〈伊達政宗〉小十郎が右目をえぐり出した
「飛び出した眼球を片倉小十郎が小刀でえぐった」「政宗自らくり抜いた」等の劇的な話は江戸期以降の軍記・講談由来。1974年の瑞鳳殿発掘調査では頭蓋骨の右眼窩に骨の損傷が認められず、眼球摘出説は否定的に評価されている。
検証リサーチ
「〈伊達政宗〉小十郎が右目をえぐり出した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
伝説。同時代史料になく、仙台藩の正史『伊達治家記録』付録が「言い伝え」と断って載せるのが古い例。政宗自身が切ったとする別バージョンもある。
くわしい根拠
結論
図鑑の区分「伝説」は妥当です。ただし本文には直したほうがよい点が三つあります。
第一に、「小十郎がえぐった」話と「政宗が自分でくり抜いた」話は、別々の史料に出てくる別バージョンです。前者は仙台藩の正史の付録、後者は江戸中期の逸話集で、内容が食い違います [1][2]。
第二に、前者を載せる仙台藩の正史『伊達治家記録』自身が、この話を「言い伝え」と断って書いています [1]。藩の公式記録が「これは伝聞だ」と注記しているという事実が、いちばん強い判断材料です。
第三に、「1974年の発掘で右眼窩(がんか。目玉が入る骨のくぼみ)に骨の損傷がない → 眼球摘出説は否定」という説明は、根拠としては弱いものです。理由は後述します。
この話が最初に出てくる史料
政宗自身の手紙など同時代の一次史料に、この話は見あたりません。政宗が晩年に語った言葉を集めた『命期集(貞山公行状)』には、辞世として「照㆓一眼㆒迎㆓閻王㆒ 我是陸奥守」(ひとつの眼を照らして閻魔王を迎える、我はこれ陸奥守)が載り、隻眼であることは本人も自覚していました。しかし目玉を取ったという話は出てきません [6]。
文字で確認できるいちばん古い部類の記録は、仙台藩4代藩主・伊達綱村の代にまとめられた『伊達治家記録』(性山公・貞山公ほか御四代治家記録は元禄16年=1703年成立)の付録「片倉備中景綱」伝です [4]。政宗の死(1636年)から67年後の編纂物です。そこでは、疱瘡(ほうそう。天然痘)で右目が見えなくなり、のちに右の肉が盛り上がって眼球が外へ出てしまい、たいへん見苦しかったので「突き潰せ」と命じたが、おそれて誰も従わず、景綱が小刀で突き潰した、という筋になっています。そして末尾に「と言い伝へ」と付いています。東京大学史料編纂所『大日本史料』の元和元年10月14日条(片倉景綱の死)に、この付録本文が引用されています [1]。
引用(国立国会図書館デジタル資料のOCR文字起こし。〓は判読不能字):「恐懼して敢順ふ者なし、時よ乃景綱小刀を以〓衝潰し奉はと言傳ヘヱ」=「おそれて従う者がいなかった。そこで景綱が小刀で突き潰し申し上げた、と言い伝えている」 [1]
異説や否定説
江戸中期の逸話・見聞集『明良洪範』続篇巻二は、まったく別の筋を伝えます。同書は江戸千駄ヶ谷・聖輪寺の住持だった増誉(〜1707年)の著で、1912年に国書刊行会から活字化されました [3]。そこでは小十郎が「組み討ちで垂れ下がった目玉を敵につかまれたら必ず負けます。切り捨てなさい。もし命にさわったら私も切腹してお供します」と進言し、政宗自身が目玉を切り落としています [2]。血が出て気を失いかけた政宗を、小十郎が「鎌倉権五郎景政は目に矢が刺さっても戦い抜いた」と大声で叱咤し、政宗は後年まで「我目の玉を切落したる時の不覚は生涯の不覚也」と悔やんだ、と結びます。つまりこの版では小十郎は助言役であり、えぐった人ではありません。
一方、仙台市博物館は「この頃梵天丸は、疱瘡(天然痘)のために右眼を失明してしまいました」と書くにとどめ、政宗は親から授かった身体の一部を欠いたことを親不孝と考え、肖像画には右眼を描くように語ったと伝えています [5]。眼球を取り去ったとは書いていません。政宗が小姓の木村宇右衛門に語った言行録『木村宇右衛門覚書』にも、右脇腹を焼いた金串で処置した荒療治の話は出ますが、目の話は出てこないとされます [8]。
