〈服部半蔵〉信康の介錯を拒んだ

天正7年(1579年)、二俣城での信康自刃に際し、正成が天方通綱とともに検使を務めたことは諸系譜・諸記録が伝える【史実】。しかし「介錯を命じられた正成が刀を投げ捨てて号泣し、代わって天方通綱が介錯した」という劇的な細部の初出は大久保忠教『三河物語』(江戸初期成立の家史・回想録)。正成は信康とほとんど面識がなく後世の潤色とする説、介錯したのは渋川四郎右衛門・渡辺半蔵(守綱)ら別人とする説もある(渡邊大門氏の指摘など)。

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