〈大久保忠隣〉上田城攻めを主張して遅参の一因を作った

慶長5年(1600)の軍議で忠隣が攻城を主張し、先を急ぐべしとする本多正信と対立したという。初出は江戸期の軍記・編纂物で、発言の対立構図は同時代史料では確認しがたい。上田攻めと遅参は史実だが、発言の割り振りは失脚を知る立場からの遡及的な物語化の疑いが強い。遅参の主因は大雨による使者の遅延など複合的で、忠隣個人の責任とする見方は現在では採られない。

関連

〈大久保忠隣〉上田城攻めを主張して遅参の一因を作った | デジタル城下町 お城図鑑