遺骨については、1945年の戦災で焼けた瑞鳳殿の再建にあたり発掘調査が行われ、遺骨は防腐用の石灰に守られて保存状態が良好でした [7]。この遺骨の眼窩に異常が見られなかったことから、摘出の逸話は創作だろうという見方があります [8]。ただし注意が必要です。眼球は軟らかい組織なので、眼球だけを取り除いても眼窩の骨に傷が残るとは限りません。骨に傷がないことは「摘出されなかった」ことの決定的証拠にはなりません。この話を伝説とみる主な根拠は、あくまで史料の系譜(同時代史料に出ない、正史自身が言い伝えと断る、二つの版が食い違う)のほうにあります。
後世にどう語られたか
『明良洪範』版は、明治・大正の通俗書に繰り返し引き写されました。国立国会図書館デジタル資料の全文検索では、『逸話文庫』(1911年)、『東西偉人言行録』(1913年)、『内外教訓物語』(1915年)、『武道極意』(1925年)に同じ場面が現れます [2]。「目の玉を切落したる時の不覚は生涯の不覚」という決めぜりふが、修養書・偉人伝を通じて広まったわけです。
見た目のイメージも後世の産物です。当時の史料に政宗が目を覆っていた様子はなく、俳優が刀鍔型の眼帯で右目を覆う演出は1942年の映画『獨眼龍政宗』に始まります [9]。
読者が次に抱く疑問
Q1. 眼球は本当に飛び出していたの? 「盛り上がって外へ出た」というのは『伊達治家記録』付録の表現で、伝聞として記されたものです [1]。同時代史料では確認できません。仙台市博物館は「失明」とだけ説明しています [5]。
Q2. 小十郎版と政宗自身版、どちらが正しいの? 現状では決められません。両方とも政宗の死後数十年以上たった編纂物で、しかも一方は自ら「言い伝え」と断っています [1][3][4]。史料の格でいえば同格の伝承が二つ並んでいる状態です。
Q3. なぜ藩の正史がこんな話を載せたの? 『伊達治家記録』は16代輝宗から幕末の慶邦までを記す伊達氏の正史で、家臣の忠義を示す逸話も集めています [4]。ただし裏づけのないものは「言い伝え」と注記して区別しており、編者自身が史実と伝承を分けようとしていたことが読み取れます [1]。
図鑑の記述への提案
区分「伝説」はそのままで妥当です。本文は次のように直すことを提案します。
- 二つの版を分けて書く。「片倉小十郎が小刀で突き潰した」は仙台藩の正史『伊達治家記録』付録(元禄16年=1703年成立)が「言い伝え」と断って載せる話 [1][4]。「政宗が自分で切り落とした」は江戸中期の逸話集『明良洪範』続篇巻二の別バージョンで、そこでの小十郎は助言役 [2][3]。現在の本文は両者をまとめて「軍記・講談由来」としていますが、片方は藩の正史の付録なので「軍記・講談由来」だけでは不正確です。
- 遺骨の記述を弱める。今回確認できた記述は「眼窩に異常が見られなかった」までで、「頭蓋骨の右眼窩に骨の損傷が認められず」と部位や損傷の種類を限定した形の記述は確認できませんでした [8]。また眼球摘出は骨に痕跡を残さないこともあるため、「眼球摘出説は否定的に評価されている」という書き方より、「決め手は史料の系譜であり、遺骨所見は補助的」と書くほうが正確です。
- 失明の原因は疱瘡(天然痘)と明記する。仙台市博物館の解説と一致します [5]。発掘調査が1974年(昭和49年)という年は正しく、図鑑の記述と食い違いはありません [9]。
出典
- 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」全文検索:『大日本史料』(東京帝国大学文学部史料編纂所編、1922年)元和元年十月十四日条所引『伊達治家記録』附録・片倉備中景綱伝(『大日本史料』元和元年十月十四日条(伊達政宗ノ臣片倉景綱卒ス)/NDL書誌ID 3450643・コマ41)仙台藩の正史『伊達治家記録』の付録は、政宗の突き出た右目を片倉景綱が小刀で突き潰したという話を、末尾に「と言い伝へ」と付けた伝聞として記している。
「恐懼して敢順ふ者なし、時よ乃景綱小刀を以〓衝潰し奉はと言傳ヘヱ、永祿元年より天正十年まて、廿五年之間之事、此餘ハ不知」
- 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」全文検索:『明良洪範 : 25巻 続篇15巻』(国書刊行会、1912年)ほか明治・大正期の通俗書4点(『明良洪範』続篇巻二/NDL書誌ID 990298・コマ199-200)『明良洪範』続篇巻二では、小十郎の進言を受けて政宗自身が目玉を切り落としたとされ、同じ場面が明治・大正期の通俗書(逸話文庫1911年、東西偉人言行録1913年、内外教訓物語1915年、武道極意1925年)にも引き写されている。
