうではない。「らしさ」は主観であり、判断の根拠はあくまで史料の有無である。

図鑑の記述への提案

  1. 区分「伝説」はそのままでよい。
  2. 「幕末編纂の『源貞氏耳袋』に他人の遺訓として類文が載る」は、巻次と名義まで書くと強くなる。例:「一ノ二二・四ノ二四に「水戸黄門光圀卿御遺訓」「紀伊中納言治資卿御作」として同文が載る(三原良吉の指摘、『仙台市史』第1巻所収)」[3]。
  3. 初出を明記したい。「政宗の遺訓としての活字初出は明治27年(1894年)『好古叢誌』第三編八の巻の漫録「仙台黄門政宗卿遺訓」で、編者自身が出所不詳と答えている」[1][7]。
  4. 「仙台市図書館・宮城県図書館のレファレンス」は、正確には仙台市民図書館編『要説宮城の郷土誌』(1983年)の項目と、それを典拠に挙げる宮城県図書館のレファレンス事例[2]。「レファレンスでも」より「郷土誌の解説と図書館のレファレンス事例が」と書くほうが正しい。
  5. 江戸後期の『理斎随筆』が同文を水戸光圀のものとすること、作並清亮が二つの文章の継ぎ合わせと論じたことを一行足すと、「なぜ偽作と分かるか」が読者に伝わる。

図表

同じ文に与えられた作者名の数
4人以上
水戸光圀・紀伊中納言治資・伊達政宗・林子平
出典: [1] 伊達政宗 - Wikipedia(日本語版)「伊達政宗五常訓」節

出典

  1. 伊達政宗 - Wikipedia(日本語版)「伊達政宗五常訓」節(人物・逸話 > 伊達政宗五常訓)
    五常訓は明治以降に流布した俗説で、政宗の遺訓としての初出は明治27年の『好古叢誌』第三編八の巻の漫録であり、伊達氏関係史料に根拠がない。
    「明治時代以降、伊達政宗の遺訓とされるものが俗説として流布している。これらは幕末から明治にかけて水戸光圀・林子平などの遺訓とされ、伊達政宗の遺訓としては明治27年の『好古叢誌』第三編八の巻漫録「仙台黄門政宗卿遺訓」が初出だが、伊達氏に関連する史料の中にその根拠となるものは見当たらないという」
  2. レファレンス協同データベース 宮城県図書館 事例 MYG-REF-220075(回答プロセス)(回答プロセス 資料17・資料18)
    宮城県図書館は、五常訓が政宗の作かどうかを論じた仙台市民図書館編『要説宮城の郷土誌』の項と、三原良吉「貞山様遺訓なるもの」を調査資料として挙げている。
    「資料17 仙台市民図書館編『要説宮城の郷土誌』宝文堂, 1983【K015/セ1-4】pp.168-170「五常訓」は伊達政宗の作かどうか https://lib-www.smt.city.sendai.jp/?action=common_download_main&upload_id=3120 (最終アクセス日:2022/06/12) 資料18 仙台郷土研究会『仙台郷土研究』13巻5号(昭48.5). 無一文舘書店【PK201/セ】pp.10-11三原良吉「貞山様遺訓なるもの」」
  3. レファレンス協同データベース 宮城県図書館 事例 MYG-REF-220075(備考)(備考欄)
    昭和9年(1934年)刊の渡部義顕『伊達政宗』には「伊達政宗の五常訓」という章があり、「仁に過れば弱くなる」以下の本文が載る。
    「資料20 渡部義顕『伊達政宗』伊達政宗刊行会, 1934【K289/タ3-7】 pp.317-318「第六十一章 伊達政宗の五常訓」の項 「五常訓 仁に過れば弱くなる。義に過れば固くなる。禮に過れば諂となる。智に過ればうそをつく。信に過れば損をする。(後略)」」
  4. レファレンス協同データベース 神戸市立中央図書館 事例 神戸図-254(回答)
    神戸市立中央図書館は、家訓・名言集・伝記に政宗の家訓が見当たらず、五常訓が政宗の作という根拠はないと回答している。
    「家訓・名言集・伝記などに見当たらず。 宮城県立図書館のレファレンス事例によると「五常訓」は政宗の作という根拠がないらしい。」
  5. レファレンス協同データベース 安城市図書情報館 事例 1426(回答プロセス 3〜4)
    学術的編纂物『武家家訓・遺訓集成』にも政宗の遺訓は収録されておらず、現代の時代小説から本文を紹介せざるを得なかった。
    「3.館内検索機「家訓」にて検索→「武家家訓・遺訓集成」(156.4/オザ)ヒット。中を確認するが政宗の遺訓は掲載なし。 4.館内検索機「遺訓」にて検索→「政宗遺訓」(B913.6/サエ/HN)ヒット。中を確認。P300に遺訓の掲載あり。⇒こちらを提供。」
  6. レファレンス協同データベース 宮城県図書館 事例 MYG-REF-090136(質問)
    『源貞氏耳袋』第1巻には同種の文が「水戸光圀卿御遺訓」として載っており、その真偽が問い合わせの対象になっている。
    「『源貞氏耳袋 第1巻』に載っている水戸光圀卿御遺訓が本当に水戸光圀の遺訓であるかどうか裏付けをしたい。参考となる資料を紹介して欲しい。」
  7. 国立国会図書館サーチ 書誌「好古叢誌 第三編巻七」(みやこのじょうデジタルアーカイブ提供)(書誌情報)
    『好古叢誌』第三編の各巻は明治27年(1894年)に刊行されており、初出とされる第三編八の巻もこの年にあたる。
    「タイトル 好古叢誌 第三編巻七 著者・編者 大槻如電 出版年月日等 明治27年(1894年)8月6日 数量 1冊」
  8. 国立国会図書館サーチ 書誌「好古叢誌」(好古社)(資料詳細 内容細目)
    『好古叢誌』は明治25年に東京の好古社が創刊した好古(古物・古習俗)考証の雑誌であり、伊達家の公式記録ではない。
    「好古考証趣味の雑誌。図入り。巻1巻頭に「好古叢誌のはしめにしるす詞」(明治25年1月、従三位伯爵松浦詮)あり」
  9. コトバンク「伊達政宗」(デジタル大辞泉ほか)(デジタル大辞泉)
    伊達政宗の生没年は1567年〜1636年であり、明治27年の初出まで約260年の隔たりがある。
    「だて‐まさむね【伊達政宗】 [1567~1636] 安土桃山時代 から江戸初期にかけての武将。 出羽 の人。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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