「されば下り出たる目玉不用のみならず却て害に成り申べければ切捨給ひて然るべし萬一切捨給ひて御命にさはる事も有らば某も切腹して冥土へ御供仕らんと云政宗至極尤也切捨べしとやがて下り出たる目の」
- コトバンク「明良洪範」(改訂新版 世界大百科事典、平凡社)(改訂新版 世界大百科事典「明良洪範」の項)『明良洪範』は江戸中期成立の逸話・見聞集で、江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(〜1707年)の著、1912年に国書刊行会から公刊された。
「江戸中期成立の逸話・見聞集。16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏,諸大名その他の武士の言行,事跡等720余項目を集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?-1707,俗姓真田)の著。25巻,続編15巻。成立年不詳。1912年に国書刊行会より公刊されている」
- コトバンク「伊達治家記録」(日本歴史地名大系、平凡社)(日本歴史地名大系「伊達治家記録」の項)『伊達治家記録』は16代輝宗から幕末の慶邦までを記す伊達氏の正史で、政宗を含む御四代治家記録は元禄16年(1703年)成立である。
「正式にはこのような名称はない。「伊達出自世次考」「伊達正統世次考」に続く伊達氏の正史を記したもの。一六代輝宗から最後の仙台藩主慶邦に至る。活字本は昭和四七―五七年に性山公治家記録より肯山公治家記録の続編巻三までの二四冊を刊行。次の種類がある。性山公貞山公義山公雄山公御四代治家記録六三巻田辺希賢ほか編元禄一六年成立」
- 仙台市博物館 収蔵資料データベース「主な収蔵品 11 伊達政宗に関する資料(1)」(1 政宗誕生 戦国武将への道のり/梵天丸から政宗へ)仙台市博物館は、政宗が右眼を失った原因を疱瘡(天然痘)による失明と説明し、政宗が肖像画には右眼を描くよう語ったと伝えている。
「この頃梵天丸は、疱瘡(天然痘)のために右眼を失明してしまいました。のちに政宗は、親から授かった身体の一部を欠いたことを親不孝と考え、肖像画の制作にあたっては、右眼を描くように、と語ったといいます。」
- ウィキソース『命期集』(貞山公行状。政宗晩年の言行録)原文(「政宗の法名及辞世」の条)政宗晩年の言行録『命期集』は辞世として隻眼を詠み込んだ句を載せるが、目玉を取り出したという逸話は載せていない。
「御辞世照㆓一眼㆒迎㆓閻王㆒我是陸奥守曇なき心の月を先立てゝうき世の闇を晴れてこそ行け」
- 公益財団法人瑞鳳殿 質問箱「遺跡の発掘調査について」(C-1〜C-2)瑞鳳殿再建にともなう発掘調査で政宗の遺骨が見つかり、防腐用の石灰のおかげで保存状態は良好であった。
「遺骨は放射状に崩れた石灰に埋もれた状態で発見されました。調査の結果、伊達政宗の遺体は楕円形の木製座棺に納められ、その隙間に防腐剤として石灰を詰めていたことが判明しました。この石灰カルシウム成分により遺骨の保存状態は良好でした。」
- ウィキペディア日本語版「片倉景綱」(逸話の節)『性山公治家記録』は景綱が小刀で突き潰したという話を言い伝えと断って記し、『明良洪範』では政宗自身が切ったとされ、遺骨調査では眼窩に異常が見られなかったとされる(補助的な参照)。
「『性山公治家記録』では、伊達政宗の疱瘡で失明した右の目が盛り上がったため片倉景綱が小刀で突き潰したと言い伝えにはある、と不正確な情報であることを断って記載している。」
- ウィキペディア日本語版「伊達政宗」(眼帯の由来の節)当時の史料に政宗が目を覆っていた様子はなく、刀鍔型の眼帯は1942年の映画『獨眼龍政宗』に始まる(補助的な参照)。
「通俗的なイメージでは、政宗は眼帯をつけていることが多く、彼のシンボルともなっているが、実際のところ当時の史料には政宗が目を覆っていた様子はない。政宗役の俳優が演技時に刀鍔型をした眼帯などで右目を覆う慣習は、古くは1942年の映画『獨眼龍政宗』において始まっている。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。